月に狼

第一夜

 たしかに、私が悪いのかもしれない。
 夜十時。朝食用の食パンがないことに気付いてコンビニへ行くことにした。
 去年に母を事故で失ってから食事の支度は当番制だ。体調不良や事前連絡しておけばオッケイだけど、それ以外のことでのミスはお小遣いに響く。来月は観たい映画があるし、バーゲンもあるし、減額は絶対に阻止しなければならなかった。だから、こんな遅い時間に行くのはちょっと怖いなぁとは思ったものの、目と鼻の先だし、これまで危険な目(痴漢とか)に遭ったこともないし、変なことに巻き込まれることもないだろう。大丈夫。と思って出かけることにした。
 たぶん、その思い込みがよくなかったのだ。大丈夫、というフィルターを通してみた世界は、小さな異変を見過ごしてしまう。あとから考えたら、これから起きる厄介ごとの予兆だったに違いないことを私はすべてことごとくスルーしてしまった。たとえば家を出て自転車の鍵をはずし、こぎ始めてすぐに違和感を覚え後ろタイヤに触れるとパンクしていたこと。たとえば一番近くのコンビニでパンが売り切れだったこと。いずれかで諦めて家に帰っていればよかったのに私は諦めなかった。躊躇うことなく徒歩で向かうことに決め、ここまで来たのだからと次のコンビニへ向かった。そこでようやく目当ての食パンを購入して帰りの路についたのだ。
 そしたら、見つけてしまった。街灯と街灯の間の一番光が届かないあたりに、何か、いる、と。
 人ではない。猫…いや、大きさから言って犬……にしても大きい。それがドデーンと横たわっている。車にでも轢かれ這ってきたのだろうか。私はおそるおそる近寄った。見たところ血を流している様子はない。怪我ではないようだ。犬(ということにする)はぐったりとしながら私を見てきた。
「大丈夫?」
 言葉などわからないだろうけれど、つい言ってしまう。
 犬は目を伏せた。
「…………どうしよう。」
 置き去りにする……のも心苦しい。家は動物病院だったりするし、連れ帰って父に見せるべきだろう。とはいえ、かなり、でかい。ゴールデンレトリバーの一.五倍ぐらいある。
 面倒なことになったな、と額をバシバシ叩く。そんなことしても目の前の現実は変わらない。
 連れ帰るしかないので、その犬の前に背を向けて屈み、前足を持ち上げて肩に乗せてみる。ずりずりと左右の前足を肩に乗せると、思っていたよりずっと重くてバランスをとるのが難しい。それでもどうにか立ち上がったが、前後の足をだらんと伸ばした犬は私の身長を超えて、おかげで後ろ足を引きずる形になる。
「……仕方ないよね」
 そのままずるずる引きずって家に帰った。
 玄関に上がると大声で父を呼ぶ。父は風呂上りらしくパジャマ姿で現れたが、私の背負っている犬を見て顔面蒼白になった。
「……今日はひょっとして満月?」
「え……さぁ? どうだろ。ってか、それよりこの犬を診てあげてよ。重いし」
「あ、ああ、そうだな。ひとまず診療室へ」
 そう言うと、父は私の背後にまわりこんできて後ろ足を抱え、二人でえってらおっちらと隣接の診療所の方へ運んだ。
 診療台に横たわる犬を改めて見ると、本当に大きい。台からちょっとはみ出しかけているし。
「……ねぇ、これって犬?」
「いや、」と言いながら父はカレンダーを確認し、それから「やっぱり今日満月だった。マズイ」と続けておたおたと棚にあるドクターズバックを引っ張り出し始める。
「もしかして、狼?」
 私は疑問だったことを口にした。犬ではないだろうと思っていたけれど、狼だったら怖くて連れ帰れないので、無理やり犬だと思い込んだのだが、やっぱり狼なのかと。だとしたら、こんな都会の真ん中で、どういう経緯で、やってきたのだろう。
「違う。これは狼なんかじゃない」
「え? 違うの」
 なんだ、やっぱり犬なのか。私はほっとした。そうだよね、いくらなんでも狼がいるはずない。
「部屋に戻りなさい」
「え?」
「父さんはこれから出かけなくちゃならなくなった。朝までには戻る。お前は部屋で寝なさい」
「出かける? こんな夜に? というかこの犬はどうするの!?」
「これは大丈夫だ。朝になれば気付く。それより時間がない。いいな。説明は帰ってからする」
 そういうと父は私を無理やり診療所から追いたてた。
 父はどちらかといえば温厚な方で、理由もなく私を邪険にしたりはしない。それなのに、とても慌てていた。よほど重大な用事を思い出したのだろう。それも満月に関係するらしい。
 そういえば……母が生きていた頃、食卓で「今日は満月ね」と毎月言っていて、その夜、父はどこかへ出かけていた。ずっとそれが当たり前の日常だったから不思議にも思わず、そういうものなのだと納得していたけど、満月に何があるのだろう。そして今もそれは続いていたらしい。思い返せば毎月夜に出かけていた日があったように思う。
 気になる。けれど、今聞いても教えてはくれないだろう。
 しばらく考えたけれど、いい案を思いつけず、部屋に引き上げることにした。

