やきもちシリーズ(R-18)
やきもち。
どうしてこんなことになったのか――操は混乱していた。
「ほ、ほんとにするの?」声が上ずっている。震えているとも受け取れる。
操の傍には蒼紫がいる。傍というか覆いかぶさっている。
二人は大阪にいた。
店で使う陶器を新たに買いそろえることになり、取り引きのある問屋・菱川屋の主に相談すれば大阪にまだ名は売れていないが良い品を焼く陶芸家がいると聞かされた。一度見に行き気に入れば買いつけましょうと提案される。茶の湯をたしなむ蒼紫は陶芸品に造詣深く興味もあり赴くことに決めたが、道中を菱川屋の主と娘の香が共にすると知り操も行くと言いだした。
「遊びに行くのではない」蒼紫はにべもなく告げるが、
「でも香さんも行くって聞いた」
「それとお前が行くことと何の関係がある」
操は黙った。
香はこの辺では有名な美人で、また菱川屋には香しか子がおらず家を継ぐ婿養子を探している。操が何を心配しているか蒼紫にもわかる。
俯いて黙ったままじっとしている。蒼紫がうなずくまでこうしている気だろう。
「……――わかった。ただしお前の相手をしてやる時間はない。それでもい」「蒼紫さまありがとう」
言い終わる前にぱっと華やいだ顔に変わり礼を述べられる。
そして、京都を出発したわけだが。
大阪について操はふてくされた。
陶器の工房は物珍しかったが騒ぐわけにもいかず大人しくしていると肩がこる。おまけに蒼紫と香が仲良さげに話しているのだ。香は父親譲りの知識で蒼紫の傍に立ち説明して歩く。割って入りたい気持ちはあったが「これは仕事だ」と来る前に再三告げられている。邪魔でもしたら先に京都へ帰されるかもしれない。
何もできず指をくわえて見ているだけなら、京都で待っている方がまだよかった――後悔先に立たずである。これ以上ここにいたら気持ちを抑えられそうになかったので外に出た。
工房の周囲を散策していると焼き場に出る。男が竈の傍に立っている。年の頃は三十手前くらいだろうか。
「あ、ごめんなさい」目が合ったので叱られる前に慌てて去ろうとするが、
「待って、待って。そんな逃げへんでも取って食うたりせーへんから」
ケラケラと笑いながら引きとめられて操は振り返る。
「菱川屋さんと一緒に来られた人やろ。一人でどうしたん? 迷子?」
「違います! 私は迷子になるような年じゃない!」
子ども扱いされたと操は憤慨したが、
「迷子になるのに年は関係ないやろ? 一緒におる人とはぐれたら迷子ちゃうん?」
操の反論を心底不可思議だと言い返される。ここで怒り続ければ自分で子どもだと認めることになると操の方の毒気が抜けていく。
「迷子じゃないです……陶器の話は難しくてついていけないから邪魔にならないようにって……」
「ああ、それで気きかせて散歩してたん? えらいやんか」
男はまたケラケラ笑うと操の傍まで寄ってきて頭を撫でまわした。
迷子になるのは子どもだけではないと言い、操を子ども扱いしているわけではないと思ったが、その仕草はどう考えても子どもに対するものだ。だが不思議ともう怒る気にはならなかった。やきもちを堪えたことを"えらいやんか"と誉められて気が緩む。
「あ、しもた! 手汚れてたん忘れてた! 髪にススつけてもうたわ」
「ええ!?」抵抗せず撫でられていた操だったが男の声に悲鳴を上げる。
男は慌てふためき手ぬぐいを近くにあった桶に浸して操の髪を拭おうとするが、ススを濡らせば髪に練り込むことになる。
「うわ、どうしよ」
男が右往左往しはじめると操はついに噴き出した。
「何笑ってんの? 自分の髪がえらいことになってるんやから笑ろとる場合ちゃうやん」
拭うと汚れが広がるし、かといってこのままにするのは申し訳ないと、濡れた手ぬぐいで操の髪を仰いでいる。そんなことしても意味はないだろうが、汚したことを悪いと感じているのが伝わってくる。人の良い人物なのだと操は思った。
「大丈夫です。宿に戻ってお風呂で洗えば綺麗になると思いますから、落ち着いてください」
「……そう? そやな。下手なことせん方がいいな」
