「何処へ行った! 出てこい! 成敗してやるぞ、鬼畜生め!」
境内の敷地内でドスの聞いた声がした。男たちの集団が目を血走らせて探し回るのは、比喩ではなく本物の鬼である。
都に、鬼が現れた。
騒ぎが起きたのは一刻前。雨も降っておらぬのにほおかぶりをして、きょろきょろと周囲を物珍しげに見ながら歩いている娘がいた。そのうち、煌びやかな呉服屋の前で立ち止まり、店を入ってすぐに置いてある手鏡や櫛などしげしげと眺め始めた。店の手代が、何かお探しですか、と声をかければ、驚いて後ずさる。その様子があまりにも大袈裟で、手代はひょっとしてこの娘は何か盗んだのではないかと疑い捕まえようとし、揉みあいになり、拍子に、ほおかぶりがはらりとれた。
「ひぃ」と手代は悲鳴をあげる。
娘の頭には見慣れぬ、というより、人間にはないもの――角があったからである。
「お、お、鬼だ! 鬼が出た」
されば娘は慌てふためいて逃げて行った。
その後、腕っ節に自信のある者たちが、鬼娘を探す騒動になっている。男たちは鬼娘を捕えて、手柄を立て、帝より褒美をもらう魂胆である。
「こっちにはいねぇな。大峰橋の方を探すか」
男たちはそう言うと、ドタドタと地面を蹴散らし掛けていった。
その音が完全に聞こえなくなった頃、社の扉が開き、中から一人の侍が出てくる。すらりと背が高く役者顔負けの色男だが、無表情で、近寄りづらい雰囲気を纏っている。
侍は、男たちがいなくなってしまったことを注意深く確認し、
「もうよい。出てこい」と社の中に向けていった。
しかし、誰も、何も出てはこない。
「おい、どうした。早く出てこい。さもなくば、またあの男たちが戻ってくるかもしれんぞ」
侍が半ば脅しのように続ければ、ようやくそろりそろりと娘……否、男たちが探していた鬼娘が出てくる。声こそ出してはおらぬが、その顔は涙でぐちょぐちょである。男たちに追いかけられたのだが余程に恐怖であったのだろう。
「……泣き止め。もう大丈夫といっているだろう」
「ふ、ふぇぇぇ」しかし、安堵したからか余計に泣き出す始末である。
「操。そんなに泣くな」
侍はその姿に先程までの、少し突き放したような物言いとは一転、慌てふためき、おろおろしながら、鬼娘――操の傍に寄り、その頭やら肩やら背中やらを撫でてやる。
「ここでは目立つ。屋敷に戻るので、しばし大人しくしていろ。もう怖い思いはしたくないだろ」
操はぐすっと鼻をすすりながらも、こくりと頷いた。
それを見て、侍は妙に懐かしいような気がし、同時にそんな自分を不思議に思った。
侍と鬼娘はかつて関わりをを持ったことがあったが、懐かしむほど共に時をすごしたわけではなかったからである。
――たしかに、俺はこの娘の涙を見ると落ち着かなかったが。
ふむ、と頷きながら、屋敷までの道中、ぐずる操の手を引きながら、出会った経緯を思い出していた。
侍の名は蒼紫という。元々は葵屋という料亭の三男として生まれ、長男である黒尉が家を継ぎ、次男・白尉もそれを支えるために料理人となったが、蒼紫だけは商人の暮らしが合わず、かといって武士になれるわけでもなく、将来を如何したものか、と思案していた頃、一人の若者が柄の悪そうな男たちに難癖つけたれているところを助けた。情けは人の為ならず――なんとそれが、お忍びで城下へきていた帝である。以来、蒼紫は帝直属の護衛に就くことになった。破格の出世といえよう。
また、蒼紫の祖父が大変な勤勉家で古今東西のあらゆる書物をおさめたといってよいほどの大きな蔵を有しており、蒼紫も己の生涯について悩み多き日々の内に、それらを読み漁り、政にも自ずと詳しくなった。それも手伝い、帝の良き相談相手にもなった。
そうして、一年経過したが、遠国から嘆願書が帝の元へ届く。
鬼が、里へ下りてきて、若い娘をかどわかしていく。用心棒を雇ったが、皆次々に返り討ちにされ、おちおち夜も眠れぬ。どうにかして退治してもらえまいか――という内容であった。
民が困っているのに、知らぬふりは出来ぬし、やがて鬼たちが都にも姿を見せるようになるかもしれぬ。そうなっては一大事、と討伐組を赴かせることにした。そこに、蒼紫も含まれた。
幸いにも鬼との間に争いは起きず、和解がなされた。鬼とは粗暴な生き物ではないのか、或いはそこにいた鬼たちがたまたまそうだったのか。
その時に、知り合った鬼娘が、操である。
怪我をした操を手当てしてやり、面倒を見てやったが、鬼との和平が成立した翌朝、別れの挨拶も交わさぬまま、操は姿を消した。それきりとなり、もう、会うこともないと思っていたのだ。
