蒼紫は参っていた。――操のことで、である。
そげない態度を取って(蒼紫にそのつもりはなかったが)、泣かせて以来、まともに操の顔が見れなくなっていた。それを当初は、苛めてしまったような後ろめたさが厭う気持ちに変わったのだろうと解釈していた。誰でも、自分を悪者にされれば(繰り返すが蒼紫に苛めるつもりはなかったわけであるし)嫌になるものである。が、それだけならいいのだが、厭うているはずが、操の存在が気になっている。それも勝手に出歩いて厄介ごとが起きぬか危惧してのことと考えたが、屋敷にいるとわかっていても、誰と(近江女か増髪しかおらぬが)何処にいて(居間か、客間か、風呂か、台所か、中庭ぐらいであるが)、何を話しているか。悲しそうにしていれば、何を悲しんでいるか気がかりだし、かといって楽しそうにしておれば、それはそれで何故かむっとする。とかく、一日中、操の気配を伺った。そのくせ、いざ本人を目の前にすると話もままならぬ。落ち着かずに、すぐに席を外す。
――俺は何をしているのか。
流石に蒼紫自身もおかしいとは感じるが、ではこのおかしさを如何すればよいかまでは見当がつかなかった。
その、散々なる日々の八つ当たりになったのは、あろうことか帝である。
「操は元気か」
近頃、政が忙しく城下にお忍びでくることがなかった帝が、しばしの憩いをとっていたとき、傍に仕える蒼紫へ戯れに聞いた。それに対して、
「帝がよからぬことを私へ吹き込みますから、妙にわだかまりができました」
「私が何を吹き込んだと申すか」
「操が私に惚れておると」
蒼紫が眉根を寄せて告げれば、帝は大層愉快に笑った。
「笑い事ではないのです。おかげで、操を意識して困る」
「されど蒼紫、何を困るのだ」
「何を……私が下手な態度を取れば、傷つけるかもしれぬと思い、迂闊に会話も出来ない」
蒼紫は応えた。
帝はなるほど、と頷き、
「つまり、お前は操の気持ちに応える気はないということだな」
と問うた。
蒼紫は動きを止めた。
「傷つけることばかり考えていると言うのは、傷つける答えしか持ち合わせておらんということであろう。……ならば一層、早うそう告げてやる方が互いの為であるが、お前はそれが出来ず、私のせいだと述べるか。そうであるなら仕方ない。私から操に話してやろう。善は急げという。これから参ろうぞ」
「されど、政がございましょう。私ごときのためにお時間を」「構わん。人の気持ち――否、鬼か、いずれにせよ心のことを中途半端にさせておくのは酷というものぞ。お前とて、職務に邁進出来まい。されば結果、私の身も危機になる。左様な目を摘むに、何も惜しくはないぞ」
そう言うと、帝は蒼紫の制止も聞かずに出向くことを決めた。
屋敷に戻る道中、それでも蒼紫はぶちぶちと帝を引き返させようとした。その様子を帝は面白く見つめながら、足取りを止めることはなかった。やがて、たどり着けば、操と、女衆と三人で縁側で茶を飲んでいたところだった。
帝の姿に気付けば、女衆はすっと立ち上がり一礼して、もてなしの為に奥へ消えた。
残された操に、
「元気にしておったか」と帝が声をかける。
「はい。帝様も?」
「ああ、この時期は、政が多くあり、息抜きも出来なかったが、今日はようやく時間が出来た。それに、お前に話があってな」
「私も、帝様にお話し……というか、ご挨拶をしたいと思っていたので、お会いできてよかったです」
「挨拶?」
「里へ帰ることにしましたので、別れの挨拶です」
帝は咄嗟に蒼紫を振り返った。そこには、面食らった顔で木偶の棒のように突っ立つ姿がある。その様子に蒼紫も知らされていなかったことが伺えた。
「それはまた、急であるな」
「はい、先程、決めました。今宵は満月ですから、夜道も明るいでしょうし、夜明け前に、ここを経つつもりです」
「そうか。寂しくなるな」
帝は顎をしきりに掻きながら言った。
「それで、帝様のお話というのは?」
「ああ、いや、私もお前の身内の者が心配しているのではないかと思うて、文の一つでも書いてはどうかと。されど、帰るのか。そうか……そういえば、お前は婚儀前であったな。祝言を挙げる覚悟が定まったか」