男はもう一度謝罪の言葉を述べて、操の額を拭きはじめる。そんなところにもついているのかと驚きながら「自分でします」と告げたが「自分では見えへんやん」と返される。人に額を拭いてもらうなど記憶の限り経験がない。妙に照れくさい。近い距離に男の胸元が見える。随分背が高いようだ。蒼紫さまと同じくらいかなぁ――と考えていれば、
「操。」
聞きなれた声に呼ばれる。いつの間にか蒼紫と香が来ていた。
「どうした」静かな声で尋ねられるが、いつもより少し低く響いた。"邪魔をするな"と言われていたのに人に迷惑をかけていることを咎められているのだろうと操は身を固くする。
「あ、すみません。僕が悪いんです。手が汚れてるのも忘れて頭を撫でてしまって、そしたらススがついて。汚れをとってたんです」
黙る操に代わり男が事情を説明すると
「頭を撫でるって、靖一郎さん。操ちゃんは小さな子どもじゃないんですよ。失礼ですよ」咎めたのは香だった。二人は知り合いらしい。強い口調だった。操はそれに違和感を感じたが、
「そうか……ちっちゃくて可愛らしかったからつい撫でてしもたんやけど、そやなぁ。お嬢さんの言う通り失礼やったかも。ごめんな」男――靖一郎ははにかんだ笑顔を浮かべて操に謝罪した。邪気のない人懐こい笑みだと改めて思った。
「……どうせ、私はちっちゃくも可愛くもないわよ!」
しかし、靖一郎の物言いに香は怒り走り去っていく。
「え、ちょっとお嬢さん」それを慌てて靖一郎が追いかけていく。
残された操は蒼紫を見て、
「今のって怒るようなことだっけ?」
子ども扱いされた操が憤るならまだしも何故香が怒ったのか不思議に思い問いかけたが、蒼紫もまた背を向けて歩き出した。
どうも蒼紫の機嫌もよろしくないらしい。
一人になった操はどうしていいかわからずしばらく立ち尽くしていた。
温泉に浸かりながら操は息を吐き出した。
宿に帰って真っ先に髪のススを落としに風呂に入った。それから夕餉を終えて、もう一度温泉に浸っている。部屋にいても蒼紫が不機嫌でつまらないからだ。夕餉の際も話しかけるが素っ気ない。蒼紫は言葉数は多くないが、普段であれば操の話すことを優しげに聞いてくれるが今日は冷たく感じられた。
操はその様子に酷く落胆した。日中は仕事の時間だが、夕食は二人で過ごすと約束してくれて、とても楽しみにしていたのに蒼紫の態度がこれでは寂しくなるだけだ。何がこれほど蒼紫の機嫌を損ねたのか。考えられるのは工房の竈近くでの騒動だろう。ススがついたとてんやわんやしていると騒ぎを聞きつけて蒼紫たちがやってきた。もしかしたらあの時、大事な商談をしていたのかもしれない。それをぶち壊して怒りをかったか。それにしてもここまで怒ることなのかと理不尽な気もする。
「あーあ」と盛大なため息を吐けば、
「操ちゃん」ふいと声をかけられた。「隣いい?」
香だ。操がうなずくとゆっくりと湯に入ってくる。
操はその様子をじっと見つめた。手ぬぐいをさっと取り湯につかるまでさほど時間はないが、ほどよく肉のついた肢体に同性でありながらどきりとする。顔かたちもさることながら体も女性らしい。自分とそれほど年が違わないのに成熟した容姿に羨望と、自分の未熟な体にそうでなくともなかった自信がより失われる。
「……さっきは、変なところ見せてごめんなさいね」
「え? ああ、いえ。……大丈夫でしたか」
さっきというのは工房でのことだ。突然怒って去って行った。しとやかで大人しい香とは思えぬ暴挙を奇妙に思った。
「操ちゃんはいいな」唐突に香が言う。
「ええ!?」自分の方こそ香を羨ましいと思っていた操は素っ頓狂な声が出る。大きな風呂の中でこだまして思わず両手で口を押さえると香は笑った。
「ちっちゃくて、可愛い。いいな。私もそうだったらよかったのに」
けして高いわけではないがスラリとした身長と出るところは出て締まるところは締まっている香の姿になりたいと思う者は多いだろうが、操のような幼児体型に憧れるなど――それを香が言うと嫌味に聞こえる。しかし、香の表情と口ぶりは切実に響き操は困惑した。
「私は、香さんが羨ましいです。綺麗で、女らしい。みんな美人だって噂してるじゃないですか」
