again and again
16. お願いごと
庭の水まきを終え一息と縁側に腰掛ける。降り注ぐ柔らかな日差しが木々の枝葉に残る水を反射させて輝いていた。その光がまばゆくて目を閉じれば、ぽかぽかとした陽気も手伝ってまどろみの中に落ちていく。
「操」
声がする。低い、男の人の声。よく知っているのに馴染みのないような、奇妙なものに感じられた。これは誰の声だったか。
「操。風を引く。起きなさい」
あたしの身体を心配してくれている。きっと身近な人物だ。じいや……はもっと高くそれに早口だし、黒や白はお嬢と呼ぶ。名前を呼び捨てにする人なんて――。
「蒼紫さま。」
跳ねるように目を開ける。うっすらとした白い世界が消え夢見心地から覚醒しても、口にした人物があたしを見下ろしている。夢ではない。混乱した。何故、ここに蒼紫さまがいるのかと。どくどくと脈打つ身体の細部の音が聞こえてきて、これが現実であることをいよいよ実感する。
ああ、そうだ、蒼紫さまは葵屋に戻ってきたのだ。半年ほど前に。
「蒼紫さまが、言ったの?」
問いかけても返事はない。じっと黙ってあたしを見ている。
蒼紫さまの向こうの庭の木の葉がさわさわと揺れる。風は雨の匂いを含んでいる。太陽は相変わらずキラキラと輝いているのに、一刻もすれば雨が降り出すだろう。潮気のある苦さと甘さが混ざり合った匂いはとても涙に近い。思ったらぷちんと切れた。強く張りつめていた糸が。それは寂しさや、不安といった隠し続けてきたけれど、心から消えないでいたものたちが弾ける音だった。
う、う、うわーん。
ほとんど無意識といっていいほど自然と、泣き声があがり、異変に気づいてわらわらと店のみんなが集まってくる。何事か、どうした、どうした、と騒がしくなって、泣きやまなくては焦るが、焦るほど後から後から溢れてくる。
「お前、何かしたのか」
泣くばかりのあたしにしびれを切らし、じいやは矛先を蒼紫さまに向けた。蒼紫さまは何も言わない。しゅんしゅんと私の鼻をすする音だけが聞こえた。
お増さんが背中を撫でてくれ、お近さんが肩をさすってくれ、ようやく呼吸を取り戻す。
涙で滲んだ視界で顔をあげると、難しい顔で髭を撫でているじいやと、無表情ながらも晒す雰囲気がかすかに狼狽えているように思える蒼紫さまと、その傍で黒と白がおろおろしているのが見えた。
「操ちゃん、どうしたの? 何があったの?」
お増さんが穏やかな声で尋ねてくる。
あたしは大きく息を吸い込んだ。
「だって、蒼紫さまが、操って呼んでくれたから」
蒼紫さまに避けられている気がしていた。葵屋に戻ってきてからしばらくは禅寺通いに明け暮れ、部屋で禅を組むようになっても、厳粛な空気が張りつめていて近づき辛かった。大変な出来事が蒼紫さまの身に降りかかったことを思えば、蒼紫さまの性格を考えれば、一人になりたかっただろうし、一人になる時間が必要だったのだろう。あたしも最初は仕方ないことと思った。けれど、一月、二月、三月経つと、気づいてしまったのだ。蒼紫さまはあたしのことだけを特別に避けている。あたしが傍に近寄ると緊張しているのが否応なく伝わってくる。他の人とも距離をとっているけれど、あたしに対しては明らかに態度が強固になる。それが何故なのか、理由もわからず、どうすればいいのか、どうしようもないのか、ずっと苦しんでいた。だけど、先ほど、あたしの名を呼んでくれた。葵屋に戻って初めてのことだ。身体の心配までしてくれた。喜ぶべきことだけど、それ以上にびっくりして、思わず泣いてしまったのだ。
ぽつりぽつりと説明するうちに、子猫が私の傍に寄ってきてじゃれついてきた。涙を拭うのに忙しくて、背を撫でてやらずにいたら催促するように膝に乗って頭をすり寄せ、にゃーん、にゃーん、と鳴く。
「まったく人騒がせな」
