again and again

15. 二度あることは

 目的地へ着くまでの約十分間、会話が途絶えた。燕の顔色はほぼ回復しているが普段するような取り留めのないおしゃべりができるほどでもなかったし、まして四乃森蒼紫へ話しかけられるはずもないので必然的に沈黙になる。今日はラジオが流れているおかげで気まずさは幾分和らいでいるが、それでも次、右へ、五百メートル先が目的地です、とカーナビゲーションが告げたときはひそかに息をついた。
 燕が暮らすのは巨大なマンモスマンションで公道を一本入ると整備された遊歩道のような道に続いており、先に青々とした木々が規則正しく並び、大きなエントランスがある。その柱の一つに背をもたせ掛けるようにして立っている明神弥彦の姿が見えた。
「あれって明神だよね」 
 私が言えば、燕はこちらへ身体を傾けるようにして窓を覗いた。その表情は喜びよりも強張ったように見えて、あれ? と一瞬思ったが、すぐに
「ホントだね。わざわざ迎えに来てくれなくても一人で帰れるのに」と笑う。
 車が緩やかに停止する。シートベルトを外しながら、四乃森蒼紫へ二人で礼を言い、扉を開ければ気付いた明神が走り寄ってくる。
 手前に私が座っていたので先に降り、
「久しぶり」
 と声をかけた。久しぶりといっても終業式から一週間も経っていなかったが、毎日会っていた人物に三日も会わなければ久しぶりが適切のように感じる。だが、明神は私の挨拶など聞いてはおらず、
「大丈夫かよ」と第一声をかけてくる。
 もちろん、後から降りてきた燕に。今日はことごとく人から無視や邪魔者扱いされる日だ。所謂厄日というものだろうか。
 燕は明神の勢いに多少の困惑を見せながらも、平気だよ、と返した。
「で、何があったんだよ」
 更に勢い込むように言う。
「何って、別に大したことじゃないよ。居合わせたお客さんと少し揉めて」
「揉める!? どうしたらそんなことになるんだよ」
 怒号とまではいかないが、怒りに満ちている。
 どうしてもこうしてもトラブルというのは突発的であり思いもよらないものだ。こちらがいくら普通にしていても、とんでもない人に出くわし因縁をつけられることがある。それを怒られるのは酷く理不尽であり、理解しがたい。それよりも無事であったことに安堵し、何事もなくてよかったと感謝する方が建設的だ。怖い思いをしてきた燕を労うとか。そうであるのに自分の感情を爆発させている様子に私は違和感を覚えた。
 ぼんやりとそんなことを考えていると
「あーやっぱりライブハウスなんて行かなきゃよかったんだ。そしたら危ない目にも遭わなかっただろうに」
 これ見よがしに私に言っている。どうやら怒りは燕にではなかったらしい。空気扱いの次は悪者扱いとは流石にカチンとくる。
「何か言いたそうだね。遠まわしに言わずに、男なら潔くハッキリ言えば?」
 こういう場合冷静にならなくては、相手を挑発するような真似をしてはダメだ、とついさっき高倉さんにも言われたのに、喧嘩腰になってしまう。
 マンションの住人だろう、自転車に乗った人がシャーッと走ってきて入り口の前で降り、言い争いをしている私たちをチラリと横目で見て行く。恥ずかしく、ふと冷静さが戻ってきたがここで弱腰になれば言い負かされる。私はぐっと腹に力を込めた。
「俺、言ったはずだよな。燕に無理をさせるな、引っ張りまわすなって」
「……別に無理なんてさせてないじゃん」
「お前がライブなんて誘わなけりゃ、こんな目に遭わなかったんだぞ」
「そりゃ、」
 そうかもしれないけど、と続く言葉は尻つぼみになる。明神の言うことはその通りで、私が誘わなければ怖い目にも遭わなかった。
 だが、そうだったとしても、もやもやとしたものが心に広がる。そうであるのに、何も、言い返す言葉が見つからず、明神の冷え冷えとした視線が辛い。弱腰になってはダメだと思ったばかりなのに、誰かの怒り、それもその人自身が不利益を被ったからというものではなく、その人物の大切な人を傷つけられたからいう、あまり馴染みのない怒りの前に反応が鈍り、火傷しそうな熱が肌を突き刺していく。たとえば、これがいかほど正当で、いかほど理不尽か、言ったところで意味はない。燕が危険な目に遭ったという事実がある以上、明神には意味はないのだろう。