「はい。ようやく、気持ちの整理がつきました」
操ははっきりと告げた。その顔は清々しくさえある。
帝は、うむ、と頷いた。それ以外に言えることもなかった。そして、
「ならば、今宵は別れの宴としよう」と続けた。
月が綺麗。――厠からの戻りに、煌々とした満月に操は足を止めた。
宴は和やかに、つづがなく、楽しく、時々、女衆の寂しくなるわ、本当に帰るの? そんな急に決めずとも考え直したら、という嘆きと引き留めを交えながら進んだ。操もまた、きっと文を書くからね、とすかりと懐いたようでぎゅっと手を握り合い別れを惜しんだ。
――いい思い出が出来た。
口元に、微細な笑みを浮かべるが、それがかすかに震えている。
泣いてはいけない、と思っても、一人になると少し気が緩んだ。
操が都へ来たのは、祝言への不安から――それもあるが、真の目的は蒼紫へ会うためであった。
人の里で会って以来、操の心には蒼紫の存在が強く残った。――会いたい。ふとした拍子に思う。だが、何故会いたくなるのか、操にはわからなかった。わからないまま、日に日に強まる思いが、祝言の日取りを決した夜、ついに我慢ならずに飛び出してきた。
――会いたい。
祝言を挙げる前に、今一度、会いたい。その一心で都へきた。
都は操の知る人里とは全く違い、人が多く、活気に満ちていた。これほど人がいては、どうやって蒼紫を探せばよいか、闇雲に歩くうちに、見たことのない美しいものや、おいしそうなものが並ぶのが目に飛び込んでくる。鬼といえ、操も年頃の娘である。つい興味を持ち店にまで入ってしまう。そこで鬼とばれ追いかけられ、もう駄目かと諦めかけたところを助けてくれたのが蒼紫だった。
恐怖から解放されたことと、会いたかった人物に会えたことに、操はわんわんと泣いた。蒼紫に抱き付いて、声をあげて泣き、そうしながら、もう二度と、この人から離れたくないと思った。ずっと、傍にいたいと。
だが、操の思いとは裏腹に、蒼紫は操の存在を迷惑と言った。
考えれば、当然である。蒼紫の役目は都の平和を守ることである。鬼の自分が現れれば、そこにいるだけで混乱を招く。邪魔ものである。左様なこと、少し考えればわかるはずが、操は蒼紫に会いに来た。そして、心の片隅では蒼紫も歓迎してくれるとの期待を抱いていた。それが木っ端微塵に砕けたのである。
すぐにでも帰らねば――思ったが、近江女と増髪のとりなしで、しばしの滞在を許されることになった。操は鼻っ柱の強いところがあり、迷惑がられてまでいるつもりはない、と普段であれば突っぱねて帰っているはずが、留まることにした。面と向かって迷惑と言われてもまだ、蒼紫の傍にいたいとの思いが優っていた。
この気持ちは何なのだろう。答えがわかったのは、今日の昼すぎである。
蒼紫が帝の元へ向かい、屋敷に残された操と、近江女と、増髪は、歌舞伎を観に出かけた。演目は、惚れた男に会うために、女が火事を起こすというものであった。
『会いたい。あの人に会いたい』
女は言いながら、火をつける。されば火消しである思い人が駆けつけてくれるはず。
『あの人に会わせておくれ』
炎の中で狂ったように繰り返す。熱い、熱い、その身を焦がすは恋の炎。
操は息が止まりそうだった。好き――その言葉にたどり着き、胸が苦しかった。
――ああ、私は。
己の心のうちにあった靄に、ようやく光が差し込んだような、さっぱりとした気持ちになった。自分は恋をしていたのだと。蒼紫を好きであったのだと。
それは操にとっての初恋であった。同時に、その思いは終止符を打たねばならぬものだった。相手は人で、自分は鬼である。うまくいくはずがない。そもそもが、蒼紫は操を迷惑がっているのである。それでも厚かましく屋敷に留まったのは、祝言を挙げることへの躊躇いからと自分に言い聞かせていたが、そうではなく、蒼紫を好いているからとわかれば、このまま平然と留まっておくわけにはいかぬ。
操の決意を後押しするよう、芝居小屋からの帰りに、親子連れに声をかけられた。
