やきもちシリーズ(R-18)

おしおき。

 御庭番衆に限らず、忍びには秘技がある。戦法とは異にする密偵方のための奥義――平たく言えば伽だ。くの一の妙技として知られているが、何も女子だけの技ではない。男の忍びとて扱える。色香で惑わし情報を得るのは古来より常套手段である。





 ここ数日、操の態度がおかしい。落ち着きがなく、そわそわして見える。だが心配事や悩みがあるというのではなく、どちらかといえばうきうきと楽しげだ。何をそれほど喜んでいるのか――蒼紫は気にはなったが、憂えたり悩んだりしているわけでもないのでもう少し様子を見ることにしたのだが。
 昼下がり、所用からの戻りに町で操を見かける。踊り出しそうな雰囲気でとある店へ入っていく。傍にはスラリと背の高い――操が小柄であるから余計にそう感じるのだが――男がいる。微笑みながら睦まじそうだ。
 男は知った顔だ。店を贔屓にしてくれる里川という老舗呉服屋の次男坊・湧水。幾度か父親に連れられて来ている。湧水も酒に強くない性質で、酔っぱらったところを操が介抱することがあった。その礼にと後日菓子折りを持参して詫びに来た。年が近いこともあり、また操の懐っこい性格から、以降、店の従業員と客というよりも友人としてという方が近い間柄になっている。とはいえ、二人きりで出かけるほど親しげだとは聞いていない。
 二人が入った店は男性洋服を専門に扱う店だ。湧水は呉服屋の息子でありながら洋装を着る。これからは洋装だと父親と長男と対立しているとの話であったが。
 それにしても、何故操とこの店へ。
 蒼紫は訝しく思ったが、後をついて入るのは矜持が許さない。その場は黙って去った。
 
 その夜。
 夕餉が終わりしばらくすると操が部屋にやってきた。盆に茶と水菓子を乗せている。
「一緒に食べようと思って」
 昼の茶菓子だが蒼紫は外出していたのでその分が残されていた。
 蒼紫は湯飲みを手に取ると、一口すする。操はよく熟れたいちじくをほおばる。
「うん、甘い」ふっくらとした唇を濡らしながら美味しそうに微笑んだが。
「お前も出かけていたのか」
「えっ、……あ、うん」
 水菓子は蒼紫の分だけではなく、操の分もある。それだけではなく昼間、蒼紫は町で操を見かけていたのだ。何食わぬ顔で尋ねれば操は一瞬言葉に詰まらせる。
「どこへ行っていた」
「……ちょっと散歩に出たの」
 普段であれば聞かずとも自らあれこれ話す。どこへ行き、誰と会ったか。単に道ですれ違った人物や、遠目に見かけた相手のことでも詳細に告げるのだが、
「一人で行っていたのか」
 更につっこんだ問いかけにも、
「うん、そうだよ」
 嘘をついた。
 されば蒼紫の心に押し寄せるのは疑惑の波である。操の性格を考えれば、蒼紫を裏切っているのに部屋にきて団欒などしないだろう。何か理由があるに違いないと冷静さが告げる。反面で、蒼紫にもごく普通の恋心というものがある。色恋は人を狂わす麻薬というが日頃は涼しい顔をし、何事にも動じぬ振る舞いをとる蒼紫だが、唯一、執着を見せるのが操こと。その操に嘘をつかれた――それも他の男を会っていたことを隠されたとあれば悠長に構えていられぬと、
「蒼紫さま、食べないの?」
 操は自分のいちじくの最後のひとかけをほおばりながら言った。
「操。」
「ん? なぁに?」
「俺に言うべきことがあるのではないか」
 操はきょっとんとした顔で蒼紫を見つめる。二人の間の温度差をまだ気付いていないようである。
「言わなきゃならないこと? ……えーっと、なんか言い忘れてたっけ?」
 楊枝を口に加えたまま、もぐもぐと咀嚼しつつ、右斜めを見つめて考え込む。しかし、思いつくことはないようで、
「特にないけど」
