月に狼

第二夜

 たしかに、私の一人相撲だった。
 四乃森蒼紫に食事へ連れて行ってもらった帰りに、彼の長い指先が私の頬を撫でて、そのことについて、始めはからかわれたのだと思ったくせに、時間が経過するほどじわじわと心が浮足立ってきて、ひょっとして私のことを好きなのかしら、と考えるようになった。少なくとも好意は持たれているだろう。そうでないなら、あんな風に触れたりしないはずだ。その事実に私は浮かれしまったのだ。第一印象は最悪だったはずなのに、ころりと掌をかえし、夢見心地になっていた。だって、あんなに格好いい人なんだもの、そりゃ浮かれちゃっても仕方ないでしょう、と。もらった名刺を眺めるとにやにやと頬が緩んできて、ダメだ、怪しすぎると引き締めようとするけれどうまくいかず、きゃーっと叫びたいような気持になってベッドに顔を突っ伏してこらえる。そんなことを繰り返し超ハイテンションだった。
 ところが、それはあっさりと終わる。
 八月最後の日曜日のこと。美容院で雑誌を見ていたら、そこに四乃森蒼紫が映っていたのだ。以前も特集記事が組まれていたけれど、今回のそれは違った。美人女優お忍びデートというスクープ記事だ。車中でキスしているところがバッチリ映っていた。男の顔には目隠しされていたけれど(おそらく一般人だから配慮されたのだろう)、本人を知っている私にはそれぐらいのぼやかしは通用しないし、記事には「お相手は実業家のSさん」と書いてあるし、それに彼らが乗っている車は私が先日乗った車と同じ車種だったので間違いなかった。
 なんだこれ、と思ったら心臓のところがきゅーっと音を立てて縮んでいく。胸が痛いというのはこういうことなのかと口元が緩んだ。身体中の力がはいらなくなってしまった結果だけれど、人からは笑っているように見えるのか、担当の美容師さんが、
「何か楽しそうだね」
 と声をかけてきた。
 応えられずにいても不審に思われることもなくて、今日はどうする? バッサリいっちゃう? と聞かれた。美容師さんはいつもそう言う。腰まで伸びた髪を、バッサバッサと切ってみたいと。私はいつも、うーん、と悩みながら結局切らずに終わる。でもその日は、うん、とうなずいた。美容師さんはとても驚いて、本当にいいの? 無理やりうんて言わせちゃった? と言った。あれほど切らないのかと聞いていたのに、いざ実行に移すことになると二の足を踏む様子がおかしかった。
 短くなった髪で帰ると父はびっくりしていた。
「何かあったのか?」
「何かって何?」
「いや……女の子が髪を切るのは重大な決心をしたときとかだろう? あるいは失恋とか」
 最後は言いにくそうだった。娘の恋愛事情に踏み込んでいいのかという逡巡らしい。
「……別に何もないけど。なんか切ってもいいかなって思っただけ。というか、今時、髪にそこまで命かけてる子なんていないよ。時代錯誤だよ」
 私は笑っていい返し部屋に戻った。
 一人きりになりベッドに腰掛けて、ぼんやりと室内を見渡して、それからごろんと横になった。ぼーっとしていると、ついさっき父に言われたことが蘇ってきた。そして、即座に否定したけれど、ああ、そうか、だから私は髪を切ったのか、と妙にしみじみと納得してしまった。
 私は、失恋して、やけになって、髪を切ったのだ。
 だけれど、失恋、と唱えると冷え冷えとした気持ちになった。
――失恋? 違う。たった一度食事にい行っただけじゃん。
 そう思ったら、ぶわっと突然涙があふれた。
 全部私の一人相撲だったことがわかって恥ずかしくてたまらなかったのだ。
 ただ、食事に行った、それだけのことを、ずーっと考えていて、どんどん膨らんでいく妄想が、私の心を麻痺させて、過大な期待を抱かせた。頬に触れられたぐらいで、特別なことのように思い込んだ。でもそんなのちっとも特別なことではなかったのだ。彼はもっとすごいこと、キスしたり、その先のことだってしていて、だから女の子の頬に触れるなんて、少しもすごいことではなかったのだ。それなのに、私はそういうことが初めてだったから、一人で自惚れていた。その自惚れのせいで彼には彼女がいると知り動揺し傷ついている。ご飯をご馳走になった。楽しかった。それで終わっていた話なのに、もっとすごいことのようにはしゃいでいた自分が痛い。本当に恥ずかしくてたまらなくて、傷ついている自分が愚かでつまらなく思えて消えてしまいたかった。