「危険な目に遭わせたのは私のせいです。申し訳ない」
 傍に人の気配がしたと思ったら低い声が聞こえた。見れば四乃森蒼紫が立っている。
 明神は突然現れたスーツをぴしっと着た男に明らかに不審な目を向けた。けして身長が高い方ではない明神と、おそらく百八十はあるだろう四乃森蒼紫とが向かい合っているとちぐはぐな感じがした。
「あんたは?」
 自分を見下ろす無表情な、そしてどことなく威圧感のある四乃森蒼紫をあんた呼ばわりする度胸はすごい、と今しがた酷いことを言われたことも忘れいささか感心する。
「その、ライブハウスの者です。出会い目的の輩は排除するようにしていますが、今回こちらの落ち度でお二人には恐ろしい思いをさせました。責めを負うのは管理責任を怠った私です。それから、彼女もまた被害者ですから、被害に遭った上に理不尽な批難はあまりかと」
 びっくりした。本当に、腰が抜けそうなほど驚いた。まさか、あの、四乃森蒼紫が私を庇ってくれるとは。
 私が呆気にとられていると、
「そうだよ。操ちゃんは何も悪くないし、私を庇おうとして殴られそうになったんだよ。現場を見てもいないのに責めるのはやめてよ」
 燕も援護してくれる。
 私も被害者――ああ、そうだ。実質声をかけられ狙われたのは燕だったけれど、それを守るという立場で割り込んでいった私もまた当事者で、殴られかけたことで被害者でもあった。なのにまるで燕一人が大変な目に遭ったというような明神の態度は失礼極まりなかった。とはいえ、私だって被害者だと自分で声高に主張するのは責任逃れしているようで言えず、もやもやとしたまま押し黙るしかなかったのだ。それを二人が代わる代わるに言ってくれたおかげで、私の中で少しだけ溜飲が下がった。
 明神は眉間に皺を寄せ、チラリと私を見たが、すぐに目をそらされた。だが、言い返してこないことで多少なりとも思うことがあったのかもしれない。
「ともかく、今は早く彼女を休ませることが先決でしょう」
 見ると、一時は落ち着いていたはずの燕の呼吸が少し乱れている。予期せぬいざこざが負担だったのだろう。
「こちらが私の名刺になりますから、何かあればいつでも連絡ください」
 四乃森蒼紫はスーツの内ポケットから名刺を取り出し、差し出した。明神は何か言いたそうに見えたが、燕のことを言われると弱いのか、無言で受け取り、
「悪かったな」と仏頂面ではあったが私への謝罪を一言告げると燕を連れて帰って行った。
 二人の姿が見えなくなってしまったら、
「大丈夫か」と声がした。
「あ、えっと、はい」
 私は苛立ったり驚いたりと激しい感情が入り乱れていて、それが奇妙に均衡してしまったのか、そっけない返事になった。
「そうか」
 四乃森蒼紫も、さっきの私を庇ってくれたのは嘘だったのではないかと思うほどそっけない返事をし、すたすたと運転席に戻った。
「ありがとうございました。」
 私は慌てて、もう一度礼を言った。ここまで送ってくれたことへと、庇ってくれたことへの両方についてだ。深々と頭を下げてれば、血が一挙に下がった反動だろうか、鼻の奥が痛くなった。それは涙が流れる兆しだ。優しい言葉をかけられて、気が緩んだか、弱い心がむくむくと広がりつつある。だが、ここで泣くわけにもいかない。せめて一人きりになるまでは。
 しゅんと鼻をすすり、喉の奥を引き締め顔を上げる。
「礼はいいから、早く乗りなさい」
 四乃森蒼紫は運転席の扉を開けはしたが、乗り込まずに車のボディに手を置いて私を見ている。
 それは送ってくれるという意味だろうか。意味だろうかというより、そうなのだろうが、私は混乱する。そもそも、店を出るときまで彼は明らかに、送りましょうとの言葉を燕にしか言わなかった。私のことも送ってくれるとは考えていなかった。だからこそ、お願いします、と頭を下げられたのだ。燕を送ってあげてくださいという意味だからできたのであって、自分のためならそんな図々しい真似できなかった。車に乗り込んだのも、初対面の男性の車に一人きりで(それも体調が悪いのに)乗せるのは薄情だと考え、元より送っていくつもりだったから便乗させてもらい、一人になったら電車に乗りつもりだったのに。