「俺に隠し事はするな」
 間髪置かず返せば、操ははっとした顔をしたが、
「べ、別に隠してることなんて」
 ないよ――最後の方は小声になる。そのような態度を信じられるはずもない。蒼紫はすっと目を細める。
「俺には言えぬことなのか」
「だ、だから、隠してることなんてないよ」
 否定しながらもぎこちない。形勢不利と判断したのかお盆に手を伸ばし、
「食べないなら、これ持って行くね」部屋を去る支度を始める。その細い手首を蒼紫が捕らえる。
「まだ、話は終わっていない」
「話って……何もないよ?」
 操の瞳が激しく揺れ動く。奥にある嘘を探るように蒼紫が見つめれば息を飲んだ。
「あ、あおしさま……こわいよ…」
 心細げに告げられたが、
「言いたくないなら、言いたくなるようにするまでだ」
 蒼紫は静かな笑みを浮かべている。妖艶で冷徹な姿に操の背中にビリリとした痺れが走り、ヘビに睨まれたカエルのように身動きがとれなくなる。されば蒼紫は操の身を押した。倒しきる寸前に己が敷いていた座布団を身の下に置く。これからしようとする行為とは裏腹に、畳の上ではいたかろうとの配慮である。厳しい感情に支配されている現状でも大事な娘を傷つけたくはないとの無意識の現れか。
「もう一度聞く、俺に言うべきことはないか」
 状況の変化についていけず大きな目を皿のようにして蒼紫を見る操の頬に手を撫でつけながら聞く。操が応えずにいると、
「仕方ないな」
 それを合図に頬に振れていた指先の動きが趣を変えた。
 顔を寄せ唇を重ねると果実の名残でしっとりとしている。それを拭うように唇を吸えば
「甘いな」
 顔を離すと思わず漏れた。いちじくの味も、操の味も両方が。
 二人が唇を合わせるのは三月振りとなる。大阪より戻ってから一度もない。
 あの日の出来事は操の身に劇的な変化をもたらせた。男を知ると女は変わると言うが、どこか少年とも思える中性さがあった身が、華が見事な開花をみせるように、蛹が蝶に羽化するように、目に見えて女らしくなった。そのことを当人は無自覚だったが周囲の者には何があったか明白のようで、
「責任はとってもらわないかんのう」
 翁からはからかい半分、咎め半分で言われる始末。
 何もなくとも操を娶るつもりでいたし、そもそもが婚約中の間柄だ。言われずとも夫婦になる。蒼紫は不愉快になったが、婚儀前の娘を抱くことは世間では傷物にしたととらえれるのだと。操をそのような状態にしてしまった己の浅はかさを恨んだ。嫉妬に狩られて婚儀前の操に手を出したことを。あの時はどうにも我慢も出来ずにいたが時間が経過するほど後悔が募った。それ故に、祝言を挙げるまではもう操の身に触れぬと己に戒めていたのだが。
 一方で、一度味わった温もりが忘れられなかった。操はこれまで同様じゃれてくるが、色気の増した姿ですり寄られると落ち着かない。抱きたくて仕方なくなったが、欲望を抱く度に大阪での後悔が過ぎる。早く婚儀を挙げて愛しい身を何の遠慮もなく可愛がりたいとそればかりを思い堪え忍んでいたのだ。
 しかし、蒼紫の忍耐を余所に、操は別の男と楽しげに過ごしていたと。女らしくなった姿に悪い虫が寄ってきたかと思えば苛立ちが溢れてくる。
 操は自分のものである。その身も、その心も、何の残りなく全て。それを周囲の者にも、操自身にもわからせたいとの思いが膨れ上がる。
――こんなことならば後悔などせず、毎夜愛でていればよかった。よそ見などする気が起きないように。
「あおし、さま――」
 操を見下ろす蒼紫の眼差しが鈍く光ると、心を支配する黒い感情が伝わったのか頼りない声で呼びかけられる。
「嘘つきには仕置きが必要だな」
 仕置きと告げられれば操の顔色が変わる。