*

 神様は本当に意地悪だ。
 悲しい出来事は忘れようと心に決めても、そう簡単に忘れさせてはくれない。それほど私はショックだったのかと思えばますます悲しみに彩られていく。自分では気を付けているつもりでも元気がなくなっていて、父はそれをとても心配したらしく、けれど自分相手には話してくれないかも、ということで私が一番懐いている剣心さんに相談して、剣心さんは私をご飯に誘ってくれた。その経緯を聞いて、父にも剣心さんにも申し訳ない気持ちになった。
「本当に何もないの?」
 少し閑散とする夕方のカフェテリアで向いに座る剣心さんが神妙な顔つきで言った。
「本当に何もないよ。夏の疲れがでちゃったのかも」
 心配してくれているのは有難いが、あの話は誰にもする気はなかった。誰かが言っていたけれど、悲しい出来事も寂しい出来事も話せるようになったとき治癒するらしい。思い出に出来たから話せる。話せない私はまだまだ整理がつけられないのだな、と思った。
 剣心さんはそれ以上無理に聞き出そうとはしなかった。こういところが剣心さんのいいところだ。
「じゃあ、夏バテ解消においしいものでも食べに行こう」
 と言って、私たちは最近できたアメリカから初進出してきたというステーキ&ハンバーグ屋さんに行った。そこで超ビッグサイズのハンバーガーを食べた。肉厚で食べるとじゅわっと肉汁の甘みが広がる。安価で食べられるハンバーガーとは一味もふた味も違っていて、こんなにおいしいハンバーガー初めてかもしれない、これを知っちゃったらもう普通のバーガーは食べられないかも、と言ったら、じゃあ、食べたくなったら連絡しておいで、ご馳走してあげる、と剣心さんは言った。
「うん。遠慮なくご馳走してもらう」
 私は言った。
 おいしいものを食べると元気になる。単純かもしれないけれど、私は久々によく笑って、よく食べた。
 その帰り道――せっかくのいい気分をぶち壊された。
 駅へ向かって歩く途中で、バッタリと四乃森蒼紫と遭遇したのだ。まったく何の嫌がらせなのだろう。神様は本当にいるのかと呪いたくなった。
 私一人きりなら知らぬ顔も出来るけれど、剣心さんも一緒だ。そして、剣心さんと四乃森蒼紫とは知り合いだ。何も知らない剣心さんは、当然に話しかけた。
「珍しい組み合わせだね。四乃森と薫ちゃんなんて」
 薫ちゃん? 四乃森蒼紫にばかり気をとられていたけれど、その少し後ろに女の子が立っていた。私と同じ年ぐらいの。
 ズキン、と心臓が痛んだ。
 ズキン、ズキン。その痛みをねじ伏せるように深呼吸した。
「あ、こちら、僕の従妹です。操ちゃん、こちら四乃森蒼紫さんと神谷薫ちゃん」
「どうも、初めまして」
 紹介されたので頭を下げると、
「初めてではない」
 と低い声がした。
「え?」と私と剣心さんが同時に声を漏らした。
「操とは以前に会っている」
 四乃森蒼紫が言った。
 前のときは平気だったけれど、今は馴れ馴れしく呼び捨てにされて嫌な気持ちになった。
「そうなの?」
「えっと、前に一度。お父さんが満月の日を忘れていて……そのとき、この人が呼びにきたから」
「ああ、そういえば先月のときおじさん忘れてたって言ってたね。あのときに限って僕もどうしても外せない用事があって、遅くなったんだ。間が悪いよね。……ってことは操ちゃんはもううちの家系の話を知っているんだ」
「うん。」
「なら話は早いな。二人ともそういう血筋なんだ」
 ということは彼女も人狼ということか。
 どれぐらいの人数がいるのか、詳しいことは全然教えられていない。物の怪を治癒する力は男性にしか受け継がれないので女性である私が下手に知らない方がいいという配慮らしい。そんな配慮いるのかな? 余計気になる、と最初は思ったけれど、あのことがあってから、四乃森蒼紫と関わりになることから離れていられるのは都合がいいと考えが変わったのだ。
「初めましてなんて言うから、てっきり忘れられたのかと思った」
 四乃森蒼紫は皮肉を言う。イチイチ腹が立つ。
「あなたに言ったわけじゃないし」
 私は四乃森蒼紫を見ないで女の子――神谷薫さんを見た。
 彼女は私のことをじっと見ていて、目線が合うとはっとなったように逸らされた。
――避けられた?