*

 翌朝目覚めて階下に降りていくと、人の気配がする。父がすでに起きていた。それから食卓に見知らの男が座っている。灰色のスウェットを着ているがどうも窮屈そうだ。よく見ると右の胸にシミがあったのでそれは父のものであるとわかった。父はきっと平均的な身長をしているので、この男の人はかなり大きいのだろう。それから、とても綺麗な顔をしている。けれど無表情で冷たい印象を受けた。
――この人、どこかで見たことあるな……。
 私は父の傍に近寄る。
 誰なのか、と、昨日の犬はどうなったのか、と、どちらを先に聞くべきだろう。やっぱり命の危険性を鑑みれば犬だろうなと、
「ねぇ、昨日の犬どうなった?」と尋ねた。
「ここにいる」
「どこ?」
「ここ」
 父は振り返り男を指して、
「彼がそうだ」
「は?」
「彼は人狼なんだ」
「はぁ?」
 からかっているのかと思った。いや、からかっているのだろう。そういえば昨日は満月だった。満月には狼男は人間から狼に戻る。それにひっかけた全然面白くない冗談なのだ。父の笑いのセンスはゼロだから、きっとそうに違いない。
「お前には黙っていたが、これもいい機会だ。いずれは話さなければならなかったからな。まぁ、そこに座りなさい」
 ところが父は真顔になって私に席に着くように言った。
 その迫力に負けて、冗談でしょ、と茶化すこともできず座った。
「隠してきたが、うちは物の怪を治癒する能力を授かった一族なんだ。その中でも人狼。彼らの一族とは深い繋がりがある。彼らは満月の夜に狼になるのだが、その際に力のコントロールがうまくいかないことも多くてね。私たち一族がサポートしなければならないんだが、いやぁ〜昨夜はすっかり忘れていた。焦ったよ」
 真剣な口調だったけれど、最後のところは軽々しく聞こえた。気まづくて誤魔化しているのだろう。
 私はどう言うのが一番だろうかと考えながらシンプルに、
「本当の話?」
 と尋ねた。
 父は、もちろん、と言った後、彼の足を見てごらん、と続ける。
「足?」
 椅子を引いてテーブルの下をのぞいた。向かいに座る彼の足が見える。スウェットは上より下の方が合っていないらしく長ズボンが彼には七分丈ぐらいで、足首がむき出しになっている。そのむき出しの部分が真っ赤で擦り切れた痕があった。
 姿勢を戻すと父は少しだけ困惑した表情を浮かべていた。
「その傷は、お前が引きずってきたときに出来たものだ」
「え? あ……」そういえばあの犬を連れ帰るとき、ずるずる引きずった。「……すみません」
 思わず謝ってしまったけれど、倒れているところを助けたのだし、不可抗力なので謝る必要ないのではないか、お礼を言われてもいいくらいだ。あたり屋に因縁をつけられているような気になり腹が立ってきて、何か一言文句を言ってやろうと男の顔を見た。男もこちらを見ていて露骨に目が合う。
「助けてもらったことには感謝している」
 私の怒りを感じ取ったのか素早くそう言われた。
「だが、約束を忘れた君の父のせいでこうなったことも忘れないでもらいたい」
 続いた言葉に、感謝はご破算になる。この人は私を怒っている。まぁ、結構な傷がついているので(たぶんかなり痛い)、怒るのも無理はないのだけれど。
「いや、ホント、すみませんね。これまでは妻も覚えていて二重チェックしていたのですが、それがなくなって」
 父はぽりぽりと頭を掻きながら言った。
 話が本当なら満月の夜に父がこの人の一族のところへ行っていたことになる。そして、それを昨夜は忘れていたこともわかった。そのせいで男は父を呼びに来たのだろう。それもわかる。
「約束を破ったって言うけど、そもそもあなたたちのために行くんだから、そっちが迎えに来るなり連絡してくるなりしてたらよかったんじゃないの? 父だけのせいじゃないでしょう」
 男は驚いたように目を見開いた。反撃されるとは思っていなかったのだろう。
「こら、操。」
 父が叱りつけてくる。
「約束をしていたのに忘れた事実に変わりない。非はこちらにある。失礼を言うんじゃない」
「でも、」
「操。」
「……ごめんなさい。」
 私の言い分はけして間違っていないと思うけれど、父はこういうところには厳しい。喧嘩両成敗というか、こちらにも非がある以上、相手の非をあげつらって自分の非を軽くするような言動は許さない。
 私はぎゅっと制服のスカートの裾をつまんだ。
 制服――って今何時? 壁時計を確認すると家を出る時間だった。
「遅刻するから行く!」
 朝食を食べ損ねたし、お弁当を作る暇もなかったので、お小遣いから出すしかない。それはもう涙を飲もう。この気まずい空気から脱出できるなら、それぐらいは我慢する。
「行ってきます」
 と私は立ち上がり玄関に走り出た。

