again and again

14. 二度あることは

「どうしてあなたがここにいるの……」
 予期せぬ人物に一瞬言葉を失ったが、ごくんと生唾を飲み込んだら詰まったものが流れ出し、心にとどめておくべき声がぼろりと溢れた。それはつぶやきぐらいの大きさであったが、防音設備が行き届いているらしく開いた扉からかすかにステージの演奏が聞こえてくるだけの、他に私の声を妨害するものがない状況では、部屋にいる全員に聞こえただろう。
「え?」とバーテンダーさんが困惑したような視線を投げてくるのがわかったが、私は四乃森蒼紫が本当に四乃森蒼紫であるか見定めようと凝視していたので、その台詞が誰に向けられたものか理解し「お知り合いですか?」と私にではなく四乃森蒼紫に投げかけた。
 水分が一挙に蒸発したような、喉の奥がカラカラと干上がる感覚に襲われたのは、たぶん、後ろめたいからだろう。
 思い出されるのは、明良兄からの電話だ。
「謝罪したがってるんだが、どうかな」
 あの言い合いの翌日、占いの館から戻ると明良兄から着信があり打診された。明良兄も私を家まで送り届けずにいたことに憤りを感じ、二度と関わらせない、と一度は思ったそうだが、その後の四乃森蒼紫の態度にほだされ間を取り持つことにしたらしい。嫌ならいいんだ、操の気持ちが一番大事だから――とは言ってくれていたが仲直りしてほしそうだった。
 私は鎌足に話を聞いてもらったことで幾分落ち着きを取り戻していたが、だからといってすぐさま謝罪を受け入れられるかと問われれば答えはNOだったし、何より明日からの期末試験に集中したかったことを理由に、今はまだ無理、気持ちの整理がついたら連絡します、と言ったきりになっていた。
 謝罪を拒否している状態の相手に、こんな形で出くわすとは。
 四乃森蒼紫も、私の存在に面食らっているのか入り口から一歩も動かず突っ立っている。それを訝しがるような、心配するような感じで、バーテンダーさんが「オーナー?」と呼びかける。
――オーナー……ってことは四乃森蒼紫のお店だったの!?
 四乃森蒼紫がカフェバーを経営しているのは聞いていた(そもそも、あの夜もお店にいくついでに私を送ってくれるという話だったし)が、まさかここだったなんて!
「あの、オーナー?」
「……ああ、すまない。なんでもない」 
 バーテンダーさんの三度目の呼びかけで四乃森蒼紫は我に返り、つかつかと近寄ってくるとソファに腰掛ける私たち――というか燕の――前に膝をつくような格好で屈み
「どこかお怪我はありませんか。怖い思いをさせて申し訳ないです」と言った。
「え、えっと、はい、平気です」燕が答えながら、ぎこちない視線を私に投げてくる。それはそうだろう、四乃森蒼紫は私のことなど目に入っていない振る舞いをしているのだから。明良兄の家で再会したときも素っ気なくされたが、今回は以前よりもひどい。私と燕だったら明らかに燕の方が顔色が悪いので、まず初めに声をかけたのかな、といいように解釈しようとしたが、その後も全然チラリとも私を見ようともしない。どうやら、なんでもない、というのは、私の存在がなんでもない、ということらしい。となれば謝罪を拒否したまま放置していた後ろめたさは消え去っていく。というか、この人が本心から謝罪したいと言ったのかさえ怪しく思えた。
「私より、操ちゃんが……」
 燕が言う。おそらく私への気遣いだろうけれど、それでも四乃森蒼紫が私を見ることはない。なんなのだろうなぁ、と嫌な気持ちがあったけれど、
「私も平気。あのまま殴られるかと思ったけど、バーテンダーさんが止めてくれたおかげでちょっと顎をかすめたぐらいで済んだから怪我もしてないし」と答えた。
 男がこぶしを振り下ろしたときのぶんっと風を切る音が今も生々しく耳に残っているが、それは言わずにいた。
「え、当たってたんですか」
 平気だと言ったのにバーテンダーさんが声を上げる。顎をかすめたというのが引っかかったようで、傍まで来、どこですか!? と詰め寄られる。その前のめり具合が少し怖い。
「いや、本当にかすっただけですから」