「……みんなかぁ。でも、みんなに言われても好きな人に言ってもらえないと意味ないじゃない? 操ちゃんは好きな人に好かれて羨ましい。私は、全然駄目だ」
そこまで言うと香は鼻のあたりまで湯船に漬かった。
「香さん、靖一郎さんのこと……」この時になって操はようやく気付く。香は靖一郎が好きなのだろう。あの時、突然怒り出したのは自分の好きな人が他の女を"可愛い"と言ったことへの嫉妬だ。
香は湯の中に頭までザブリと沈み、上ってくるとやけに明るい口調で、
「そう。あの人が好きなの。でも全然相手にされてないわ。あの人は可愛い人が好きだから。操ちゃんみたいな」
明るい分、辛く聞こえる。
こんな綺麗な人でも恋に苦労するのかと操は驚き、同時に切なくもなった。
「靖一郎さんは別に私が好きなわけじゃないですよ。ただ、子どもっぽいから子どもに対して感じるような意味で"可愛い"って言っただけでそれは恋心とは違うでしょ。私みたいな幼児体型、女としては誰も相手にしてくれないよ。蒼紫さまっだって、」
言いかけて、操は口ごもる。落ち込んでいる相手に愚痴ってはいけないと躊躇ったが。
「四乃森さんがどうかしたの?」
「……工房で騒ぎを起こしたこと怒ってるみたい。あの時、大事な商談中だったんでしょ? それで機嫌悪くして。本当はね、ここに来るのも反対されてたの。でもあの――香さんが行くって知って、香さんみたいな綺麗な人と一緒だと心変わりするんじゃないかって心配で。だから、」
香に嫉妬してついてきたのだと――そんなことを言うつもりはなかったのに、香の先程の告白に触発されてか操もまた香に嫉妬していたことを白状する。すると、
「私たちって、実は似てるのかも。お互いに嫉妬してるなんて変ね」香は優しげな笑顔だった。「でもね、そんな心配まったくいらないよ。四乃森さんは操ちゃんしか見てないもの。工房でも操ちゃんの騒ぐ声がして慌てて駆け付けたんだよ。心配してたんだと思う。それに怒っているのだって騒ぎを起こしたからじゃないよ。きっと私と同じ理由」
「香さんと同じ?」しかし、言われても操にはピンとこなかった。
「そう。四乃森さんも嫉妬してるんだと思うよ。靖一郎さんに。だってあの時、二人ともとっても楽しそうで仲良さそうにみえたんだもの。好きな人が別の人と親しげにしてるの見たら嫉妬して機嫌悪くしても仕方ないと思うよ」
香の言葉は操にとって意外なもので、どう答えればいいかわからず、「ちゃんと話して仲直りした方がいいよ」と続けた香の言葉に曖昧に笑って見せた。
部屋へ戻ると床が敷かれていた。
蒼紫はすでに湯から戻って何をするでもなく布団の上で胡坐をかいている。操が入っても声をかけてくることはなかった。
手にした風呂道具を片づけるために荷の傍へ向かう。明日の昼前にはここを発つ予定なので整理する。終わる頃、それを察したのかじっと動かずにいた蒼紫は己の床へ横になった。
操も少し距離を置いて敷かれている自分の床へ向かう。掛け布団を捲り、布団に身をしのばせこのまま眠ろうか――と思ったが、気になっていることがある。
風呂で香に告げられた言葉が頭から離れない。本当に香の言うように、蒼紫は自分と靖一郎が仲良くしているので嫉妬し怒っているのか。そのような感情を抱くような人物には見えないが。いつも涼しい顔で、時々、本当に好いてくれているのか不安になるほどなのだ。
床に横座りになった状態で、蒼紫の方を見る。操に背を向けて寝ている。
「蒼紫さま、」呼びかけるが返事はない。しかし、起きているのはわかる。寝付きがよい人ではない。「あの――……蒼紫さま、やきもち焼いて、それで怒っているの?」
日頃より素直な性格ではあったが、それにしても直接な言葉だった。遠まわしに尋ねる台詞が思いつかなかった。
問いかけに蒼紫は何も反応を示さない。
操はそれでもしばらく様子を窺ったが、やがて自分の間違いであったと結論付けた。
それはそうだろう。あの、蒼紫が自分にやきもちなど焼くはずがない。ひょっとしてと思い尋ねたが、口にしたことがたちまち恥ずかしくなった。
「変なこと言ってごめんなさい。おやすみ」しかし誤魔化す台詞も思いつけず、謝罪を述べて布団にもぐり込む。恥ずかしさは上昇している。