*

 お腹が空いて倒れそう。
 昼食代をケチっておにぎり一個にしたけれど堪える。値段と量を考えればきっと菓子パンにした方がよかったのだが、カロリー的なことを考えておにぎりにしたのが失敗だった。空腹で午後の授業は全然集中できなかった(それはいつものような気もするけど)。
 早く帰ろう、と正門を出て駅の方へ歩いていると後ろからクラクションを鳴らされる。
 車道と歩道の区切りのない道だがちゃんと端っこを歩いているのになんだ? と思い振り返ると見るからに高級そうな黒塗りの車がのろのろと走ってきて私の傍で止まった。
 運転席から降りてきたのは、今朝の男だ。
――なんで?
「乗りなさい。」
 説明もなく短く告げられた言葉をすぐに理解できなかった。
「邪魔になる。早く」
 後ろから別の車が迫ってきていた。狭い一方通行の道で二台が並行する幅はない。迷惑がかかるからと言われ慌てて乗り込んでしまうが、乗ってから別に走り去ってもよかったのにと気付いた。ほとんど知らない人の車に自分から乗り込むなんてどうかしている。
 運転席を一瞥すると
「今朝のことは悪かった。」
「え?」
「君の言う通りだ。こちらがしかるべき対応をしてお父上を迎えにいけばよかった。甘えていた」
 それを言うために私を待っていたのだろうか。
 予想外に丁寧に謝罪されると、こちらの毒気も抜かれるというもの。
「いえ、こちらこそ、失礼な態度で……」とまで言うと、タイミング悪く、ぐぅーっとおなかが鳴った。
 ギャーッと叫びたいが、止まらない。おなかをひっこめても止まらない。
 恥ずかしくて俯いた。
「腹が減っているようだな」
「朝、食べ損ねたし。お昼もあんまり食べなかったから」
「そうか。空腹なら丁度いい。お礼とお詫びに食事をご馳走するつもりで来た」
「食事?」
「そうだ」
「でも、」
「遠慮することはない。父君には言ってある」
 男は車のスピードを上げた。