「でも、当たったんでしょう?」と憤慨した調子で私の顎に触れて怪我がないか、くい、くいっと左右を向かせられ、腫れや傷がないか念入りに確認される。他人にこんな風に触れられたのは初めてで、どう反応すればいいのかわからずされるがままになっていたが、ひんやりとした指先がこそばゆくて我慢できずに吹き出してしまう。それで彼は自分がしていることに気づいたらしく、解放してくれた。
「失礼しました」
「あ、いいえ、心配をおかけしてすみません」
 ペコペコとお辞儀し合っていると、
「高倉」低い声がした。
「はい」とバーテンダーさん(高倉という名前らしい)が返事をするが、呼びかけたはずの四乃森蒼紫はそれ以上何も言わず無言だ。室内が妙な沈黙に陥り、冷え冷えとする。
 それを終わらせたのは燕だった。
「あの男の人はどうなったんですか」
 遠慮がちに尋ねる。嫌な相手のことなのに気になるのか、嫌な相手のことだから知っておきたいのか、言いながらまた少し顔色が悪くなったような気がする。
「彼なら警察にお引き取り願いました」
 高倉さんが答えた。
 私と燕は顔を見合わせた。迷惑行為を受けたが警察沙汰に発展しているとは思っていなかったから。
「気に病むことはないですよ。今回の件とは別に余罪が見つかりましたので引き取ってもらっただけです」
「余罪って?」好奇心半分に尋ねてみるが、
「知らない方がいい。こういうこととは関わり合いを持たない方がいいですから」と教えてはもらえなかった。ただ、にっこり笑った目の奥が鋭い光を帯びていたので、私が想像するよりもずっとあの男は危険だったのだと今更になって自分の無謀さに血の気が引く。本当に、何事もなくてよかった。
 それから、私たちからも被害届を出すかどうか聞かれたが、怪我もなかったし危ない人間を訴えて逆恨みされるのも恐ろしいので断り、気持ちも落ち着いたので帰る旨を伝えた。
 ソファから立ち上がれば
「送っていきましょう」
 突然だんまりになった四乃森蒼紫が、突然また会話に入ってくる。やはり私は視界に入れてもらえず燕に対してだったけれど。
 燕は申し出を断った。だが、四乃森蒼紫は引かない。
「顔色もまだ悪いですし、そうさせていただけますか」と続けた。
 とても気遣って、とても親切そうに。そしていささか強引な感じに、ああ、この人は、きちんと自ら進んでこういうことを言える人なのだと思ったら胸がキリキリした。私が送ってもらったときのことと比較してしまったせいだろう。比較する必要もないのに。
 人と比べ出てくる感情――優越であれ劣等であれ――は心をむしばんでいくもので、危うい暗闇がぽっかりと大きな口を開けて私を待ち構えているのを感じ、
「送ってもらった方がいいんじゃない?」と援護した。
 大切な友人の不調に対して何をするべきかを一番に考えることで真っ暗闇を追い払う。
 燕は驚いた様子だったが、
「電車より車の方が身体も辛くないだろうし、嫌な目に遭うときは立て続けに遭遇したりするものだから。男性がいた方が頼りになると思うし」
 ペラペラと口から出る言葉は、自分で言うのもなんだけれど整然としていて、ここまで言えば燕は断らないだろうと思ったが、ダメ押しで、よろしくお願いします、と四乃森蒼紫へ頭を下げる。
「では、車を回してきますから、入口で待っていてください」
 四乃森蒼紫はすかさず言い、宣言通り通り立ち上がり退室した。素早い動きだ。
 後を追うように私と燕、それから高倉さんとでぞろぞろと部屋を出てバーカウンターまで戻る。ライブ演奏が再び始まりステージに人が戻ったせいか閑散としていたが、残った人の中に相良先輩の姿を見つける。向こうも私に気づいて、
「おお、どうだった? 俺の歌」
 右手を挙げながら屈託ない笑顔で近寄ってくる。
 こっちはいろいろ大変だったのにのんきだな、とムッとして、そのムッとが八つ当たりであることに情けなくなった。嫌なことがあると、それを受け止めてくれそうな、親しい人に甘えが出る。
「……すみません、見てないんです」
 私は心にあるもろもろをぐっと飲み込み、見ていないと正直に言えば相良先輩はわかりやすく拗ねたような表情になった。
「なんだよ。時間間違えたのか」
「いろいろありまして」
「いろいろって……ひょっとして、さっきのゴタゴタに関係してんのか.。マスターが男に絡まれてる子を助けて、それが格好良かったとか女どもがキャーキャーいってたけど、絡まれてた子ってお前なの?」