――ああ〜もうどうしてあんなバカなこと言っちゃうかなぁ。怒っているところに、あんなこと言ったら、余計に怒らせるよねぇ。
寝て起きれば忘れてくれているといいが、蒼紫のこと、しっかり覚えていそうだ。
どうしようか――どうやって機嫌を直してもらおうか。操の脳裏にはそのような考えがぐるぐる回っていた。
「そうだ」低い声がする。
「え? 今何か言った?」空耳にしてはハッキリと届き操は起き上がる。蒼紫を見るが相変わらず操に背を向けたままの体勢を崩してはいなかった。
「お前が他所の男と睦まじくしている姿に悋気して、腹を立てた」
間違いなく蒼紫の声で告げられる。しかし、操は要領を得なかった。自分で聞いておきながら、それを肯定される言葉を告げられながら、いまいち現実味が感じられない。
蒼紫はそれから黙ったままだ。
「あの、えっと……」何か返さねばならないと言葉を探す。「私が好きなのは蒼紫さまだけだよ」
操は布団の上に手を置いて人差し指で意味もなく皺を撫でる。自分が嫉妬することはあれ、蒼紫に嫉妬されるということが不思議なことに感じられる。嬉しいのか、悲しいのかもわからない。
「……お前が俺を好いていても、他所の男と親しげにする姿は腹立たしい」
息が詰まる。操はたちまち息苦しくなり無闇に皺を撫でていた手を自分の胸にあてた。苦しかった。苦しくて仕方ない。泣けてしまえたら少しは楽になるのだろうか。じわりと込み上げてくる感情が涙に変わればと。
蒼紫はまだ操に背を向けている。
これだけのことを言っていながら、素っ気ない態度にも思われた。
「そっちに行ってもいい?」操の口からするりと飛び出した。傍に行きたい。触れたいと心が求めるのを止められずに言葉になる。時より、操はそういう気持ちに襲われる。好きで――日頃より蒼紫を好きだとは感じているが、それとはまた別に好きでどうしようもなくなって、そんな時、ひょっこりと蒼紫の部屋に行き一緒の布団で眠る。蒼紫はそれを許してくれた。
「いや、今宵は」しかし蒼紫から色よい返事はこなかった。
「どうして? まだ、怒ってるの?」
「そうではない。今宵は――……ただ眠るだけでは済ませそうにない」
普段の蒼紫らしからぬ発言に、細やかに激しく脈打っていた心臓が、大きく揺さぶられる。
第三者の存在が発火剤になることはよくある話だが、男女の関わりとは距離のある二人に昼間の出来事は強く働いたようだった。
「……いいよ。私、あの…」
操は言って、依然として背を向けたまま動かぬ蒼紫の姿をじっと見つめる。
だが、流石にそれは。まだ二人は婚儀前である。感情に流されてなすのは――"賢い"蒼紫の理性が許すはずなかった。されば操は促したことが恥ずかしくなる。今夜はどうも自分は恥ばかりかいていると、布団をひっかぶり横になる。
脈の早さがおさまらない。心臓が張り裂けてしまいそうだ。
目をきつく瞑り、鎮まれ、鎮まれ、と呪文のように唱える。――と、人の気配が。驚いて目を開けて姿勢を上向ければ覆いかぶさる蒼紫の姿があった。
「よいのだな」
「あ、え、あの、……」最後は言葉に出来ずにゆっくりとうなずく。すると大きな手が操の頬に触れる。かと思うと唇に触れるもの。
一度離れて、もう一度。今度は触れるだけではなく唇の間を舌先で舐められる。自分の舌で自分の唇を舐めたことはあれど、人にされると全く違う。傍にある蒼紫の肩を掴むと生温かい感触が離されていく。近い位置に蒼紫の息遣いがある。目が合う。しかし、そこには操の知らない獰猛な眼差しがあった。それだけであれば恐ろしくて竦み上ったかもしれないが、切なさと焦燥が入り混じる様子に胸が締め付けられる思いがする。
「操。」名を、呼ばれただけなのに眩暈がしそうだった。
ただ、ここまで切羽詰まった蒼紫の様子は操を混乱させる。
「ほ、ほんとにするの?」そんな間の抜けた問いかけが出る。
されば操の迷いを察して、「嫌ならやめるか」と。いつもの蒼紫ならばそう告げていただろうし、或いは操も心のどこかでそれを望んでいたのかもしれないが、
「ああ、もう止められない」続いたのは真逆の言葉だった。