「着いたぞ」
蒼紫はまだぐすぐすと泣き止み切れない操に向かって言った。
裏口から入れば、
「あら、若。お帰りなさい。今日はお早いですね。それに、裏口から戻られるなんて、どうなさったんですか」
近江女が井戸で野菜を洗っているところで声をかけられた。
この屋敷には、女衆が二人いる。近江女と増髪という名である。護衛につくことになったとき、帝より屋敷を与えられた。それなりに立派な屋敷である。ただ、蒼紫は一人身だし、何事も器用にこなす、また実家が料亭であったので幼き頃は手伝いをしており、男でありながら自分で食べる物くらいは作れる。むしろ、無愛想な見かけに反して、存外に気を使う性分であるから、一人で勝手気ままに暮らした方がよいのだが……それでも蒼紫の世話を焼くよう女衆が二人つけられた。それは屋敷に度々くる客人のせいである。帝は、一度ひどい目に遭ったにも関わらず、今もって城下へお忍びで出向いてくる。その際に訪れるのが蒼紫の家である。頻度も結構なもので、故に、自分を引き立ててくれたのも、屋敷を与えたのも、実は城下に何時でも泊まれる家が欲しかったからではなかろうか、と思わなくもないほどである。
「ああ、ちょうどよいところに。頼みがある」
「まぁ、珍しい。若から頼みだなんて」
近江女は、大袈裟に驚いて見せ、それから蒼紫の後ろにいる操の存在に気付いたようで、あら? と声をもらした。
「風呂に入れてやってくれ」
蒼紫は背後に隠れる操を近江女の前に引っ張り出そうとするが、ぎゅっと背中に抱きついて離れなかった。
「操。心配せずとも、ここにはお前に危害を加える者はおらぬ」
そう言うと、操はようやく、おそるおそるだが一瞬だけ顔だけを覗かせた。
「あら、あら、あら」
すると、近江女が感嘆の声を上げる。
「まぁ、まぁ、なんて可愛らしい御嬢さん。……若。この御嬢さんに何をなさったんですか。こんなに泣いて」
「人聞き悪い。この娘は……」そこで蒼紫は一瞬躊躇い、ふっと息を吸い込んで「鬼だ」
続いた言葉に、ぎゅっと操が蒼紫の腰のあたりを強く掴んだ。鬼と告げたら、成敗すると言われるか、恐ろしかったのだろう。それは蒼紫も感じているようで、
「以前に、遠方に鬼たい……鬼の件で出向いたことがあったろう。そのときに知り合った娘だ。どういうわけか、都へきたらしい」
と端的な説明を述べ、近江女の反応を待つが、
「そしたら、町で騒ぎになってたのは……こんな可愛い子を、鬼だからと、皆でよってたかって追いかけてたのですか。まぁ、それはそれはさぞや恐ろしかったでしょう」
近江女の反応は悪いものではなかった。泣きはらして、人間に怯える様子は、鬼だろうと同情を感じさせるものだったらしい。蒼紫は安堵し、すがりつく様にじっとしている操を見下ろせば、それに気づいて見上げてくる。うん、と頷いてやれば、うん、と頷き返される。
「では、お風呂の支度をしますから、それまで部屋で休ませてあげてくださいね」
野菜がすべて洗い終わっていなかったが、近江女は忙しなく中庭から去って行った。
残され、蒼紫は言われた通りに操を部屋へ連れていき休ませることにし歩き出すが、
「……そんなに引っ付くな、歩きにくい」
ぴったりとまとわりつくというか、抱きつくと言ってよいほどに寄り添われてつんのめりそうになる。その忠言に、しかし操は傍を離れなかった。
「操。」
名を呼び、諌めるが、ふるふると首を左右に振った。
「もうお前を追いかけてくるものはいない」
そういっても、まだ追いかけられた恐怖心は拭いきれぬようで、この世でただ一人、蒼紫だけを頼りにしている様子である。まるで小動物のようにも見える。されば蒼紫の心が奇妙な音を鳴らす。それは父性というものなのか、それとももっと別のものなのかわからぬが、ひとまず今は休ませてやらねば――そう思い、大きく溜息を吐き出しながら、歩きにくさをそのままに部屋へ向かった。
ほかほかと、操の身体からまだ湯気が出ている。
近江女と増髪とが操を風呂に入れてやって、先程出てきたところである。
風呂に入れるにも一悶着あった。操が、蒼紫の傍を離れたがらず、手を焼いた。完全なる子ども返りをしてしまったようで、ヤダ、ヤダ、と駄々をこねて蒼紫の後ろに隠れて出てこない。
「操。」と蒼紫が少々厳しめの声を挙げるが、うぇ、と泣き出しそうになり、それを見れば蒼紫がおろおろし始める。そのやりとりを、驚いたように、それでいて面白げに見つめる女衆二人。日頃、冷静な蒼紫の混乱ぶりが新鮮に映ったようで、しばらくは蒼紫に説得を任せてみたが……まったく埒があきそうもないので、最後は噛んで含むように言い聞かせて操を連れて行った。