「これは、これは、みなさん御揃いで、若さんのお世話はよろしいのですか。なんなら、うちの娘を手伝いにいかせましょうか」
ニヤニヤと近寄ってくる恰幅は良いが、何処となくだらしない印象の年輩の男と、その傍には操と左程年嵩の変わらぬ娘がいる。
「結構です。この間のように、無理やり押しかけられたら、承知しませんからね」
近江女が厳しい声で告げたが、
「恐ろしいな。あんたら、そんな態度とってたら、後でしりませんよ」
男は少しも怯まずに、ひひひっと嫌な笑いを浮かべる。
娘もそれに便乗するように、
「そうよ。私が嫁いだら、あんたたちなんてみーんなお暇出してやるわ」
どこから左様な自信がくるのかというほど強い調子で続けた。
だが、それを聞いて、近江女と増髪は顔を見合わせ、大笑いし始める。これまでこの親子には散々と嫌味を――蒼紫に相手にされぬ腹いせともいえる――聞かされてきた分、ここぞとばかりに、
「何をおっしゃるやら。若にはもうすでに心に決めた方がいらっしゃいますよ」
「そうそう、あの若が、櫛や簪や贈り物をしたりしてねぇ。それはそれは大事にしてねぇ」
変わる変わるに言えば、
「そんな嘘を!」とそれでもまだ信じきれないと否定してくる。
「嘘などつくはずないでしょう。そちらこそ、若と祝言をあげるだなんだといい加減なお話をあちこちでされてるみたいですけど、恥かくだけですからおやめになってくださいね」
外堀を埋まればどうにかなるとでも思っているのか、そのような噂を流していることも知っているのだとチクリと告げれば、親子は真っ赤な顔をして去って行った。
「ああ、すっきりした」
撃退し満足気に近江女が言った。
「本当に」
近江女より幾分温厚な増髪まで一緒になって頷く。二人とも腹に据えかねていたようだが。
「あの……」操は目を白黒させながら、ようやくおずおずとだが声をかけた。
「ああ、操ちゃん、驚かせてごめんなさいね」
「いえ、あの、今の人は……」
「若の見合い相手よ。と言っても、向こうが無理やり持ってきて、無理やり進めようとしていただけで、きちんとお断りしていたんだけどねぇ。若に相手がいないからそれはそれはしつこくて。でも、これでようやく諦めるわ」
「……ってことは、蒼紫さんにお相手がいるというのは本当……」
「いやだわ、操ちゃん。そんな白々しいこと言って。ああ、でも若には今のことは内緒よ。ちょっと天邪鬼なところがある人だから、私らがそんなこと言ってたとしったら依怙地になるしね」
近江女は何が可笑しいのかバシバシと操の肩を叩いた。
操は、なんと答えればよいか、曖昧に笑いながら、心の中は修羅場であった。なにせ聞かされたのは全く想像もしていなかったことである。衝撃は凄まじい。自分の身が先程の娘の姿と重なり、相手にされてもいないのに、傍に張り付いていたことが急に恥ずかしくなり頭がくらくらとした。その後、近江女と増髪が何やらわいわいと言っていた気がするが、気もそぞろで、言葉は右から左へと抜けていった。ようやく我を取り戻したときには、屋敷にいて、そして、ここを出て行くことを、出て行かねばならぬことを決めたのである。
操は胸元から、櫛を取り出した。
帝と蒼紫と三人で町を見物しに行った日、蒼紫と揉めた。元々、迷惑がられていたのは知っているが、操を置き去りにしようとし、結局はそこまで冷たくも出来ず戻ってきてはくれたが、喧嘩になった。もういい、とカッとなって蒼紫の元を去ろうとしたが、蒼紫は謝罪を述べ、泣く操を慰めてくれた。迷惑に思っているのに、しきりに謝られると、操は尚更情けない気になり涙が止まらなくなった。蒼紫はそれをどう解釈したのか、悪かったと何度も繰り返し、機嫌をなおしてくれと買ってくれたものだ。
――私だって、買ってもらったもん。
それは蒼紫にしてみれば赤子を泣き止ませようと与える玩具のつもりであっただろうが、見たこともない蒼紫の思い人に対抗してみれば、ふふ、っと笑いがこぼれた。
きっと自分はこの櫛を後生大事にするだろう。
どのような成り行きであれ、初めて好きになった相手から、初めてもらったものである。