「案ずるな、お前に酷い真似などしない。本当のことを言いたくなるよう可愛がるだけだ」
 恐怖を和らげるはずの言葉は、しかし尚のこと操の不安を煽った。



 拷問には二つある。苦痛を与えるか快楽を与えるか。前者は制裁のため、後者は情報を得るため行うことが多い。時に人は痛みより悦びに屈服する。
「んっ、やぁ……」
 悩ましげな声が響く。
 操の身を横たえた後、蒼紫は体中へ唇を落とし文字通り至る所を舐め味わい尽くした。それから唾液と蜜で濡れたその奥へと挿し入れる。まだ狭くきつい中へ少しばかり強引に侵入したかと思えば、ぐっと体を抱え込み直し膝上に乗せた。座った状態は組み敷いて突き上げるよりも更に深くへ届く。経験したことないほど最奥を揺らせれると、
「あっ、あっ……やぁ…」抵抗することもままならぬ操はひたすら感じる声を出す。それでも自由な上半身は与えられる感覚から逃れようと無意識に動き、ぐっと肘を引く。操の後ろには机がある。腕が机上を這えば置かれた硯箱をひっくり返す。しかし、操はそれに何の反応も示せない。ただ机の角を後ろ手で掴む。指先が真白になるほど強く握りしめている。そうでもせねば意識をまともに保てそうになかった。
 蒼紫もまた硯箱には気を止めず繋がれた部分へ響くよう操の腰に手を当てゆっくりと身を前後へ揺らす。
 蒼紫と机に挟まれ逃げ出す隙間のない操は、動きに併せてただ甘い声を上げ続ける。
 そうして果てることも許されず、快楽を与えられ続けて一刻にもなろうとしている。
 男に抱かれる――操が経験したのは僅か三月前の一度きり。蒼紫は半ば理性を失っていたが責め苦のような行いをすることはなかった。しかし、今は明らかに熱を逃さぬ執拗な振る舞いである。
 自ら腰をくねらせるなどはしたなく恥ずかしいとの思いを持つ余裕もないほど追いつめられ、どうにか解放を求めて動こうとするがそれも許してはもらえない。腰を掴む蒼紫の腕が操の動きを封じ己の手で与える揺さぶりのみを味あわせる。行為は寸でのところで交わされ最後まで到達することが出来ず歯がゆさともどかしさで意識が遠のく。
「……やぁ……、んっ、んっ……」
 蒼紫は操の媚態に目を細めて唇を重ねた。軽く触れるだけに留まらず唇を吸い、望んで奥へと舌を差し入れ口内をまさぐると、操のくぐもった声が増し、蒼紫を締め付ける強さも増した。されば腰を動かす両手を止めて、熱い吐息を吐き出しながら顔を離し、
「もうよいだろう。楽になれ」
 話せと促す。しかし、操はかぶりをふり声を漏らす。
「な、にも、なっ……」
「まだ強情を張るか。それとももっとしてほしいか」
 言うと、蒼紫は止めていた腕を動かし始める。奥がよくかき回されるようじっくりと。
「ちがっ……んやぁ、やぁ、やぁ……あお、し、さ……やめっ……」
 指先を机から蒼紫の肩先へ移した。着物を掴み引っ張るが腹の下から届く圧迫感が緩むことはない。体の密着部と、床に着いた膝が畳を打つのと、着物のこすれる音。それから操の艶めかしい声が室内を巡り続ける。
 隠密御庭番衆に伝わる夜伽。
 かつて、蒼紫が年若かった頃、密偵方としての役割を与えられたことがある。整った容姿が女子を惑わすのに良いと幾度となく。当時から文武に長けていた蒼紫にとって色香で惑わし情報を得るなど好むものではなかったが、これも任務の一環であり、投げ出すわけにはいかぬ。また心とは裏腹に蒼紫も若き身だ。欲望というものもあり己の妙技で悶える姿を悦ぶ心が全くなかったわけではない。ただ、それも最初のうちだけで欲しがりねだる痴態をやがてひどく醒めた眼差しで見つめるようになる。とっとと情報をはかせて終わらせたいとの思いばかりが強まった。だが今は――
「あお、し……さ……んっ、あっ、あっ、あっん……もう、……っんねがっい……」