「それにしても、本当に珍しい組み合わせだな。二人で出かけるほど親しかったっけ?」
 剣心さんは言った。その言い方にはトゲがあるのように感じられた。気のせいかもしれないけれど。
「どこぞの男がふがいないので、不安になると相談を受けていたところだ。なるほど、不安になるのもうなずけるな」
「蒼紫さん!」
 四乃森蒼紫の言葉を咎めるように神谷薫が叫んだ。みるみるうちに真っ赤な顔になっている。
「いい機会だ、本人に直接言ってみたらどうだ。その方がいい。……というわけで、お前はこれから薫を送ってやれ。操は俺が送る」
「は?」
 なんでそんなことに? さっぱり理解できなくて剣心さんを見る。きっと反対してくれるだろうと思った。
「いや、でも操ちゃんのことは彼女の父親に頼まれているし」
 私の予想通り、責任感の強い剣心さんはそう言った。
「お前は、この状況で操を優先するか。……お人よしもたいがいにしておけ。操は俺が送ると言っているだろう。俺が信用できないのか、それとも操をどうしても優先しなければならない理由があるのか」
「そういうわけではないけど……」
 緋村さんは神谷薫を見た。つられて私も彼女を見る。
 神谷薫はなんだか泣きそうに思えた。
 それを見て剣心さんは、じゃあ、操ちゃん、家には四乃森に送ってもらってくれるかな、またね、と言って神谷薫と二人で去って行った。
 信じられなかった。何が起きたのかわけがわからない。というか、四乃森蒼紫と二人で残されても嫌なんですけど? やだやだやだやだやだやだやだやだ。絶対嫌だー!