 相良先輩は私の傍に立つ高倉さんを見ながら、辻褄を合わせたようだった。
「私じゃなくて、狙われたのは燕ですけど」
「大丈夫だったのか?」
 相良先輩は燕の方を向いて言った。
「あ、はい。私は全然、操ちゃんが庇ってくれたので」
「へぇ、やるじゃん。頑張ったな」燕の言葉を受けて私の頭をガシガシと撫でた。それはまさに弟を褒める兄の図だ。本当にこの人は私のことを弟だと勘違いしているのではないかと疑ってしまう。
「相良君、褒めないで叱るところでしょ。もうちょっとで殴られるところだったんだから。さっきは言わなかったけど、ああいうときは誰か助けを呼ばないと怪我してからじゃ遅いんだよ」
 高倉さんが割って入ってきて、相良先輩を窘め、それから強い口調で私への説教が始まった。何故このタイミングで言い出したのか、まるで思い出し怒りならぬ思いだし説教のようだ。
「なんかマスター、父親……つーか、母親みたいだなぁ」
 相良先輩は悪びれずに茶化す。どうして余計なことを言うのか。またこれで高倉さんに火が付いたらどうするのだ、と私は相良先輩を睨んだが、
「あ……すみません。差し出がましいことを言いました」
 高倉さんは鳩が豆鉄砲を食らったように目をぎょろりとさせると、さっきまでの勢いを失い、謝られてしまう。その喜怒哀楽の移ろい方が奇妙に思え、私は困惑した。それでも、すべては私のためを思って言ってくれていることはわかるので嫌な気持ちにはならなかった。
「まぁ、俺のステージを見れなかったのは残念だったな。これに懲りずにまた来いよ。今日は運が悪かっただけで変な店じゃないから」
 お店の人が傍にいるのに、自分のお店みたいに言うなぁ、と半ば呆れつつ、相良先輩らしいと突っ込むことはせず、はいそうします、とそのまま別れ店を後にした。
 地上へ上がるとすっかり夜になっているかと思ったが、七時を過ぎているというのにまだ明るい。
 四乃森蒼紫の車は到着していて、私たちに気づくとわざわざ運転席から降りてきて、後部座席の扉を開けながら、
「家はどちらですか」と燕に尋ねた。
「あ、えっと、千里丘の方です」答えれば、それを受けて
「では、彼女とは方向が逆ですね」と返した。
 四乃森蒼紫がいう彼女とは、私のことである。ただし、そう言いながら私の方を少しも見てはいない。そのせいで一瞬言われたのが私のことだとわからなかったぐらいだ。
「あ、やっぱりオーナーとお知り合いなんですね」
 高倉さんが言った。今度のそれは私に向けられていた。同じ質問をして、四乃森蒼紫が「なんでもない」と言って教えなかったからだろう。この場合、私は何と答えるべきか。相手からはなかったことにされたのだから、私もなかったことにして意趣返しすることも考えたが、四乃森蒼紫が私の家を知っていることがわかっている状態では流石に無理がある。
「知り合いというか、ちょっとした顔見知りです。偶然、二度ほどお会いしたことがあります」
 私は本当のことを告げた。
「では今日で三度目ですか。偶然に三度も会うなんて運命的ですね」
「運命だなんて、そんな大袈裟な」
 何を言い出すのだ、と吹き出しそうになったが高倉さんは冗談めいている風もなく表情は真顔に近かった。
「そうですか? 人から紹介された相手でも一度会ってそれっきりなんてことも多いのに、何の約束もなく三度も出会うなんて運命的でしょう」
「はぁ……高倉さんはロマンチストなんですねぇ」
 日常会話で運命だなどということを口にすることはあまりない。他に思いつく感想もなくて言った。
「ええ、僕はロマンチストなんです」
 それはあははっと笑いながらではあったが肯定する台詞が返ってきて、
「あっ」私は思わずもらした。
「えっ」何事かと戸惑いの声が返ってくる。
「あ、いや、高倉さんって私の従兄に似てるなぁと思って」
 ロマンチストと、明良兄も自分で言っていたことを思い出し、そしたら二人の雰囲気がどことなく似ていることに気づいた。優しげな表情とか、心配性で世話好きなところとか、全体的な雰囲気に共通点がある。一度、そう思えば、どんどん似ている気がした。私が懐かしく思ったのもそのせいなのかもしれない。
「操。」