「えっ……あの、いいです。私は電車で帰りますから平気です」
 私はそのまま自分が考えていたことを返した。
「……先ほども言ったが、君も被害者なんだ。二人のうち一方だけを送り、一方は送らないなどありえない」
 淡々と告げられた内容は言われればそうかもしれないが、あれだけ私を無視していたのに? と思わなくもない。だが、
「第一、ここから駅までの道がわかるのか」
 その台詞が決め手になって私は乗せてもらうことにした。


 二人なのだから後部座席ではなく助手席に乗るように言われ、タクシーではないしそういうものかと、正直、この席には嫌な思い出しかなく抵抗はあったが従った。
 車が走り出してほどなく、車内が静まり返っていることに気づく。カーラジオが消えていた。話すこともないし、家につくまで沈黙は辛いので、つけてくれたらいいのに、と思うが、つけてください、と言うことができずにいたら、
「災難だったな」
「え?」
「さっきの、正義感が裏目に出るタイプなのだろう」
「ああ、明神のことですか」
 あれを正義感と言ってよいのかわからないが、何かを守るために何かを犠牲しなければならないような場合、あいつは迷わないのだろうとは思う。そして、今回その犠牲というか、どうしようもない苛立ちを向けられたのが私だった。まさに災難だ。
「あまり気にするな」
 視線が自然と動いた。隣の四乃森蒼紫の方へ。どんな顔でそんなことを言うのか見たかったのかもしれない。
 ハンドルが左に切られ大きな通りに出てすぐ車が停止した。正面に顔を戻す。赤信号が見え、横断歩道を若いカップルが横切っていく。
「なんだ」
 その問いかけは私へのものである。ただ、何に対するものなのか、気にするなと言われて返事をしなかったことが不満なのか、ひとしきり考えていれば、
「何故、俺を見た」
 一瞬だったのに、私の視線に気づいていたのか、もっと運転に集中した方がいいのではないか、事故にでも遭ったらどうするのだろうか、と心配が頭をもたげた。
「だんまりか」
「……特に意味はないです」
 だんまりかと言われて黙っているわけにいかず言った。だけど、本当に意味がないわけではなかった。四乃森蒼紫もまた、私に理不尽な怒りを向けてきた一人である。蒸し返す気はなかったのではぐらかしたが、明神が燕のことで私を非難したように、四乃森蒼紫も巴さんに失礼な真似をするなと私を非難したことを忘れたわけではない。明神の態度に狼狽えて、一瞬はその優しさに気が緩みそうになったが、少し時間が経過した今は、自分がしたことを棚上げして慰められてもなぁ、と素直には聞き入れられない気持ちに傾いた。どの面下げ言うのだ、と思わず見てしまったのだ。
 私の返事に、今度は四乃森蒼紫が黙った。
 自分で招いたとはいえ、狭い空間で押し黙っているのは辛く、そうしているうちに車が走り出し、ちょうど前方に駅が見えてきた。よいタイミングだと思った。
「やっぱり電車で帰りますから、そこで降ろしてもらえますか」
 たぶん、きっと、このままではまた売り言葉に買い言葉になることは目に見えている。今日は散々嫌な目に遭い、それなりに傷ついていて、この状態で一緒にいたい相手ではない。ところが、車は駅を通り過ぎ真っ直ぐ突き進んだ。
「……あの、」「反省している」
 言葉が重なった。
「この前のこと、悪かった」
 もう一度、次はきちんとした謝罪の言葉だった。
「そんなこと言われても、困ります」
 私は告げた。もういいですよ、と言えば少なくとも表面的にはいざこざは起きないというのはわかっているが、あのときの悔しさや悲しみを思い出すと簡単に許すとは口にできない。かといって、許さないと言うほどのことなのか、と思わなくもない。
「だいたい、どうして今なんですか。お店で再会したとき、真っ先に言ってくれてたら、ああ、ずっとそう思ってくれてたのかな、って感じたかもしれないけど、無視されてたし。あなたが本当は何を考えてるのか、よくわからない」