「待って、剣心さん、ま――」
 人ごみにまぎれて見えなくなっていく後ろ姿に慌てて呼びかけ、追いかけようとしたけれど、
「お前はこっちだ」
 その前に強い力で腕を捕まれた。見上げると四乃森蒼紫が悠然と私を見降ろしていた。 

*

 剣心さんに送ると約束したのだから送らないわけにいかないという理屈で、私の抵抗むなしく四乃森蒼紫の車に乗せられた。車を走らせながら、四乃森蒼紫は前のときとは違い饒舌に状況を説明してくれた。
 剣心さんとさっきの女の子・神谷薫さんは付き合っていて、だけれど彼女は剣心さんの誰にでも優しい態度に不安を覚えていて、まして年齢も随分離れているし、本当に自分のことを好きなのか疑心暗鬼気味で、剣心さんと年齢の近い四乃森蒼紫は、彼女の相談を受けていたという。
「いくら従妹とはいえ、自分の恋人が自分と同じ年の女と二人で食事に行ったり映画を見たりするのは不安になる。付き合い始めて間もないとあれば尚更だろう。独占欲が生まれるからな。今日もお前と会うことを緋村から聞かされて、あいつにすればやましいことがないから話したのだろうが、薫は心配になり俺に相談してきた。その帰りに何の因果かバッタリ出くわしたんだ」
 なるほど、と先程の一連の出来事の流れはつかめた。
 それにしても剣心さんに彼女が出来たなんて知らなかった。教えてくれたら、私だって剣心さんと出かけるのを控えただろうに。
 そこまで考えて、ふと疑問が生まれた。
「……だからですか。私に、剣心さんじゃなくて自分に連絡してくるように言ったのって、そうすることで神谷さんの不安をなくそうとしてたの?」
 辻褄が合った。すべては剣心さんと薫さんのためだったとしたら、何もかもが腑に落ちた。同時に、その事実は私にとってはあまりうれしくないことだった――つまりそれは、四乃森蒼紫は私に好意を持っていたからそう言ったわけではないという確定通知だったからだ。
 そんなこと知ってもさらに傷つくだけなのに、どうして私は聞いてしまったのだろう。自傷癖でもあるのか、或いは、どこかで否定してくれることを期待したのか。けれど、答えは残酷な方だった。
「だがお前はそうしなかった。何故、俺にかけてこなかった」
 とりかえしのつかない、きっと絶対痕が残るだろうという傷がざっくりとあちこちにつけられたみたいだった。その一方で心が傷つくというのはこういうことなのかと、どこかさめざめとした自分もいる。これまでも辛いことや悲しいことがあったはずなのに、私はそれらのことでは傷ついてはいなかったのだと思うと不思議だった。
「今回のは不可抗力ですよ。私がお願いしたわけじゃなくて、元気がないのを心配して父が剣心さんに頼んだんです。励ましてやってくれって、それで一緒に食事をしただけで、もう事情もよくわかったし、これからは剣心さんに無闇に連絡したりしません。私だって剣心さんに幸せになってほしいですから」
 自分でも驚くほどよどみなく、すらすらと言えた。
 それから、私は窓に頭をもたげた。もうこれ以上、この人と何かを話せる気分ではなかった。
 けれど、今日の四乃森蒼紫は本当に饒舌で――ひょっとしたらこちらが本来の姿で、前のときの無口な感じの方がいつもの調子ではなかったのかもしれないというくらい話しかけてくる。
「元気がない理由は? 何か困ったことでもあるのか」
「……別に何も。もう全部終わったことです」
 私は窓の外を眺めながら早口に告げた。
「終わったことというが、まだ元気がなさそうに見える」
 さらにまた、突っ込まれた。
 そっとしておいてくれたらいいのに。
「終わったからってすぐに元気になれないこともありますよね。ゆっくりゆっくり時間をかけて回復していくことって。……というか、この話に触れてほしいんですけど。まだしないといけないですか」
 強い口調と強い言葉で会話の断絶を告げた。
 そんな空気の悪くなることをよく言ったなぁと少しだけ怖くなったけれど、四乃森蒼紫が私を誘ったのは神谷薫の不安を晴らすためにすぎなかったと告げられて、私に興味があったからではないと知らされて、その後で、家に送ってもらうまでの片手間の世間話に自分の悩みを打ち明けるなんて冗談ではない。本当に、この人にとって私の存在なんてちっぽけなものなんだなと見せつけられたように思えた。――だいたい、この落ち込みは四乃森蒼紫が原因なのだから言えるわけがないし! 二重で残酷だ。もう車から飛び降りてしまいたいぐらいだった。ところが、