*

 着いたのは店構えからして「高級です」と主張しているフランス料理店だった。
「……ここですか?」
「気に入らないか」
「気に入らないというか、こんな高そうなお店。マナーもわからないし、服装とかも必要なんじゃないですか。もっと大衆的なお店のほうが……」 
 ずりずり引っ張って連れ帰っただけ(しかも怪我させたし)なのに不釣り合いすぎた。絶対万札が飛んでいく。
 この人って何者なの? 乗っていたのは高級車だったし、着ている服も……今朝の父の薄汚れたスウェットから、落ち着いた上品な黒のスーツ(これも高そう!)に着替えている。全身から漂う威圧感が半端ではない。洗練されているというのはこういう人のことだろう。おまけに容姿も整っているから見栄えがする。さっきも、きっとここのお客さんであろう男女が先に奥へ入っていったけれど、女性はもちろん、男性まで男を振り返って見たぐらいだ。
「心配することはない。ここは馴染の店で個室を用意してある」
「だけど、」
「いいから、来なさい」
 男は立ち竦む私の傍にきて、腰に手を当ててきた。そのまま強い力で歩かされる。僅かに甘い香りがスーツから薫ってきて身体が強ばった。男の人でフレグランスを使うような人と接したことがなかった。
 されるがままについていくと、クラッシックの流れる店内は明るく、柔らかな雰囲気がした。ギャルソンが何人もいる。そのうち、おそらく一番偉いであろう人が、私たちに近づいてきて、
「四乃森様。お待ちしておりました」と告げた。
 それから奥の個室へと通される。
 彼は私の腰に手を当てたままだったが、
――四乃森。
 その名前と、見上げた彼の顔に、ふと記憶が蘇る。あれはいつだったか……たしか歯医者での待ち時間だったと思う。退屈で傍にあった雑誌を読むことにして、適当に選び頁を開いたらフルカラーの写真と「四乃森グループを率いる若き後継者・四乃森蒼紫」という大きな見出が載っていた。若干二十八で役員に就任したというその人は滅多に表舞台に出てこないのだがインタビューに成功したという内容だった。あの記事の写真――間違いなくこの男だ。
「ああ!」と思わず声が漏れて慌てて口をふさぐ。
「どうした?」
 男――四乃森蒼紫(仮)が聞いてきたが、その前に個室について通される。私はもごもごとなりながら、椅子を引いてもらい座った。
「本日はいかがなさいましょうか」
 ギャルソンが言うと、
「何か食べたいものはあるか」
 四乃森蒼紫が私に聞いてくる。
「……いえ、よくわからないので」
 正直に答えると
「嫌いなものは?」
「特にないです。」
 四乃森蒼紫(仮)は頷くとギャルソンと、前菜はこれで、それなら魚はこちらがおすすめです。本日はいいスズキが入っています、とかいう会話をしながら決めていく。その間、私はしげしげと四乃森蒼紫を見つめた。
 二人きりになると流石に凝視するわけにもいかず、テーブルに視線を落とした。真っ白なテーブルクロスが皺一つなく敷かれている。キチンと身なりを整えた人のために用意されたキチンとした空間なのだ。手持ちぶさたで髪の毛を撫でたくなったけれど、食事中に髪をいじるのは汚らしい行為だと何かで読んだ記憶を思い出し、制服のスカートに手を置いて、姿勢を正した。
「そんなにかしこまらなくてもいい」
「……そんなの無理です」
 答えると四乃森蒼紫(仮)は口元を緩めた。笑っている。だけどバカにしたような笑みではなかった。