じいやが呆れたように告げると、それを合図にみんなは仕事に戻っていき、蒼紫さまと二人だけになってしまう。無性に恥ずかしくなって子猫を抱き上げながら、おそるおそる蒼紫さまを盗み見る。
「ごめんなさい。」
子猫のしっぽがしゃんとはねてあたしの頬に当たる。もっとかまってほしいと身をよじりはじめるので肩に抱いてわき腹を撫でると気持ちよいのか大人しくなる。
「いや、」
蒼紫さまはそれだけ言うと部屋へ戻ってしまった。失敗したとあたしは唇を噛んだ。
でも、その日以降、蒼紫さまの態度は徐々に変わっていった――あたしへ向けられていた異様な緊張感が薄まり、名を、よく呼んでくれるようになった。
ぐるりと暗転する。
私が瞬きをすれば、再び明るさを取り戻す。
目前に広がるのは同じ風景の、違えているのはその季節。
珍しく雪がちらちらと舞っていてあたしは庭に降りて流行歌を口ずさんでいた。雪が乾いた裸木の幹に落ちるとその部分だけが濃い茶色へと変わっていく。水玉模様のようにぽつぽつと広がっていく染みを眺めていると、
「操。風邪を引く」
蒼紫さまの声がして視線をやる。廊下からこちらを見下ろしている。
うん、とうなずき近寄ればふいに目元を緩めた。雪の美しさに目を奪われているのかと思いきや、視線は真っ直ぐあたしに向けられている。
「どうしたの?」
「昔を思い出してな」
昔というのはいつのことを指すのだろう。視線を受けどぎまぎしているせいか、あまり思考がふるわない。一方、蒼紫さまは機嫌がいいようで、いつになく饒舌に話してくれた。
お前を泣かせたことがあったろうと。生きていてよいものか依然と迷いのあった身に、仲間の非業の死を、翁を手に掛けようとしたことを、何一つ咎めることをせず、自分の生に純粋無垢で熱心な喜びを向けてくれることを有り難く思えど、それを受け止めることを罪のように感じていた。その迷いがお前をを傷つけていたとは思いもよらなかったと。
突き刺すような冷気とかじかむ指先、髪や肩に落ちてくる六花に触れるとすっと水滴に変わる。
あたしはどう返せばいいかわからず、照れたように笑った。
目が覚めても網膜に焼き付くような鮮烈な風景がしばらく消えない。
夢の内容が明治の、私の前世の記憶だと自覚してから見るのは初めてだった。それも「名前」にまつわる場面だったことに意図的なものを感じなくもない。
ごろりと寝返りを打てば少し黄ばんだ壁が見えた。私はそこにコツンと拳を当てる。
操ちゃん――昨夜、四乃森蒼紫は私をそう呼んだ。
明治の頃は名を呼ばれただけで感極まっていたというのに、私は呼び捨てにされたことへの不快感を露わにし、その結果、四乃森蒼紫は私を「ちゃん付け」で呼ぶという譲歩に出たのだ。呼ばれたときも衝撃だったけれど、時間が経過するほどニヤけてしまう。その不気味なニヤけが意味するものが自分でもよくわからないけれど、ただ、あの四乃森蒼紫が、にこりともせず、冗談を言っているわけでもなく、至極真面目に、私を「操ちゃん」と呼ぶ光景はあまりにも似合なかった。そんなこと本人には言えなかったけれど。
こんなの前世では考えられなかったよね。もし、あの頃の四乃森蒼紫だったら間違ってもそんな呼び方は(たとえ考え付いたとしても)口にしなかっただろうし、そもそもあたしがあんな突っかかるような態度をとらなかっただろう。
あなたはあなたであって、前世は前世――随分前に鎌足に言われたことが思い出された。ああ、なるほど、あれはこういう意味だったのだなとようやく十分な質量を持って理解する。だからといって思い出した記憶を無視して、前世なんて全く関係ないと割り切ってしまえるわけではなく、現にこうして、前世のあたしと、今の私、前世の蒼紫さまと、今の四乃森蒼紫の違いをしみじみと考えてしまっているけれど。