操は息を呑む。
自らよいと承諾したことだったが本気の覚悟がついているわけではなかった。思いと実際に行動することの間には大きな隔たりがある。心の迷いがあるうちは無理強いはしない――無意識のうちに蒼紫に寄せていた信頼なのか安心感なのか、男として認識しきれずにいた危機感のなさか。しかしそれらがあっさり壊された。
「……あ、あの、でも、あの、私……」それでもまだ抵抗が口を出る。けして嫌なわけではなかったが怖気づく心が。「ど、どうしていいか、わからないし」
「どうもしなくてよい」操の狼狽も蒼紫に心変わりを起こさせなかった。
「ど、ど、どうもしなくてよいって……」
「じっとしておればよい」
熱い吐息が近づいて唇が重なる。
上唇を吸われ、下唇を吸われ、その間、操は言われた通りじっと動かない――というより動けずに与えられる刺激に硬直する。蒼紫の"本気さ"にいよいよどうしてよいかわからなくなった。
蒼紫は動きを止めて、少し距離を開けた。
操が硬くなったまま大きな目で蒼紫を見ている。そっと頬に触れて撫でてやるとわずかに表情が崩れる。
(何も知らぬか――)
蒼紫の内にあった火傷しそうな滾る熱がふと和らぐ。早く抱きたい、その身の奥に入り一分の隙もないほど己で埋めてしまいたいと悋気からの独占欲が静まり、この身は何も知らぬだという優越感に満たされる。
すべて、これからこの手で与えてやる――そのような歓喜があることを知っていた。うぶな女子に悦びを教え込む"初物"好きな男がいる。花街でも"水揚げの相手"となるために多額の金子を払う者がいる。だがそれを酔狂な趣味だと思っていた。同じ買うなら手練手管のある女子がよい。快楽を得るための刻を教授に使って何が楽しいのかと信じてきたが。
頬を撫でていた指が動く。親指で乱暴に口をこじ開けるが、操はまだ硬直している。蒼紫は構わず指を奥へ差しいれる。口内を縦横無尽に動き回る侵入者に、本来の主である操の舌は縮みあがって奥へ引っ込んでいたが、狭い中ですぐに見つけられる。緊張し固くなったそれを指の腹で撫でられるといいようのない感覚に力が抜け前に引っ張り出される。上手く飲み込めずに唾液が溢れた。操の目に涙が浮かぶが、それを見ても蒼紫に躊躇はなく、もっと奥へ届くよう親指から人差し指へ変えられる。ただ指を違えただけだが与えられる刺激は別物だ。力の加減も、撫で方も、闇雲に動いていた親指とは違い明らかな意図を持ち動きまわる。さればその意図の通り、操の体に熱が籠っていく。味わったことのないくぐもった熱が下腹部の辺りに集まり始め、
「んっ……や……」
止めさせようと両手で蒼紫の手首を掴むが熱を帯びる体を押さえることに必死で力が入らない。しかし、このままでは自分は何か得体の知れぬものに飲み込まれると恐ろしく、
「や…、やぁ……ん、や…」
やめてくれと懇願もうまく音にはならない。
蒼紫は操の様子に目を細めた。己の愛撫で聞いたこともない声を聞かせ、快感を散らせようと両膝を立て腿をこすり合わせ抗う仕草は甘やかな媚態にしか映らない。もっと見たいと思うことはあれ、ここでやめる男が何処にいると言わんばかりに、口内をまさぐる指をもう一本増やす。
されば操はもう行為をやめさせる余裕もなくなり、駆け抜ける熱を押さえこむのに必死と蒼紫の手を掴んでいた両手を離し、代わりに敷布を掴む。だがそれぐらいで治まるはずなく、操の息づかいは荒々しくなる。
――やぁ、やぁぁあ――……。
声にならぬ悲鳴にこのまま、と思ったところで蒼紫の動きが止まった。指を抜かれ新鮮な空気が入ってくる。大きく何度も呼吸し、傍にある気配の方へ視線を向ける。やめてくれる気になったのかと淡い期待を抱いていたが。
「お前は、感じやすいな」
蒼紫は笑っていた。――優しげな微笑みとは違う。獲物を捕える際に己の強さを見せつけるためにする冷淡な笑みに似ている。それを向けられた相手は絶望すると、緋村剣心に初めて会ったとき話をした。だがそれが自分に向けられるとは。
「もっと、よくしてやろう」
悦びに満ちた声も操には冷酷な通告に響いた。
