その名に込めて。シリーズ
操ver
夜が深まり、みんなの口数が少なくなる。重苦しい空気は苦手だ。大丈夫。きっと大丈夫よ。と、笑い飛ばしたかった。だけど、うまく話せない。不安。こんなにも不安に感じたのは、彼が私を置き去りにした日以来だ。
あの日、目覚めて、異変にはすぐに気付いた。世界にたった一人でほおりだされたような心許なさ。布団の中で私は泣いていた。まだ、彼の部屋を訪れて、この目で"いない"と確認したわけではないのに、わかってしまったのだ。気配がないこと。けして、口数は多くない。難しい顔をしていることも多い。近寄ることを躊躇う雰囲気を常に発するその人を、だけど私は一度も恐れたことはなかった。私を守ってくれる人。いつだって包みこんでくれていた。この人のことを信じていい。心の一番奥で私は理解していたのだ。その空気が消えてしまっている。
彼は、私を置いて出て行った。
私を危険な生活から遠ざけるため。
普通の娘の、普通の幸せを掴むように。
だけど、私は、
――この世で一番信じた人を失って、どうして幸せになれるというの?
彼のいない場所で、私は幸せになどなれない。
私の幸せは、彼の傍にしかない。
だから、強くなろう。
強くなって、危険から自分で身を守る。迷惑かけないように。守られるばかりではないように。今度は、私が彼の助けになれるように。そうしたら、もう私を遠ざける理由はない。強くなろう。強くなるから。
――どうか、どうか、もう一度、逢えますように。
どれほど、願ったろうか。
再び、私の名を呼んでもらえることを。それが私の夢――いやそのような淡いものではなく、私の生涯の"目的"になった。忘れることを、諦めることを、誰も諭したけれど、私は聞きいれず。やがて、私が彼を追い求めることが当然のものと周囲に認められるほど、長い時間が過ぎた。気付けば八年の月日が。そして、ようやく。
彼を見つけた。
だけど。再会した彼は、別人のようだった。
私の顔を見ることなく、背を向けたまま冷たく言い放たれた言葉。
『二度と俺の前に姿を現すな』
彼は変わってしまった。
私が慕った彼ではなくなった。
それを、私に突き付けてきた。
御庭番衆の誇りを失い、修羅と化した彼を、倒す。
新しい目的を、私は定めた。彼は敵だ。私の大切な仲間を手にかけようとした。憎むべき相手。倒すべき相手。月日は残酷に人を変えてしまうのだ。逃げてはいけない。私は強くなった。彼に会うために強くなったのに。その強さが今度は彼を敵だと、奮い立たせる。
目的を果たすためには、切り捨てなければならないものがある――かつて彼が言った言葉。冷静に、冷酷に、目的を遂行させる。任務は絶対。それが御庭番衆の生き方。だが、彼は、その"目的"を見誤った。だから私が、やめさせなければ。そのために、私は彼への想いを断ち切ると。だけど、
『蒼紫は必ず連れ帰る』
緋村が約束してくれた。
私もまた、目的を見誤るところだった。けれど、そんなことはしなくていいと。私は彼を待っていていいのだと。想いを断ち切ることなく、一番大切な気持ちを捨てることなく、彼の帰りを信じてもいい。
――ああ、
私は、彼を、蒼紫さまの帰りを待つ。
たとえ彼が以前の心を取り戻せなくとも、蒼紫さまを。
今度は、私が守るのだ。そう、私はそのために強くなった。
もう、迷わない。
夜が濃くなる。
大破した葵屋の前。仮宿にと白べこに寄宿することになっていたけれど、彼らが戻ってくるならば葵屋だ。だから私たちは葵屋の前で待つことにした。
何より、私はここで、彼を待ちたかった。八年前。彼が"出掛けて"行った場所で"帰り"を待つのだと。長い放蕩を。そうだ、あれは放蕩だ。出て行ったわけではない。だから、戻ってくる。それを迎えるのだ。
静まり返った空間。
私は闇夜に目を凝らす。
一番最初に見つけて、「帰ってきた」とみんなに知らせるのだと意気込んで。お増さんには「もう、瓦礫の上に登らないの! 怪我人なんだからね」と幾度も注意されたけど、高い位置にいた方が見つけやすい。私を心配してくれるのは嬉しいけれど、降りずにずっと見つめていた。
月が。
今宵の月は明るくて。
道しるべのように、照らし出されるのは。