これから、どうなっていくのだろう。
再び寝返りを打って天井を見ながら、そう思ってしまっていることにはっと息を飲む。
これから――それは未来についてということだ。どうしてそんなことを考えているのだろうか。たしかに、鎌足からはこれから何度も繰り返し会うと言われていて、その通りに昨夜再会した。あの助言は本当だったと信頼を深め、おそらくまた会うこともあるのだろうと考えるのはおかしなことではない。でも、関わり合いになっても親しくなるようなことはないし、なりたいとも思わないと腹を立てていたはずなのに、今思う「これから」には、不快な感じは含まれていなくて、もっと明るい色の未来を期待している。そんな自分に驚かずにはいられなかった。
私って結構現金なんだな。……でも、いつまでも恨んでいるよりいいのよね。言い訳のように付け足し、そしてそれは正しいと思うのに、やはりうまく自分を納得させられない。いけないことをしているような居心地の悪さがある。それは味わったことのないもので、不慣れな感覚に落ち着かず、意味もなく頭をガシガシ掻き毟る。
頭皮がぴりぴりするほど掻いていると、流石に何をしているのだろうと冷静になった。
考えてもいい方向には進まないのでむくりを起き上がり、本日しなければならないことへ意識を向ける。
まず、燕の体調が回復したかを確認すること、それから鎌足にも相談に乗ってもらっているし再会したことを報告しておいた方がいいよね。
ベッドを抜け出せば、汗をかいていた身体がねっとりしている。そういえば明治の夢を見たら決まって寝汗をかいていたが、あれは恐怖心(獣に襲われるのではないかとびくびくしたり)のせいだと解釈していたけれど、そうではなくて、前世を夢に見た時に起きる反応らしい。本来なら忘れているものを見るというのは負担がかかるのだろう。私は先にシャワーを浴びてさっぱりしてしまうことにした。
リビングには母がいて、私を見ると「おそようございます」と嫌味を言われる。
「まだ十時じゃん。休みなんだし」
「休みだからってダラダラしてたら悪い習慣なんてあっという間につくんだから。バイトでもしたら?」
けして成績がいいわけではないのに勉強したらではなくバイトしたらというのは親として果たしていいのだろうか。勉強しろと言われるのは嫌だけれど。
「……うーん、バイトか」
ただ、その提案そのものは魅力的である。うちの学校は幸いなことにバイト禁止ではないから長期休暇の間に短期バイトをする子も多い。でも今から探して見つかるだろうか。
「朝ごはん食べるでしょ」
母は自分が提案したくせに、あっさり話題を変えた。
「その前に、シャワー浴びる。汗かいて気持ち悪いから」
「あら、それはいいわ。良いものを買ってきたのよ」
「良いもの?」
当然お風呂に関係するものだろうけれど……思いつかない。
「何?」
「入ればわかるわよ」母はにこにこして教えてくれない。
母の性格からしばらく問答をしなければ教えてもらえないだろう。それは面倒だったので、私は多少イライラしながら百聞は一見にしかずとお風呂場に向かった。
脱衣所には変わった様子はなく、浴室に入る。ぐるりと室内を見渡せばボディーソープ、シャンプー、リンスの器が変わっていることに気づく。見慣れないそれは、「Love Again」とコラボ企画でスポンサーが出している品だ。人気シリーズ作品とのコラボならよくあるけれど、まるっきり新ドラマなのにしょっぱなからコラボ商品を出すなんて冒険だなぁと宣伝を見て思った。まして、ドラマの内容と深く関わりがあるような商品でもないのだ。一体どんな人が買うのかと疑問に感じていたのに、こんな身近にいたとは。