「随分と思いきったものだな」
「え?」
「髪だ。随分とバッサリ切っただろう」
 あれほど辛辣で失礼な態度をとっても、四乃森蒼紫は話しかけてきた。私はびっくりして返事も出来ずにいたら、なんだ、この話もダメなのか、と笑った。それでこの人に毒づいても無意味なのだと悟った。
「楽でいいです。これぐらいの長さの方がいろいろ遊べるし」
 私が答えると、
「そうか。俺は長い髪が好きだがな」
「そうですか。私は長い間、ロングだったので、もっと短くしようかと思ってます。本当はベリーショートにしたかったけれど、いきなりはやめておいたほうがいいって、美容師さんに止められて出来なかったかので、今度はするとつもり。長い髪は手入れが大変だし、もうしない」
 ペラペラと口から出ていく。あなたの好みとは正反対ですと、そんなことアピールせずとも自明の理なのに。それ以前に、視界にすらいれてもらっていないというのに。
 それからふと、そういえば”あの女優さん”も真っ黒で綺麗な髪だったことを思い出した。シャンプーのCMにも起用されていて、私もそれを使っていた。四乃森蒼紫の好みの通りだ。……ってか、あの女優さんとこの車でキスしてたんだっけ……ってなんでそんなことを思い出してしまうのだろう。想像して落ち着かなくなってしまう。やはり私は自傷癖(主に心)があるのかもしれない。
「もったいないな、お前の髪は綺麗だから、伸ばした方がいい」
 ああ、こういうことをサラリと言える人なのだ。私は泣きたくなった。すると、タイミングがいいのか悪いのかウィーン、ウィーンとカバンが震えた。取り出すと剣心さんからの着信だった。


「もしもし?」
『あ、操ちゃん。もう家についた?』
「まだです、もうすぐつきます」
『そっか。今日はごめんね。事情もわからず、驚いただろう』
「うん、でもさっき四乃森さんから話は聞きました。剣心さんに彼女が出来たなんて知らなかったから、教えてくれたらよかったのに、そしたら私だって遠慮するよ?」
『いやいや、それはそれ、これはこれだから。操ちゃんは僕にとって本当の妹みたいなものだから、わかってもらえると思ったし、でも理屈ではない部分があるんだよね。そのせいで、二人ともに迷惑かけちゃって。薫ちゃんも、操ちゃんに素っ気なくしたことを反省しているんだ。だから、今度三人でご飯でもどうかって、操ちゃんが嫌でなければ。きっと二人は仲良くなれるよ』
「……薫さんが嫌じゃないなら、私は」
『じゃあ、具体的な日にちが決まったら連絡するから。今日は本当にごめんね。励ますつもりが、余計に嫌な気持ちにさせちゃって。四乃森にもよろしく伝えておいて。運転中だろうから、お礼は改めてするって』
「ううん、全然。嫌な気持ちになんてなってないよ。ハンバーガーもとってもおいしかったし、元気出たよ。ありがとう。じゃあ、連絡待ってるね」


「緋村か……また会う約束をしたようだな」
 電話を切った途端に、声がした。
 思わず運転席を見ると、チラリとこちらを見る四乃森蒼紫と目が合う。
「心配しなくても、二人で会うわけじゃないのですから。薫さんに会わせてくれるって、それで仲良くなったら変な心配もなくなるだろうし。もうご迷惑おかけするようなことはしませんから安心してください。……それとあなたにもよろしくって、運転中だろうからお礼は改めてするって。ちゃんと伝えましたから」
 スマホを鞄に戻し、私は再び窓を見た。
 もう知った景色になっていた。
「……あそこの角で降ろしてもらえますか。」
「家はまだ先だろう」
「コンビニに寄って帰りたいので」
 そう告げると四乃森蒼紫は何も言わず、車を減速させ、停止してくれた。
 シートベルトを外し、ありがとうございました、とお礼を述べて扉を開ける。これで本当に何もかも全部おしまいだ。できればもう二度と四乃森蒼紫になど会いたくなかったけれど、会ってしまったものは仕方ないし、そして一連の出来事の真実なんてものも知りたくなかったけれど、知ってしまったのだから仕方ない。コンビニで甘い物をいっぱい買って、今晩は自分を甘やかして、明日からは元気になろう。
――あれ?