 操の口から漏れる言葉。首筋に抱きついて耳元でいよいよ限界と懇願される。されば今一度、真実を吐けと告げるのが伽の技である。ここで落ちぬ者はいないと女子の高ぶりに反し冷静に敢行してきたが――相手が惚れた女とあれば話が違ってくる様で、操の内へ深く突き上げる快感へ次第に虜となる。大阪より戻ってからも欲し続け、しかし叶わなかった身だ。それが操の方から欲しい欲しいとねだられて平静いられるほど淡泊な性分ではない。蒼紫からも吐息がこぼれ落ち、操の体を揺らすだけだった動きを自らの腰を使いだす。
「……――っんぁ」
 操は大きく震える。
 己の身を振り中にあるものに触れるのと、中にあるものが意志を持ちかき乱されるのとは快楽の種類が異なる。それまでも自由はなく操が好き勝手動くことは止められ蒼紫の腕により揺り動かされていたが、前後へのゆっくりとした動作は幾分どこへくるか予想もつき、また果てることではなく継続的な刺激を施すことを目的としたそれは、快楽の波が引かぬという辛さはあれ、愛撫としてそこまで強いものではなかった。しかし、蒼紫が動くとなれば縦横無尽である。予想もつかぬところへ変則的に突き上げられると、そうでなくとも悦びに墜ちていた体には耐えきれない。
 漏れ出る吐息も次第に速まり、それと比例し蒼紫の動きも激しくなる。
 悦楽の反動が体中に押し寄せ、首筋に抱きついていた腕が蒼紫の後頭部を繰り返し撫で上げる。
 やがて、操の身が小刻みに震えた。蒼紫はそれを察して腕も腰の振りも止めた。操からため息に似た盛大な呼吸がある。
 ようやく最果てが訪れたが、しかし長らく揺さぶり続けられた身にはこの程度では満足な解放には至らない。何より蒼紫の方はまったく達してはおらず、操の身ごと体を移動させ傍に置き去りにしたままの座布団の上へもう一度組み敷いた。その際に、繋がりは絶たれたが抜ききる寸前に操が切なげな声を上げた。それを合図に蒼紫は己の熱を留める正気を失った。
 本来の目的は、昼間の男の話を聞き出すことだったはずが、
「操。」
 艶っぽい声で呼べば、操は熱を孕み潤んだ目だけで蒼紫の姿を追った。
「お前が体を開くのはこの俺だけだ――よいな」
 低く告げる。肯定しか聞くつもりのない問いだ。答えを聞く必要もないと操の足を抱え込む。先ほどとは違い達することを意図したそれは操を翻弄する。
「あっ、あっ、あっ、あっ、んぁ……」
 しかし、焦らされてきた身には強い刺激は心地よくあり、ちらつく真っ白な閃光を求めるばかり。されば、愛撫を抵抗なく感じる身が蒼紫の興奮を促した。容赦なく奥深くへ押し入り動き出す。
「あっ、んっ、んっ、んっ、んぁぁ――――……あっ、んっあっ、あっ……」
 蒼紫の下で我慢もせず悶える。散々と煽られ続けたあとである。打ち付けられる行為に腰を浮かせ求めてしまう。
「操。」
 蒼紫にとってもそれはひどく扇情的でたまらない光景だった。思えば肉体的な行為として及んだことはあれ、心が欲する者との情交を結んだことはない。惚れた女は操のみ。その相手が素直に欲しがる姿に何もかもが限界だった。
「操。」
 繰り返し名を呼び唇を重ねすべてを貪りつくすように我も忘れて求めれば、それに答えるように操の甘い嬌声が響きわたる。
 それは止むことなく明け方まで続いた。



 小鳥のさえずりが耳に届き操は目を覚ます。まだ完全に夜は明けていない。
 頭が割れるように痛い。それから体も。着ていたはずの着物ははだけて身に纏っているとかろうじて言える状態だ。
 初めて結ばれた夜は、翌朝、目覚めると蒼紫の手により身綺麗にされて出来事の名残は体の気怠さのみであった。だが、今回は目で見てわかる情交の痕が。