「もうやだぁ」幼子のような泣き言が洩れる。蒼紫のことならなんでも知っていると思っていた。だが今の蒼紫は操の知らぬ男である。蒼紫だけではない自分自身も。"あのような声"を出し、体に走る痺れに体を悶えさせ、そんな振る舞いの全てが恥ずかしく後ろめたさが広がる。
しかし、それでも蒼紫にやめる気はない。
泣きだした操を膝の上に抱きあげると額に唇をつけた。
「このままではお前とて辛かろう」
今しがた与えていた愛撫で最後まで到達させることはしなかった。火花を散らすような熱の先に何があるのか操は知らぬはず。それでも中途半端な状態で気持ち悪さはいなめぬだろうと促した。
「辛くなんてない」操は強情に否定するが、
「操。」嘘をつくなと咎めるように呼ばれる。
蒼紫の顔を見上げる。熱を帯びたままの眼差しで見つめ返される。
「蒼紫さま、」お願い、やめて。と続けたかったがその前に口づけが落ちてくる。
また、眩暈のするような感覚。快楽と恐怖の区別もわからず操は身を固くする。
「力を抜け」合間に告げられるが、それで抜けるはずない。
言ってもどうにもならぬなら、力を抜けさせるように仕向けるしかない。蒼紫は操の着物の衿に手を忍ばせる。瞬間、操の身がびくりと大きく跳ねた。重ねていた唇が離れても手の動きは止まらない。膨らみに到達すると無遠慮に触れた。
「あ、あおしさま、ちょっと、あの」
「聞き分けろ」
操が恥じらっているうちに器用に帯を緩められ肌が露わになる。蒼紫の手に覆われて見えぬが、その手の動く下に自分の胸である。手を離されれば見えるし、離されなければ触れられたまま、前にも後にも進めぬ状態に羞恥は極限だった。そんな操の戸惑いを感じてはいるだろうが蒼紫は我関せずと触れ続ける。優しく丁寧に、痛みも快感も感じさせず操の呼吸する音に合わせて触れている。
しばらくそうしていたが、思い立ったように蒼紫は操に口づけると、唇を頬から首筋とずらしはじめ鎖骨まで到達すると一瞬の空白のあと乳房を口に含んだ。
操には赤子が母親にする行為としての認識しかない。それを、大の男が――自分が常日頃から敬愛する蒼紫が、自分に対してするなど信じられないことだった。
「いやだ、やめ……」だが驚きも、甘い疼きに飲み込まれ言葉が消えゆく。
突起を生温かい感触が這う。蒼紫の口で吸われ、舌で舐められているとわかれば、少し静まりかけていた熱が体を巡り始まる。
自分の胸に顔をうずめる蒼紫の肩先を懸命に掴み押し返すがビクとも動かない。
操が胸の刺激に気を取られているうちに、蒼紫の操を抱え込んでいない方の手が裾を割き腿に触れる。それでもまだ胸の刺激が勝っていたが、更に触れられたことのない部分へ延びれば流石に。しかし、時すでに遅しである。
蒼紫は胸元から顔を上げると、抗議が来る前に唇を塞いだ。
「んんっ……」洩れる吐息が艶を出す。
蒼紫の肩を掴む手の力も強まる。
誰にも自分でも触れたことのない場所を這う指先が耐えられず、悶えるように踵で床を蹴るが敷布の上では滑るだけ。抗いの意味もなさず、それでもせぬよりましであると執拗に動かし続けるれば裾の肌蹴けが増し白い足を覗かせる。それも、やがて鈍りはじめ、操の身体が小さく震え始まる頃、繰り返されていた口づけを止めた。すると、操のからやめてほしいと懇願されるかと思われたが、しがみつくように首に両手を回される。すでに操の身体は引き返せぬほど火がつけられている。
「やぁ……こわ、い、……あおしさ、……」しどけない声に混ざり僅かに残っている理性が未知の領域へ引きずられそうになる恐怖を吐き出す。ぎゅっと抱きつき蒼紫の肩に顎を乗せているものだから、その声は耳元に直にかかる。されば、蒼紫の吐息も熱を強める。指先の濡れは十分ではないがこちらとて我慢の限界とその身を床に横たえた。
操の呼吸は粗い。焦らしているわけではないが解放されることなく苦しげだった。早くよくいてやりたいと思い、己もよくなりたいと願い、覆いかぶさり顔中に口づけを落とす。
「操。」
(――お前に、痛い思いはさせたくない)
本心である。初めてのこと、どうしても痛みは伴うだろうがそれでも出来うる限り辛くないように時間をかけてゆっくりとしてやりたいと考えてきたが。