「無視したわけではない」
「無視したじゃん」
「予想外の事態に、落ち着く時間がほしかったことは認めるが無視したわけではない」 
 その言葉に、鎌足に言われたことが思い出された。四乃森蒼紫は突然の私との再会に心の準備ができていなくてそっけなくなっただけで、故意に冷たくしたわけではない――たしか占い結果もそうだった。
「でも私から見たら無視だった」
 四乃森蒼紫がどういう気持ちでそうしたかはわかったが、私から見たらそんなもの知らないしわからない。それを理解しろというのは傲慢というものではないのか、と。
「……たしかに、そうだな。それでまた不快に思わせたなら、それについても謝る」
「そんなひょいひょい謝られたって、信じられない」
 自分が言っていることが正しいのだと私を糾弾してきたときとは別人のような、私の言い分を全面的に受け入れる体勢に怯んでしまう。あまりにも差がありすぎて。なんだか私が子どもじみた駄々をこねているように思えてくる。
 息がつまりそうだが、逃げ場がない。代わりに窓の外を見た。見たことがあるようなないような景色が流れていく。
「操。」
 ふいに名を呼ばれる。
 返事をせずにいたら、もう一度。
「……馴れ馴れしく呼び捨てにしないでよ」
 なんだかもう無茶苦茶だった。自分が何をしたいのか、わからない。
「ならば、なんと呼べばいい」
「知らないし!」
 知らないことはないだろう、と自分でも心の中で突っ込みを入れはしたが、訂正するまでには至らず、ふたたび沈黙が訪れる。せっかくの謝罪を突っぱねてしまったのだ。四乃森蒼紫としてもこれ以上言うことはないのだろう。
 こんなつもりじゃなかったのにな。――思ったら何故か胸が苦しくなった。
 四乃森蒼紫がそうであったように、私もまた準備が少しもできていたかったのだ。もっときちんと向き合って、明良兄に連絡をしていればよかった。そしたら別の形で再会して、こんな風にはならなかったかもしれない。結局のところ、この人とは親しくなれないのだろう。いつだって、タイミングが悪すぎる。
――って、私は四乃森蒼紫と仲良くしたかったってこと?
 胸の痛みはそういうことなのかと、たどり着いた答えにより痛みが強まる。あんなにひどいことを言われた相手なのに。
「操ちゃん」
 唐突にやってきた想像にない答えに心が波立っている中、のんびりとした声で聞こえてきた。
「は? え? 今、なんて?」
 聞き間違えではなければ、操ちゃん、とそう言ったはずだが。
 私の質問に、滔々とした感じで、
「……考えてみたが、年下なのだから、さんよりちゃんの方がいいかと思った」と答える。
「ずっと私を何と呼ぶか考えてたの? 怒ってたんじゃないの?」
「何故俺が怒る。俺は謝罪する側で、怒っているのは操ちゃんだろう」
 至極真面目に告げられて、この沈黙の意味が私と四乃森蒼紫では全然違ったことに拍子抜けした。同時にこの人にちゃん付けで呼ばれるというむずがゆさに思わず吹き出してしまう。
「なんだ。何がおかしい」
 ところが当の本人はちっとも理解していない。
「四乃森さんて、ちょっと変わってるっていわれませんか」
 変というのは失礼だったかも、と言ってから思ったが、
「……いや」と四乃森蒼紫はそう小さく呟くと、ハンドルを握る右手の人差指を立てて、トントンと叩き始める。私はその音と長い指先を眺める。「ないな」
 妙な間があったのは記憶を巡っていたのだろう。その律義さというか真面目さもやはり風変りに思えて、私は更に笑った。すると、
「機嫌は直ったか」と続いた。
 もうこれ以上つんけんする理由も気力もなくなって、はい、と答える。
「それはよかった。なら、和解の印に食事をしていくことにしよう」
「食事、ですか」
「ああ、何か問題が」
「問題というか……遅くなるし」
 腕時計を確認すればすでに八時を回っている。
「そうか。……そうだな。ご両親の心証を悪くするのは得策ではない」
 うむ、と唸るとそれ以上誘ってくることはなかった。
 実際、遅くなると叱られるから執拗に誘われるのは困るのだが、あまりにあっさり翻されて少しだけ寂しくなった。



2014/6/18