けして叶わぬ思いであったが、都へきて良かったと、操は思う。あのまま、もやもやしたままで、祝言を挙げるよりは。
さぁ、もう少しだ。思いっきり楽しんで残りの時間を過ごそう。
両手で頬を叩き、再び歩き出すが。
「操」歩みを遮るように呼び止める声は――蒼紫である。
月の光がさらさらと降り注ぐ中、夜を切り裂くように、ふと現れた姿に、操は息を飲んだ。
「あ、えっと、……蒼紫さんも手水?」
「いや、酔い冷ましだ」
「そっか。蒼紫さん、お酒弱いもんね。……お水持ってくる?」
「ああ、頼む」
「うん、待ってて」
操はにっこり微笑み、パタパタと勝手口へ向かった。
ふぅ、と息を吐き出した。
呑めぬ酒を呑み、身体が熱い。普段であれば付き合いで二口ほどなら口をつけることはあるが、今宵は帝に煽られるままに一合徳利を独りで開けた。そのせいで、頭がくらりとする。
廊下の柱に背を持たせて座り込む。
月がふくふくと夜空に浮かんでいるのも、ぼやけて二重に映るほどである。
頭をかけば、前髪が落ちてくる。髪の乱れは心の乱れと言ったのは誰であったか。くしゃくしゃと執拗にかいていれば、
「持ってきたよ」と声がした。
ゆっくりと顔をあげれば、ぼんやりと操が水を差し出しているのが見えた。
蒼紫は受け取り、一息に飲み干した。
全く、想定外のことばかりが、己の身に降りかかっている。操が都へ来たこと、それが蒼紫へ会うためと聞かされたこと、その気持ちをどうしてやればよいか悩み続け独りではどうしようもなくなり帝に告げれば、代わりに言ってやると言われたこと、そして、屋敷に戻れば帝が言うより先に操が里へ帰ると言い出したこと。それも――祝言を挙げる気持ちの整理がついたからと。
全く想定外である。操は自分を好いていたはずではなかったか。帝にからかわれただけであったか。
「蒼紫さん大丈夫? なんか目が据わってるし。眠る? 部屋まで連れて行こうか」
「お前は、どういうつもりか」
「え? どういうつもりって何の話?」
ぼやけていた視線が、操の声に吸い寄せられる。その輪郭が明瞭になる。
「里へ戻り、祝言を挙げるのか」
「……うん、そうだよ」
操はさらりと告げた。その、あまりにも簡素な、躊躇いのなさに、蒼紫の身体が熱くなる。
夜風が二人の間にある空気の温度差を交わすように吹いた。
蒼紫は髪をかきあげた。
「あ、そっか。何か雰囲気が違うと思ったら、前髪を下ろしているからだ」
操はけらけらと声を立てて笑った。
「そうしてると幼くなるね。最後に、珍しいもの見ちゃった」
そして、続けた。最後と。
「――……お前は、何の為にここへ来た」
「なんの為って……祝言を挙げる前の、ちょっとした物見遊山? このままお嫁さんになっちゃっていいのかなぁって不安になって、何か他にあるんじゃないかって思って。でも、私の居場所は里にしかないってわかったから」
「なんだそれは。不安になったと、それだけで都まできたのか。俺に会いにきたのではなかったのか」
口が軽い。ぺらぺらとよく動く――蒼紫は他人事のように感じていた。
されど、言われた操はそうもいかぬ。その大きな目をしばたたたかせた。
「知ってたの?」
「やはり、そうか」
蒼紫の口元が緩み、酒を煽るように湯呑を煽る。僅かに残っていた水が唇から顎へと伝った。
ごくり、と咽喉がなった。水で潤った蒼紫のではなく、操の。
「なんだ、そっか。知ってたんだ。うん、そう。蒼紫さんに会いにきたの。最後に、会っておきたかったの。会えて気が済んだ。もうこれで思い残すこともなくお嫁にいけるよ」
操は笑った。元より笑っていたがもっと。それ以外、どうしようもなかった。その笑みはたしかに笑顔を作っているが悲しく映る。しかし、酒に酔い、視界が明瞭と不明瞭と揺れ動く蒼紫には笑顔であることしかわからない。そして、その笑みに不快さを覚える。
ドン、と音がした。湯呑が乱暴に床に置かれ、操は驚き小さな身体が飛び跳ねた。
酒乱というものがあるが、蒼紫もそうなのか。それとも気に障るようなことを言ったのか。
――私に好かれていることが嫌ってこと?