蒼紫は身を移す。操の身体に熱い吐息が触れた。
操は惚けたように天井を見つめている。身体の疼きと心の羞恥とが均衡し滑って行く気配に震えるのみだった。だが、蒼紫が動きを止めて腹の下の秘めたる場所へ顔をうずめると、
「――っやぁ」これまでになく跳ね上がり声が出る。
操は右膝を立てたが、されば膝頭に蒼紫の左手が置かれ宥めるように撫でまわされやがて腿と移される。
「やっ、やっ、……そこやぁ…」
操は確認することも恐ろしいのか視線を向けることはないが、手を下腹部の辺りへ伸ばせば蒼紫の頭があり髪に指を差しいれた。さらさらと流れる黒髪を綺麗だと思っていたし、触れることを好んでいたが、今は感触を楽しむどころではない。両手で頭髪を掻き回せばぐしゃぐしゃと乱れる。しかし蒼紫はやめさせようとはしない。熱い息と生ぬるい舌で刺激を与えるに忙しい。指でするより舌先の方が一度に触れる面積が広いし、骨ばってゴツゴツとした感触と違い柔らかくぬるりとして弾力が操を乱す。
「んっゃぁ…や、や、や」切ない嬌声が続いたが唐突に消える。操は自分の腕を噛み堪えている。蒼紫も気づいたが、まだ濡れが足りぬ。もうしばし、とこれも操を傷つけぬためであると言い聞かせ湿らせる。
「あ、っん、ん……ん…」
堪えきれずに洩れる甘い声音。
(――もうよいか)
蒼紫はまた身を滑らせる操の上に被されば噛んでいる手を引きはがし頭上に束ねて拘束させた。
今は操を責めるものはない。
ただ、秘部に当たるものが何かはわかる。
「よいな」
短い一言のあと返事をする間もなく一息に挿ってくる。
「―――――――――――っ」
疼いていた熱の解放と貫かれた痛みとが同時に訪れ操の頭は真っ白に染められる。
それからのことはうっすらとしか覚えていない。
自分の身体の奥へ自分ではないものが挿り込み動く。それは思考をひどく鈍らせた。頭が働かず、腹のあたりから込み上げてくる感覚に満たされる。怖いと思い、嫌だと抗っていたことも忘れ、それを素直に受け入れさせられる。
「操。」時折声が聞こえると切なさが込み上げた。
返事の代わりに身体が震えれば動きが早まり
「あっ、ん、あっ、あっ……んやぁ、やっ……」
打ちつけられる動きに合わせて声を上げれば動きは激しくなりそれを逃れようと声を噛みしめるが、
「噛むな」許してもらえず口をこじ開けられ指を差し入れてくる。口内が弱いことを既に知られている。執拗な愛撫がほどこされると目の前に閃光が走るような快感がくる。このままではおかしくなると顔を左右に振り、
「はぁ、ん……んっ、んっ、んっ…はぁ、おし、さ」
潤んだ目で必死に自分の名を呼ぶ媚態は扇情的だった。
咥えさせた指を抜き操の両足を抱え込みより深くへ入りこむ。隙間もなく奥で揺らせば掻き乱される内側が強い刺激を施した。
過ぎた快楽は苦痛となれど止めることも出来ずに操を貪れば、
「やぁ、や、やっん……やぁ、あ、ん、あっ、あっ」たまらない声をあげる。
大事にしたいと思いよりもただこの身を可愛がりたい気持ちが増す。
「操。操」と呼ぶ声にも熱が宿り、高みへ昇らせ続ければ、
「あ、あっ、あっ、あっ、あ、ん、ん、ゃぁあああ――――っ」
それを最後に操と記憶は完全に途絶えた。
目覚めると薄暗い。
操は起き上がろうとしたが下腹部に違和を感じる。他にも身体の節々が痛く頭もぼんやりし気怠い。
「操。」声がする。
しかし、操は声のする方向を背にして横になる。されば本来なら操が眠っているはずの床が視界へ入る。軽く整えられてはいたがそこで何がなされたか否応なく突き付けられ心臓が跳ねた。見るのもいたたまれなくなったが、背後で動く気配がしてそちらを振り向くことも憚られた。
「操。」
もう一度呼ばれ髪に触れられる。手つきは操のよく知る優しげで遠慮がちなものだ。少し前、この大好きな手が見知らぬ男のように自分に触れた。もちろん、無理強いされたと言うつもりはない。途中でやめてほしいとは思ったが、「よい」と告げた事実をひるがえす気はない。だが、まだ心の整理がつかなかった。
「怒っておるのか」