 体も布団ではなく床に寝そべっている。
 近くから健やかな吐息が聞こえ横になったまま視線を向ければ――蒼紫が見える。その姿もだらしないとは言わないが、普段の蒼紫からは考えれぬほど胸元ははだけ裾も乱れている。つい先程まで繰り返され、ようやくの終わりを迎えた行為のあと、精も根も尽き果て眠りに落ちた。それほど夢中で抱いていたと――しかし、それは操の感情を荒ぶらせる。
 仕置きだと言われ、散々啼かされた。憤るなと言う方がむごい。
「あ、あおしさまのバカァ――ッ!」
 ここしばらくの欲求を解消しすきりと心地よい夢見でいた蒼紫を怒りの罵声が叩き起こした。

 気まずい――と翁を筆頭に葵屋の面々は朝餉を食べながらいたたまれない心持ちでいた。
 操の機嫌がすこぶる悪い。素直な性格であり、怒ったり拗ねたりということはこれまで幾度もあったが、今回はそれらとはかなり異なる。晒し出す雰囲気がおどろおどろしいというか、恨みがましいというか、相当に虫の居所が悪い。
 一方で蒼紫は黙り込んでいる。その様子はいつもと変わらぬように見えるが、威厳とも威圧感ともつかぬ風格が今日はいささか頼りなくなっている。そして、時折ちらりと操を伺っている。
 昨夜、二人の間に何が起きたか、みなうっすらと理解はしているが、内容が内容である。口出しするのも憚られる。からかい好きの翁も、下手を言えば操を傷つけるかもしれぬと、この件に関しては物言わぬ。それでも蒼紫と操のいわば夫婦喧嘩に巻き込まれる店の者の身を思えば、ここはやはり自分が場を和ませるべきとも思い、
「今日は、会合じゃろう」
 蒼紫に向かって告げる。
 言うように、本日は来月に迫った祭りの打ち合わせだ。毎年、方々から人が多く訪れる行事であり集客率が見込める。より人を呼び込めるよう町を上げて催しを考える。
「帰りに大黒屋のおはぎを買ってきてくれんか」
 会合が開かれる場所の近くにある和菓子屋のおはぎは有名で翁の好物であり、
「操も好きじゃしな」続ければ、
「……買ってこよう」手にしていた湯呑みを膳に起きながら蒼紫が答えた。
 菓子でご機嫌とりなど子どもではあるまいと思うが、それでも喜ばそうと翁の策に乗る格好だが、
「ごちそうさまでした」
 操は会話には一切関心を示さず手を合わせる。
「なんじゃ、ちっとも食べておらんじゃないか」
 膳には大方食べ残されている。
「体が怠くて食べる気がしない」
 悪いけどちょっと横になるから――と続けて部屋を出て行く。事実なのだろうが、当てつけのようにもとれる。しかしそれに物申すわけにもいかず操の退席を誰もが黙って見送る。

――まいった。
 部屋に戻った蒼紫はため息をつく。
 やりすぎた、とは思っている。蒼紫自身も疲労を感じるほどであるから、蒼紫よりも体力の劣る操には相当の負担である。それも受け身の側となれば言わずもがな。おまけに堅い畳の上で、である。操が怒るのも無理ない気がした。どちらかといえば怒っているだけで軽蔑されたり嫌われたりというまでに至らなかっただけよかったと思うべきかもしれない。だが、
――元をただせば、
 いいわけなど卑怯だ。結果は結果であると考えるがそれでもついと頭を過ぎる。元は操が嘘をついたことに端を発しているのだ。結局のところ、男との関係を知ることもできぬままだ。
 これが任務であればとんでもない失敗だ。
 しかし、失敗したからといって逃げ出すわけにもいかない。おろおろしたり、遠まわしな機嫌取りより正攻法で真正面から話をするべきであると――蒼紫は部屋を出た。だが、
「操ちゃーん、お客さまよ」
 増髪の声が聞こえる。
 朝の早い時間に来客とは珍しい。だが、蒼紫にとってみれば邪魔者である。出鼻を挫かれ部屋に戻る。