 この人はこんな風に笑うのか。人間なのだから喜怒哀楽があって当然だけれど、ずっと無表情だったので不思議に思えた。――違う。四乃森蒼紫(仮)は人間ではなく人狼だった。
「……あなた四乃森蒼紫さんですか。」
 それから、疑問を口にした。四乃森蒼紫(仮)は一瞬眉を潜めたように見えた。私の切り出し方が唐突すぎたのだろう。
「すみません……だた、さっき”四乃森様”って言われてたから、ちょっと、思い出したことが。……以前に、雑誌の記事で見た人と同じ人かなぁって気になって……あなたは四乃森蒼紫さんですか」
 と慌てて付け足した。
「私が四乃森蒼紫だとしたら、何か」
 やはり四乃森蒼紫だったのかという納得感と同時に、続いた台詞がやはり不機嫌そうに聞こえた。口元を引き締めてしまったからそう感じただけかもしれないけれど。
「何ってことはないですけど、ただ……それだったら二十八歳ですか?」
「そうだが」
「うっそだー! 威圧感ありすぎだよ。……三十六ぐらいだと思ってた」
 思わず言ってしまう。だって、どう考えても二十代ではない。下手すると若作りだけど四十いってるかもって思っていたのに。
「君、」
 四乃森蒼紫は言った。
 私ははっとした。なんでも口にしてしまうのが私の悪い癖だ。まずい。ふけていると言われていい気がするはずがない。そうでなくてもご機嫌斜めっぽくなっている。なんとかフォローしなければ。
「あの、けしてその……悪い意味で言った訳じゃなくて……二十代も三十代もそんなに変わらないというか……」
「君からすれば、どちらもおじさんか」
 ここで言葉に詰まったと肯定することになると思ったけれど、ごくりと喉が鳴った。
「おじさんというか、大人です」
 かろうじて返せば、
「大人とはおじさんということだろう」
 突っ込まれてしまう。 
「そ、そんなことないですよ。それは、ほら、人それぞれっていうか。……大人でも若い人は若いし……そう、あの、私の親戚に”剣心さん”って人がいるんですけど、その人なんて三十路だけどすっごい若々しいし、私と話も合うし……合わせてくれているのかもしれないです、けど……」
 これはきっといいと思って口にしたけれど、音になった瞬間に全然いいことではなかったと空回りしていく感じだった。全然誤魔化せていないと悲しくなり、失敗したと前髪を撫でてしまい、ああ、髪を撫でたりするのはよくない振る舞いだったのにとさらに悲しくなる。
「たしかに、緋村は若いな」
 四乃森蒼紫が言った。さっきの不機嫌さは消えていたし、怒りも感じなかった。呆れ果てているのかも、と恐る恐る見ると、射抜くように真っ直ぐな眼差しとぶつかり居心地悪い。
「……剣心さんのこと知ってるんですか」
「ああ、彼が君の父君の後継者だ。能力は男性にしか受け継がれないから」
 そうなのか。知らなかった。今朝は逃げ出すように家を出て、肝心な話は何も聞けていない。
「緋村と、それほど仲が良いのか」
 彼の眼光の鋭さが増す。この人のこんな風に見られるとドキドキする。男前だから。罪づくりだな、と思った。
「そうですね。月末とか、お小遣いなくなっちゃたりしたら、映画に連れて行ってもらったりして、たかってます」
 よくわからないが、機嫌は治まったらしいので、もう余計なことを言わないように気をつけながら、楽しく、冗談っぽく言うつもりが、うまく笑顔が作れずぎこちなくなった。傍に置いてあるグラスを取って飲む。ひんやりとしていて気持ちがよかった。