 扉が開かない。ロックの解除がされていないのかと押してみても動かない。
「あの、扉が開かないんですけ――……」
 仕方なくそう告げながら振り返ると、ものすごく近い位置に四乃森蒼紫の顔があって、え? っと思っているうちに唇に柔らかな感触がした。
 とても、おそろしいほど、至近距離にある、綺麗な顔は目を閉じていて、まつ毛が長く揺れている。
 ああ、綺麗な顔立ちの人は、目をつぶっていても綺麗なのだな、と思った。
 ただ、その思いはすぐに息苦しさで消えてしまう。
 呼吸が出来なくて、身体が硬直して動けなくて、だって、
――キス、されているのだ。
 認識できたときに、ゆっくりと空気が戻ってきた。
 唇の濡れに、それが触れてひんやりとしている。
 正面にはまだ近くに四乃森蒼紫の顔があって、長い指が私の前髪に触れて、やがてそれを掻きあげるように梳かすと唇が今度は額に触れた。
「ふ、」
 ふざけるな、と言いたかったのに喉が熱くてうまく言えず変わりにものすごい勢いで四乃森蒼紫の胸元を押し返していた。
 涙がぽろぽろと流れているけれど、瞬きしても明瞭になることはなく次から次ぎへとあふれてくる。そんな状態でも四乃森蒼紫の手が伸びてくるのだけはわかった。それを払いのけると、操、と名を呼ぶ声が聞こえた。それから、
「悪かった。だが、けしていい加減な気持ちでは――」「いい加減じゃない? 恋人がいるくせに、こんなことして、それでいい加減な気持ちじゃないなんてよく言える」
 熱い。焼けるように喉が熱く、そこから紡がれる言葉も熱く、身体中が痺れた。
「恋人などいない」
 四乃森蒼紫は平然と言った。なんの迷いもためらいも感じられない。
「じゃあ、あの写真は何だっていうの?」
「写真? ……一体何の……」
「この期に及んでとぼけないでよ。私が知らないとでも思ってるの!? 週刊誌に載っていたの見たんだから。美人女優お忍びデートって、車の中でキスしている写真。この車で――」
 きっとあの女優さんともこんな風にしたのだろう。思い出したくもない週刊誌の写真が鮮明に蘇ってくる。ああ、本当に私は自傷癖があるにちがいない。自分で言って、自分で思いだして、自分が一番傷ついている。
「違う。あの女とは恋人ではない」
「恋人でもない人と、そんな簡単にキスするわけ? だから私にもしたって? ふざけんな! あなたはいいよ。そうやってほいほい誰とでもして、それでいい加減な気持ちじゃないなんて言って。でも、私はあなたとは違うの。はじめてだったのに……」
 ファーストキスを夢見ていたわけではない。それでもやはり初めては好き合っている人と、ちゃんとお付き合いをする中でしたかった。それが――こんなのってある!?
「最悪。絶対許さない」
 頭がおかしくなりそうだった。
 本当に、どうしてこんな目に遭わなければならないのか。 
 扉に手をかけても開かない。
「開けてよ。帰るから」
「まだ話がすんでいない。少し落ち着け。それからゆっくり話そう」
「話すことなんて何もない。あなたの話なんて聞きたくない。だいたい、話したって何も変わらない。家に帰して」
 私はそう繰り返した。
 けれど、四乃森蒼紫は扉を開けてくれなかった。このまま帰すわけにいかない。話を聞いてくれと繰り返すばかりで、私は耳をふさいで目をつぶって、帰して、と唱え続けた。時々四乃森蒼紫の手が私の腕をとろうとするけれど、そのたびに、私は金切り声で、さわるな、と叫んだ。
 やがて根負けしたのか、四乃森蒼紫は車を走らせて私の家の正面に停めるとようやく解放してくれた。
 車を降りて部屋に戻っても私は枕に顔を埋めてわんわん泣いた。呼吸困難の酸素不足で目眩がして、このまま死ぬのではないかと疑うほどの慟哭の末、意識を手放し、これまでの人生で一番最悪の一日は終わった。



2013/9/19