 操が戻るまで手持ち無沙汰となったが、出掛ける準備もせねばならない。蒼紫はもう一度大きな息を吐き出しながら着替え始めた。

 書物を開いても内容が入ってこない。
 蒼紫は仕事着としている洋装へ着替え机の前に座っている。昨夜この場所で操を抱いた。その際にひっくり返した硯箱のせいで、畳の一部に墨が落ち黒い染みになっている。蒼紫はそれを指先で撫でた。
 操の来客はすでに終わっている様子だったが店を出る時間が迫りつつあり話しに行っても中途半端に終わりそうだ。また一度きっかけを損ねたことも手伝って二の足を踏んでいる。しかし、放っておけば怒りが静まる内容ではない。時が経つほど気まずさが膨れ上がると承知している故に迷う。どうしたものかと考えていると、
「蒼紫さま、入っていい?」
 伺いの声がする。意外にも操だった。だが声音も振る舞いも他人仰々しい。普段はもっと気軽く「入るよ」と告げながら入ってくるが今は障子の向こうでじっと蒼紫の許可を待っている。
「入れ」発した声は素っ気ない。こういう場合にどのような態度に出ればよいのかわからずつい冷たくなってしまう。己の不出来さに蒼紫は奥歯を噛む。
 障子が開き操が入ってくる。その表情はやはり不機嫌そうに見えた。
 無言のまま蒼紫の傍まで近寄ってきて座ると蒼紫も体を操に向けた。されば何の因果か二人の中間に墨汁で汚れた畳が位置しており目に入る。操は一瞬動きを止めたが汚れを覆い隠すように細長い包みを置いた。
「蒼紫さまに」
 包みは白河洋服店――昨夜、操が入っていった店のものだ。
「なんだ」問いかけると
「ネクタイ」短い一言がある。
 蒼紫にと、中身はネクタイで、ネクタイを買ったのは件の店。それらは綺麗な一線を結ぶ。同時に蒼紫は目眩を覚えた。
「いっつも買ってもらうばかりだから、たまには私も何か贈り物をしたいなぁって思って、ずっと考えて、いろんなお店を見て回ったんだけど、なかなかいい物が見つからなくて。暑くなるし、扇子なら持ち歩いてもらえるかなぁって、そうしようと昨日買いに行ったんだけど、実際に品物を見てたら蒼紫さまが扇子を使うところが想像できなくて迷っていたの。そしたら偶然に湧水さんに会って、困っているって話をしたら、ネクタイがいいんじゃないかって言われて、湧水さんが馴染みにしているお店に連れて行ってくれて、そこですっごく蒼紫さまに似合いそうなネクタイを見つけて、ちょうど今日出掛けるって知ってたからつけてもらえるかもって喜んだの。だけど、買って包装してもらってるときに品物に染みがついてるのがわかっちゃって、『同じ物を明日また入荷しますから一日待ってもらえませんか』って言われて。汚れてる物は買えないから仕方ないかぁって思ったんだけど、せっかく今日つけてもらえると喜んだのにって悲しくなっちゃって――そしたら、それを知ってたお店の人がさっき『届きましたから』ってわざわざ持ってきてくれたの」
 どこで息継ぎをしているのだと問いたくなるほど一息に言った。それからぐっと包みを蒼紫の前に押す。
「驚かそうと思って」
 それが何も言わない理由であったと言われ蒼紫は何と返せばよいかわからなくなる。
「開けてみて」
 促され蒼紫は包みを手に取り開く。
 夏の涼やかな草原を思わせる優しい緑の上に澄んだ空のごとき鮮やかな青で菱形模様が施されてある。
「してみて」
 それにも無言のまま従う。今しているネクタイの結び目を右手の人差し指で緩めるとスルリとはずし机に置いて新しいネクタイを両手でとると巻いた。
「ちょっと歪んでるよ」
 鏡も見ず、おまけに操の真剣な眼差しで見つめられ普段より緊張したのか乱れを指摘される。