 低い声で名を呼ばれる。声の方を見ると、四乃森蒼紫だ。無表情だが目だけが強い光を発し真っ直ぐに私を見ていた。射抜くような眼差しと、長らく私を無視していたのに急に話しかけてきて、それも名前を呼び捨てにされ、びっくりした。
「早く乗りなさい。」
 見ると燕はすでに車に乗り込んでいる。不調なのだから早く家に帰してあげるべきなのに、高倉さんと話をしていたことへの咎めなのだと理解し、慌てて私も車へ近づいた。
 乗り込む前に最後にもう一度挨拶しようと振り返るが、四乃森蒼紫が立ちはだかっていて見えない。
「早く乗りなさい」と繰り返され逆らうこともできずに乗ったらすぐに扉を閉められた。
「気分が悪いって言ってるのに、話し込んでごめん」
 無神経な真似をしたと隣に座る燕に謝罪する。
「ううん、もうだいぶ調子もいいし、話し込むってほどの時間でもなかったよ」
 そう言ってもらえて心は軽くなる。
 コンコンっと窓を叩く音がし振り返れば高倉さんが窓を覗き込むように屈んだので、手すりのところのボタンを押して窓を下げる。
「じゃあ、二人とも気を付けてね。また是非きてください。今日のお詫びにごちそうしますから。実は僕は上のカフェの方でパティシエもしているんだ」
「そうなんですか。じゃあ、ぜひ、次はカフェの方に遊びに来ます」
「うん、きっと」
「はい、では」また、と続けたかったが最後まで言い切る前に窓が自動でしまっていく。運転席に戻った四乃森蒼紫が閉めたのだ。無断で開けてしまったのは悪かったし、長話を注意されたばかりだったのにまた話しているのも悪かったのかもしれないが、だからって無言で閉めることないのではないか、とむっとしたが、言い返す言葉が思いつかず、そのうちに車が走り始めてしまったので結局は押し黙った。
 走り始めて二つ目の信号を過ぎたところで一度路肩に停まる。なんだろうかと不思議に思っていれば、四乃森蒼紫が振り返り「詳しい住所を教えていただけますか」と燕に尋ねる。カーナビゲーションに入力するのだ。
 それならば発進する前に聞けばよかったのではないか、そしたら私もきちんと高倉さんに挨拶できたのに。行動の無駄さを感じ、なんだかなぁ、と思ったが、誰にだってうっかりはあるので言っても仕方ない。
 登録を終え再び車が動き出したら、今度は車内に森のくまさんのメロディが響いた。燕のスマホだ。鞄から取り出しディスプレイを確認し、すみません、と一言断ってから出る。
「もうすぐ八時だぞ、大丈夫なのか」
 相手の声が大きくて受話器から漏れてくる。男性の物だ。会話を聞くのも申し訳ないので、なるべく聞かないように私は窓を向いた。景色が流れていくのを眺める。落ちてくる夕日の薄暗い赤が濃くなっていた。
「うん、今、帰ってる途中だから」
「なら駅まで迎えにいってやるよ」
「あ、車で送ってもらってるの」
「は? 車って誰に、つーか巻町と一緒じゃねぇの?」
 巻町。電話相手はたしかに私の名前を呼んだので、振り返れば燕と目があった。
「操ちゃんもいるよ。いろいろあって、お店の人に送ってもらうことになったの」
「なんだよそれ、店の人に送ってもらうって、よっぽどのことだろ。倒れたりしたのか」
「そうじゃないよ。もうすぐつくから、帰ったら話すよ」
 電話を切る。画面を確認して念のために受話器を耳に当て、確実に切れたことがわかれば鞄へ戻す。私はその一連の動作を見つめていた。
「ごめん。会話が聞こえてきたんだけど、今の電話の相手って……ひょっとして明神?」
 燕は頷いた。
「遅いから心配して」
 明神が燕に対して過保護と言える態度なのは知っているが、学校のみならず家でも目を光らせているのか。これはもはや過保護というより束縛だ。
「いつもこうなの?」
「いつもってことはないけど……今日は少し遅くなるって言ってたからかな。普段はあまり出歩かないから余計に心配かけたのかも」
 歯切れ悪く、苦みを無理に呑み込んだような言い方だった。それは心配されていることを厭うというよりも、何かもっと別の感情が隠れているように思えた。
 以前から、疑問に思っていた二人の関係性に、私はひとたび気がかりを覚える。だが、やはり簡単に踏み込めないような目には見えないが分厚いベールの存在に口籠り、尋ねることはできなかった。



2014/6/14
2014/7/19 改稿