温かい風呂に入れば、落ち着きを取り戻したのか、戻ってきた操は大人しいままではあったが、蒼紫にべったりということはなくなり、ある程度距離を離した位置に座していた。
「して、何故、都へやってきた」
蒼紫は切り出した。
操が暮らすのは、ふらりと立ち寄ったというには随分離れた場所である。わざわざやってきたはずだ。
「…………迷惑だった?」
手拭いで乾き切っておらぬ頭をこすりながら、俯き加減に弱々しく発せられた。
「迷惑かどうかと問われたら、迷惑だ。俺は帝の護衛であると同時に、都の平穏を守る役割を担っている。鬼が現れ人々の心を乱されてはな」
蒼紫の発言に、操は明らかにしょげた。
面と向かって迷惑と言われれば当然である。
「若」と同席していた近江女から咎めの声が。
「ごめんなさい。か、帰るから」
その声に反応したのは操だった。
「ほら、ごらんなさい」
近江女が何故か勝ち誇ったように告げた。
蒼紫の柳眉が寄る。
その間、増髪が操に湯呑を持たせ、飲むように勧めた。身体が温まっても心が冷えついているだろうから、飲んだら落ち着く、と。どうやら、女衆二人はすっかり操の味方というか、まるで娘か妹のように思っているらしい。たしかに角と牙がなければ、愛くるしい容姿ではあるし、男たちに追い回されて怯えきった様子は庇護欲をそそるのもわかるが、にしても鬼を怖がらぬ腹の座り方には驚かされる。
蒼紫も、出された茶をすする。
「それで、ここへ来た理由はなんだ」
答えを得ていないことに気づき繰り返す。
蒼紫の真剣な眼差しが注がれていることに、操は身体を震わせた。それでも、世話をかけた手前、だんまりを続けるわけにもいかないと思ったのか、ぽつりぽつりと話し始める。
「……角が、生え変わったの」
「それで」
「角が生え変わったら、もう大人だから、祝言をあげることになったの」
「ほう」
人間にも成人の儀があるが、鬼にもあるらしいこと。角が生え変わるものであること。聞くの初めてのことで、左様なものかと感心する。
だが、その相槌に、操の大きな目が一瞬揺れ動いた。
「祝言ということは、お相手はいらっしゃるの?」
黙った操に、近江女が言った。
「私たちの一族は、男の方が多いから、女子が生まれたらすぐに許嫁が決まるんです。物心つく前から、言い聞かせられてましたし、そういうものだと受け入れて、嫁にいくの。でも私は……急に不安になってしまって、このまま祝言をあげていいのか、考えてたら村を飛び出して、それで」
「都まで逃げてきたのね」
口籠る操の代わりに、今度は増髪が告げた。
蒼紫はしげしげと操を見ていた。
初めて会った時から三月ほど経過したが、再会したときに何処となく雰囲気が違っていた。童というに近かった少女が、今はもうはっきりと娘になっていた。それを祝言という言葉により得心した。
年頃になれば、嫁ぐ。人間も鬼も変わらぬらしい。それも納得した。
「なるほど、事情はわかった。だが、これからお前はどうする気なのだ」
蒼紫は更に投げかけた。
今頃、鬼の村では操の行方を捜しているだろう。されば、都へまで来るかもしれぬ。それを危惧すべき事態である。
「どうって……」
「何も考えてはおらぬのだな」
「……ごめんなさい」
叱っているつもりはないが、操にはそう聞こえたようで謝罪される。
「で、でも、これ以上は迷惑かけないから。すぐに出て行くし」
「それでまた騒ぎを起こすのか」
騒ぎと聞いて、追いかけられたことを思い出したのか一時は戻った操の表情が青くなる。それでも、気丈に
「へ、平気だよ。もうあんなヘマしないし」
言いながら、もう出て行く気なのか立ち上がりかける。
蒼紫は溜息を吐いた。
「外はまだ騒ぎが治まってはおらんだろう。そこへのこのこ出て行くなど無謀だ」
「だけど、迷惑かけられないし」
操はそれを繰り返した。蒼紫に迷惑と言われたことが余程堪えていたようだ。
見かねて、近江女が、
「若が悪い。行く当てのない子を相手に、冷たすぎます」
ぴしゃりと言った。
増髪も、言葉にはせぬが眼差しが近江女と同様であることを告げていた。
蒼紫は再び溜息を吐いた。日頃は気にもせぬが、女衆の態度に、己が一応この屋敷では主人であるのにと思わなくはない。されど、二人にはどうも頭があがらない。年上の、酸いも甘いも噛分けた、そして、帝の信頼を得た女二人、鼻から敵うはずがない。
そして、結局は操の気持ちの整理がつくまで、屋敷に留め匿うことが決まった。
2014/9/24