尋ねられるが応えようがない。操自身、己の心に去来している感情がいかなものかよくわからない。怒っていると言われれば怒っている気もする。
「……嫌になったか」
自分を、嫌いになったかと問われるとそれには黙っていられない。ゆっくりと振り返ると思っていたより近い位置に蒼紫の姿がある。
「そんな質問はズルイ」
「ズルイか」
「ズルイ。……蒼紫さまを嫌いになるわけないじゃない」
怒ったり悲しんだり苛立ったり好ましくない感情を抱くことはあっても蒼紫を嫌うことなどない。操にとっての絶対だった。
操の睨むような眼差しがひりひりと蒼紫を突いたが、自分の気持ちを疑うなとの怒りであると思えば蒼紫の表情は緩む。
「もう一泊していくか」
「え?」
いきなりの申し出に操は言葉を詰まらせる。
「ゆっくり休んだ方がよいだろう」
「それは、そうだけど……店が困るじゃない」
ここへは仕事で来ていると言われ続けたのを思い出し操は躊躇いを口にした。
「一日、二日、戻るのが伸びたぐらいで潰れたりはせぬ」
元々、蒼紫がおらずとも立派に営業していた店である。
京都にいても二人で出掛けることは少ない。せっかく大阪まで行くのだから楽しんでくればよいと翁から言われていた。ただ、店の者が働いているのに遊び惚けるなど気が咎めると断ったのだが。
「回復すれば、昼から見物にでも行くか」
「……いいの?」
「ああ」
「ホントに?」
うなずけば操の顔が華やぐ。虫の居所が悪くとも嬉しいことは嬉しいと反応する。強情な態度を示されれば仲違いまで発展したかもしれないが素直に喜ぶ姿が蒼紫には有難い。何より操の笑顔は愛らしい。可愛らしくて思わず頭を撫でまわした。だが、それには操が批難の声を上げる。
「もう! 子ども扱いしないでよ」
可愛さ余っての行動を咎められるなど心外であったがそれよりも蒼紫の脳裏には別の光景が浮かんだ。
「……ああ、そうだ。お前は子どもではない」
低く発せられた。いやに真剣に聞こえて操は不可思議な気持ちになる。
「お前は子どもなどではない」蒼紫は繰り返し「だからもう他所の男に撫でられるような隙を見せるな」
続いた言葉に操はきょとんとなったがやがて意味を理解する。蒼紫が靖一郎にやきもちを焼いたと聞かされたがまだ気にしているらしい。操も蒼紫の傍に女子が寄ればやきもちを焼くが「何もない」と言われれば安堵し納得するのに。
――蒼紫さまって結構……しつこいな。
声に出すことこそなかったが心うちで過る。
そもそも"こう"なったのも嫉妬されたのに起因すると思い至れば操よりも蒼紫の方が嫉妬深いのではないかとの疑いが。
「……わかったのか」返事をせずにいれば詰め寄られ威圧的に見つめられると肯定するより他にない。
「わかったよ」操が言えば、
「いい子だ」満足して執拗に頭も身体も撫で回しはじめる。
「ちょっと! やめてよ。子どもじゃないから撫でられるなって言ったの蒼紫さまでしょ」
「俺はよいのだ」
「そんな勝手な」
「勝手ではない。俺はよい」
どんな理屈で言い放つのかわからないがやめる気配がない。それどころか抵抗すると余計に意地になるようである。
「もう、わかった。わかったよ。蒼紫さまはいいから――くすぐったいからやめて」
笑い声とともに告げれば手の動きは穏やかになる。
操は蒼紫と向き合ったまま寝心地のよい体勢を探しとる。
「まだ早い。もう少し眠っていろ」言うように朝には早い。
「うん」操も眠り足りない。
しかし、目を瞑っても蒼紫の手が止まることはなかった。
――蒼紫さまって、私のことどう思っているの?
操には昨夜の行為と今の行為がちぐはぐに思える。子どもと思っているならあんなことしないだろうけれど、今のこれは赤子を寝かしつけるように感じられる。どっちなのかわからず複雑な思いがするが怠い身体を擦られ続ければ力が抜けてまどろみが訪れる。次第に考える気力を奪われて眠りへ落ちていく。完全に睡魔に包まれる前、
「子どもとしても、女としても、なんであれ、お前を可愛がるのは俺だけでよい」
夢か現かそう聞こえた気がした。
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