*

「ご機嫌だな」
 帰りの車内。座り心地のいいシートの深く身体を沈めて流れ行く景色を眺めながら鼻歌を歌っていたら四乃森蒼紫に言われた。
「うん。おなかいっぱいだし。とっても幸せな気分」
 お店に着いたときは全く縁のない雰囲気に飲み込まれて緊張したし、うっかり口を滑らせて微妙な空気になり、どうなってしまうのかと思ったけれど、運ばれてきた料理はお箸で食べられるようにしてくれていて、それで肩の力が少し抜けた。一口食べるとあまりのおいしさに感激し、私は嬉しくて饒舌になった。四乃森蒼紫はおしゃべりな人ではないらしく、自分から話してくることはないけれど、私の話にうなずき、優しげな笑みを浮かべたりして、だんだんと打ち解けていく。食べ終わる頃には敬語ではなくなるほど。ただ、彼の事情について詳しく聞くことはしなかったけれど(聞いてまた雰囲気が悪くなるかもと怖かった)。
「本当言うと、四乃森さんが車で現れたときすっごく心配したの」
 ご機嫌な私はご機嫌なまま口にした。
 昨夜、道ばたで倒れる犬(いや、狼)を見つけたときは面倒なことになったと思ったし、それが人狼であると言われてからかわれているのかと不快に思ったし、助けるときに不可抗力であったとはいえ怪我をさせてしまって、そのことを責められて腹が立ったし、朝食は食べ損ねるし、昼食は自腹を斬らなければならなかったし、悪いことなんて何一つとしてしてないはずが、どうして嫌な気持ちになることばかり起きるのか理不尽に思えた。おまけに、学校帰りに呼び止められて――。
「絶対に今朝のことで文句を言われるんだと思ったもの。でも、こんなおいしいご飯をごちそうしてもらって、人生、生きていればいいことがあるんだなって思った」
「大袈裟だな」
「そんなことないよ」
 去年、突然、交通事故で母を失ってから、こんなに満ち足りた時間を過ごすのは初めてかもしれない。
 あの日から、私の生活は一変してしまった。それを日常の些細な一瞬に見せつけられる。たとえば、帰りが遅くなり友人の携帯に母親から心配の電話が入ったとき、自分の携帯もチェックしてしまう。もう私に母から電話が入ることなどないのに。
 そういうことは割とあった。親なんて関係ない、と言いながら私たちの会話にはよく両親の、とりたてて母親とのことが出てくる。それは庇護されているということだ。守られていることを当たり前のものとして、あれこれ文句を言っている。それがいかに贅沢なことなのか、母親へ文句を告げる姿を羨ましくまばゆく思う自分になってしまったことが寂しかった。私だって少し前までそうであったのに、もう今は違っている。一緒に大人になっていくはずが、一人だけポンッとはじきとばされてしまったような心細さだった。
 だけど今日はそういう気持ちに一度もならなかった。四乃森蒼紫は大人で、彼の前では私はまだまだ子どもであると感じられた。そのことにとても安心を覚えた。私は普通の女子高校生なのだという安堵だった。
 車が家に到着する。おなかがいっぱいになって、車で送ってもらえるというのも楽でいい。至れり尽くせりだ。
「どうもありがとうございました。すごく楽しかったです。……満月の夜は私も注意して父に言うようにしておきますから」
 シートベルトを外しながら、かしこまってお礼を言う。
「じゃあ、さようなら。」
 振り返り扉に手をかけるが、
「操。」
 強い口調で呼び止められ驚いて振り返った。
「なんですか?」
 四乃森蒼紫は胸ポケットからボールペンとケースを出した。中には名刺が入っていてその一枚に番号を走り書きし、終わると私に渡してくる。
「今度からは私にしなさい」
「……何の話?」
 よくわからない。
 彼は少しだけ困ったような顔をして、小さく息を吐いた後、
「言っていただろう。店で。緋村にたかると。これからは私にしなさい」
「あ、」私はそんなことを言ったけれど、あれは冗談だったのに。「違います。あれは、」
 言い訳をしようとしたけれど、その前に四乃森蒼紫の手が伸びてきて、私に名刺を持たせた。
「わかっている。だが、映画に行くのは本当だろう」
「それは、そうだけど」
「それなら、今度から私に連絡してきなさい」
 四乃森蒼紫は繰り返した。
 その強い眼差しに動けない。それに追い打ちをかけるように四乃森蒼紫の手が私の頬に触れた。大きくて冷たい手だ。
 何か、答えなければと思うのに何も考えられずにいると、四乃森蒼紫は私の頬を撫であげてからすっと離した。
 触れられていた頬からじわじわと熱くなっていく。この人はどういうつもりで、こんなことをするのか。わからない。わからないことは怖い。くらくらする。とても。息苦しくて、胸も苦しくて、これは酸欠だ。車の中の酸素を全部吸ってしまったのだ。外に出れば元に戻る。私は無言のまま扉を開けて出た。まだ残暑は厳しいけれど、ほんの少しだけ秋の匂いのする風が火照った頬に気持ちいい。
 私が降りてしまうと四乃森蒼紫はすぐに車を発進させた。さっきのあれは何であったのかというほどあっさりとしたもので、その様子にからかわれたのだ思った。けれども、悔しいことに私はポーッとして、しばらくその場を動けなかった。



2013/8/21