「ほら」操がにじり寄ってきて直す。蒼紫の身だしなみを操が直すなど滅多にない。否、初めてのことだ。照れくさいような、こそばゆいような、奇妙な心持ちになる。
 終わると操はじっと蒼紫を見つめ、
「うん。似合ってる」にっこり微笑んで告げた。
 なんとも言えぬ嬉しげな表情だ。仏頂面からの変化とあって一際輝いて見える。
 操はやはり笑顔が似合う――つられて蒼紫の表情も緩む。
「それ、していってね」
「ああ」蒼紫は答える。嬉しげな操に機嫌が治ったのかと少し安堵して。しかし、
「でも、昨日のことを許した訳じゃないからね」
 それはそれ、これはこれであると釘を打たれる。
「酷いことはしないって言ったのに」
「……悪かった」
「やめてって何度も言ったのに」
「すまなかった」
「これじゃ”さぷらいずぷれぜんと”も出来ないじゃない」
 蒼紫は言葉がなかった。
 操はただ蒼紫に喜んでもらおうとここ数日のうちあれこれ考えて、様々な店を見に行き、ようやくよい物を購入し、後はそれが手元に届いたら渡して驚かすだけ――というところまで準備を進めた。それを当人がかぎつけてぶち壊したのである。
 馬鹿なことをした。操が他の男と一緒にいたというだけで別の選択肢を考えることなく浮気を疑い、苛立ち、無体な真似をしたのだ。しかし、蓋を開けてみれば浮気どころか、そのすべては蒼紫に繋がることであったと知らされて情けないやら申し訳ないやら、本当につくづく自分は操のこととなると目がくらんでしまうのだと。
「……でも、ホントはちょっとだけ嬉しかったの」
 黙り込んだ蒼紫に、操はふてくされたような物言いだったが続けた。
「ああいう風なのは嫌だけど、その……大阪から戻ってから、蒼紫さま、ずっと、あの……そういうことなかったし、なんだか素っ気なかったし…………私、女らしくないし、だからその……嫌になったのかなぁって……」
 最後の方はほとんど聞き取れないほどの小声で、操の顔は見る見る赤くなっていく。
 一方で蒼紫はいささか面食らっていた。婚儀が済むまでは操には触れぬと決め、しかし傍に寄れば触れたいとの欲求が溢れ、それ故に距離をとっていたのは事実だが。操にはそれが冷たく見えていたと――だが、言われるとその通りである。初めて結ばれて、その後で余所余所しい態度をとられると不安になるのは頷ける。そうでなくとも操は女としての自分に自信がないことを知っている。幼児体型であると――そのようなこと蒼紫はいささかも気になどしていないが――悩んでいた。蒼紫が触れてこないのは自分の身に魅力がないからと解釈する可能性を少し考えればわかりそうなもの。だが、蒼紫はそこまで考えつかなかった。そういうことにはどこまでも疎く、女子の心なぞ少しも理解していないという事実が浮き彫りになる。
「婚儀が終わるまではと忍んでいただけだ。大阪より戻ってから、お前を抱きたいと思わなかった日は一度もない」
「え?」操は顔を上げた。
「お前がよいのなら、俺はもう我慢などせん」蒼紫が続けると、操の顔の赤みが増す。茹で蛸よりも赤くなり、頭からは湯気がでそうなほど恥じらっている様子に、蒼紫の胸に溢れ出る感情――可愛いと。可愛くて食べてしまいたいとはこういうことかと生まれて初めて実感する。
「操。」
 そして、その思いのままに顔を寄せる。が、
「……って、私は昨日のこと許した訳じゃないんだからね!」
 真っ赤な顔のまま操が叫ぶ。それはそうである。昨日の今日で懲りもせずにとの怒りはわからないではない。
「当分、触らないでよね」捨て台詞を吐くと、部屋から走り去っていく。
 されば、残された蒼紫はしくじったと後悔しているかと思いきや――"お許し"が出たことに意識が向き、”当分”とはいつまでを指すのだろうかと思案する。存外に現金で懲りぬ男であった。