叫ぶ、はずだったのに。
みんなに、知らせるはずだったのに。
違う。頭では叫んでいた。「帰ってきた!」そう叫んでいるつもりだった。だけど声は音にならず、私の体は自分のものではないように、瓦礫から飛び降りて駆け出している。折れているはずの肋骨に響き、痛みで身動きできなくなってもおかしくないのに、少しも苦痛を感じず、ただ走る。
風が私の頬を撫でつける。視界はかすんでいたが、見失わない。歯がゆいとばかりに手を伸ばせば、避けられることなく掴まれた。だが、その腕は冷たい。そういえば、昔から体温の低い人だった。
「あおしさまはひえしょうなの? ゆたんぽいる?」
幼き頃、抱きつくと、ひんやりした。夏はいいが冬は冷たい。他の人はそうはならないのに。と、誰だったかに言ったら、「それは冷え性なのかもしれませんね」と教えられ、それなら「湯たんぽ」を布団に敷いて眠ればいいと聞かされた。私はとてもいいことを知ったとばかりに、そのまま伝えた。すると彼にしては珍しく優しい顔つきになってから「湯たんぽならある」と返された。せっかく彼を喜ばせてあげられると思っていたのに、もう持っているのかと落胆した。後になって考えれば、「湯たんぽ」とは私のことだった。あの頃、私は彼にべったりひっついて眠る時も一緒だった。子どもの私は体温が高く、ぎゅうぎゅうくっついても厭わなかったのはそのせいだったのだろう。
そんな記憶が蘇りながら、相変わらず体温の冷たいその人の胸に飛び込めば、勢い余って崩れ落ちる。それでも構わず抱きつくと、
「操。」
絞り出すような声は、私の知っている堂々としたものとは違った。けれど、間違いなく彼のものである。繰り返し呼ばれてきた名が、初めて聞かされる寓話のごとく身を焦がす。名を、呼んで欲しいと。もう一度、呼んでもらえる日を。待ち望んだ。それが。
体を離し、手探るようにその顔に触れる。長い前髪をかき上げれば、ぶつかる瞳が揺れる。高台で再会をしたときは、目を合わすことはなく、背を向けたまま決別を言い渡された。思えば、彼らしくない。いかなる時も、真っ直ぐに、射抜くような眼差しで対峙する。潔い彼には不釣り合いな。あれは本心ではなかった。苦しんでいたのだ。だからといって、許されることではないけれど。
言わなければならないことが。言いたかったことが。たくさんある。
私は、
「蒼紫さまのこと、ずっと探してたの。あれから修行もいっぱいしたの。私、強くなったのよ。志々雄がよこした十本刀にだって勝ったんだから。もう、足手まといになんかならない。自分の身は自分で守れるんだから」
彼は私を見つめていた。
「蒼紫さまがいなくなってからも、蒼紫さまが使っていた部屋は私が毎日掃除していたんだよ。いつ帰ってきてもいいように、綺麗にしてたんだから。だけど、葵屋は潰れちゃったの。新しく建て直さなくちゃ。でも、蒼紫さまの部屋はちゃんとあるからね」
うなずくことも、答えることもないが、その眼差しは、強く。
「それまではね、白べこに住まわせてもらうことになってるの。知ってる? 白べこの牛鍋、とってもおいしいの。蒼紫さまもきっと気に入るよ。いっぱい食べて、そしたらすぐに怪我だって……あ、そういえば、蒼紫さま、怪我は。どこか痛む? 苦しい?」
その時になって、私は間抜けにも、血の匂いに気付く。
何をしているのか。手当をするべきが、自分のことばかりと恥じて、人を呼ぶためその身を離すが、強い力で阻まれる。
「操。」
――心配をかけた。
言葉数の少ない彼らしい。端的な。それでも。一言に、まるで幼子に返ったようなに込み上げてくる涙。押さえることなく泣きじゃくれば、遥か昔にそうされたように、大きな手が背に触れる。
もう、いいのだ。何もかもが終わったのだ。長く長く、終わりの見えない闇はもう。
それを肯定するように、まもなく、朝が訪れるだろう。さすれば、色々忙しくなる。だから、今、存分に泣いておこう。広い胸に包まれ、そんなことを思いながら、口にするのはただ一つ。再会を願い続けたその名を、
「蒼紫さま。」
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