鬼に好かれても迷惑である。それが、怒りになったとして、そうなのかもしれないと思う。ならば、自分に会いに来たのかなど聞かなければよかったではないか。操も、聞かれなければ黙って去るつもりであったのに。聞かれて嘘をつけるほど、大人ではない。
「お前はよいな」
「……どういう意味ですか」
「勝手にやってきて、気が済んだと帰って、それで何事もなく祝言を挙げて、幸せなことだな」
やさぐれた物言いに、操は眉を寄せた。
薄ら笑いを浮かべる姿にも、益々不快さを増す。
二人を包んでいた眩かった月が、雲隠れし、真っ暗な闇夜に落ちた。操も、蒼紫も、夜目には強いが、突然の漆黒に互いの呼吸をかぎ分けるのみである。
「それで、俺はどうすればよい」
呼吸のかすかな音に紛れて、聞こえた。
空耳かと思うほど、小さな、呟きである。
「お前はそれで気が済み、何もかもさっぱりと切り捨てて、それで残された俺はどうすればよい」
次のそれは、はっきりと操に届いた。
風が吹き始める。冷ややかな、強い風が、雲を流し、隠した月が姿を見せる。薄らとした光が戻れば、蒼紫の手が、操の腕を掴んでいた。視線が絡まる。否、真っ暗な内で、見えずとも見つめあっていたが、それが白日にさらされた。
「どうって……蒼紫さんも好きな人とうまくやればいいじゃん。心に決めた人がいるって、お近さんたちがいってたし。その人に櫛や簪の贈り物をして大切にしてるって。そういう人がいるくせに、どうしてそんなこと言うの?」
「俺が櫛を贈ったのは、後にも先にもただの一人きりだ」
操の手は胸元に置かれていた。そこには蒼紫からもらった櫛が入れてある。後生大事にすると誓った櫛である。
「………………で、でも簪…」
今度は蒼紫が胸元へ手を忍ばせた。取り出したのは操が口にした簪である。
「お前が、また泣いたときにと思って買ってあったものだ」
「な、……私のこと泣き虫みたいに!」
「泣き虫だろう。よく泣く。初めて会ったときも、再会したときも、――――今も」
操は奥歯を噛みしめた。それでも鼻の先がつんと痛みに目頭が熱くなる。
何が起きているか。何を言われているか。うまく飲み込めずに、ふわふわと心もとなく、
「でも、でも」と震える声で繰り返せば。
「少し黙れ」いささか脅しのような低い声がして、掴まれた腕を強く引かれた。その先に待ち受けていたのは操の身体よりも更に熱を帯びた蒼紫の身体であり、唇である。
「んっ」
僅かな、だが甘い声が漏れる。しかし、それは直ぐに治まる。貪るような口づけは官能を呼び覚ますどころか、操の身体を硬直させた。初めてのことについてはいけず、じっと動かぬ様子に、流石に蒼紫も奇妙に思い解放すれば、
「ふ、ふぇ」と緊張が高まりすぎたか泣き出しかける。
それを宥めるように、いたるところを撫でながら、
「待て。場所を移せば存分に啼かしてやる」
蒼紫が愉しげに告げた。
ちゅんちゅんと鳴くのは雀である。
操が目を開ければ、障子の向こうは薄くであるが明るく、夜が終わったことを告げていた。
あっ、と思い起き上ろうとしたが、頭に敷かれているのが自分以外の者の腕であることに気づいて、うわっ、と驚きの声が上がる。
「なんだ。色気のない」
次に聞き覚えのある声がして、ゆっくりと顔を向ければ、やはり知っている人物がいて、ただその表情は、操の知る姿より幼く思えた。前髪を下ろすとそうなるのだと昨夜知ったが、それだけではなく、いつも、何処か、気負うものがあったが、それが削ぎ落とされて安らいだように、口元に微笑を浮かべているからであろう。
「私、その……どれくらい眠ってたの?」
話せば、咽喉がひりひりと痛み、首を撫でながら告げた。言ってから、他にもっと聞かなければならないことがあるような気がした。
「眠ってはおらん。しばし、気を飛ばしていただけだ」
「え? えっと、あの」
気を飛ばすというのはどういうことか――否、裸体であることから想像はつくが、それを理解するまでの間には大きな山があり、乗り越えるのは厄介で、おたおたと冷や汗が出てくる。そんな操の混乱を他所に、
「最初に、お前が言った通りになったな」
「……私が?」
「ああ、そうだ。怪我をしたお前の手当てをしてやろうと山から連れ帰るときに鬼さらいと人聞きの悪いことを叫んでいたが、その通りになった」
「そ、それって、えっと、つまり……」
きっと嬉しいことを言われているはずであるのに、わかりたいような、わかりたくないような、複雑な感情に、操は目をくるくるさせる。それを蒼紫は笑って見ていたが。
「わからぬなら、後でじっくり説明してやる」
「後で? 今じゃなく」
「今は、忙しい」
そういうと、優し気だった眼差しが、獲物をしとめる獣のごとくギラリと獰猛に光った。操は嫌な予感を覚え、床からはい出そうとしたが、がっしりとした腕にとらえられ敵わない。
「お前が気をやってしまったせいで、俺は未だ終われていない」
そして、告げられた言葉に、心底の危機を感じ、
「蒼紫さん!」と叫んだが、鬼をもさらう男がそれで聞き分けるはずもなかった。
2014/9/25