手に取ってラベルを見ても「Love Again」とは書いてあるがHOMURAや由美さんの写真が載っているわけではなかった。裸になる場所でHOMURAの写真なんてあったら嫌だからそっちの方がいいのだが……これでいくらなのだろう。普通の値段ならいいけれど、割増だったりしたらぼったくりじゃないの? と思わなくもない。
ボトルを戻し、お湯を出す。ムシムシしていたので少し温めに出して頭から浴びているうちにまだどこか浮遊感があったものが消えて、どっしりと身体に魂が落ちてくるような気がした。
それから満を持してシャンプーのポンプを押すと甘酸っぱいレモンのようなさっぱりとした匂いが漂った。夏には涼しげでいいかもしれない。この辺りはちゃんと季節を考慮して作られているのだなと少し感心した。実際、泡立てて頭皮につけるとスースーする。清涼成分が入っているらしい。一揃えされているそれを使用したら、お風呂に入ったとは思えないひんやり心地になった。
リビングへ戻ると母が台所で洗い物をしていた。
「使ったよ、あれ」
振り返る母の顔は自慢げに見えた。
「どう、良かった? あんたに一番に使わせてあげたのよ」
「……うん、なんか夏って感じだったよ」
「感激が少ないわね」
母は私の反応に不満そうだったが、あれを使ってどういう反応を示せば満足するのか私にはわからない。肝心のドラマとの関係性からして微妙なのだから。
「それよりお腹すいてきた」
私が言うと母は、愛想ないわね、とやはり不満を感じていることを隠しもせずにいたけれど、安かったからと買い置きしていた冷凍のチャーハンを消費期限が近いからと炒め、ウインナーと卵焼きも焼いてくれた。
腹ごしらえを終え、その後、うっかり母が録画していた殺人事件を一緒に見てしまい部屋へ戻ったら十二時を過ぎていた。勉強机の充電器にかけっぱなしにしてあるスマホを見て、燕と鎌足に連絡しなければ、と思い出し手に取る。今なら昼休みに入っているから鎌足は休憩しているだろう。燕と長話になったら夜まで電話出来なくなるか――と先に鎌足のアドレス帳を開いたところで着信メロディが鳴る。あまりのタイミングの良さにビクッと肩があがった。だが、ディスプレイに表示されている名前は鎌足ではなかった。そこまで一致したら逆に怖い。
「もしもし?」
通話ボタンを押して出れば
「あ、操。今大丈夫か」明良兄の声がする。
「うん、大丈夫だけど。どうしたの?」
「ああ、四乃森のことなんだが、」告げられ、明良兄から打診されていた四乃森蒼紫からの謝罪の件を思い出し、その催促なのかもと思っていたら、「操の電話番号を教えてほしいって。頼みがあるとかで」と続いた。
いきなりのことで、えっ、と問い返してしまう。それもどもったような変な声が出た。
「仲直りしたんじゃないのか?」明良兄はごにょごにょと歯切れ悪くなりながら、「昨日の夜に電話がかかってきて、偶然、会って話をして仲直りできたって言ったてんだが。で、その後に、頼みたいことができて電話番号を教えてもらいたいと言われたんだ。勝手に教えるわけにいかないから確認しようと思って操に電話したんだけど……ひょっとして仲直りしたっていうのはあいつの嘘?」
「いやいや、嘘じゃないから!」
私は慌てて訂正する。
「違うのか? ……すごく驚いてたから……謝罪の件が保留になってることでしびれを切らしてそんな嘘をついたのかと思った。何せこの件に関してはちょっとどうかしてるってくらい動揺してたしな」
どうかしているぐらい動揺してたというのは具体的にどうなっていたのか。私のために怒ってくれていた明良兄がほだされ仲を取り持とうとしたと前の電話で言われたが、あの時はそれほど深く考えなかったけれど、よほどのことらしいと改めて知った。
「ごめん。私からちゃんと昨日のうちに連絡しておくべきだったよね。心配してくれてたのに」
「いや、それはいいんだが、じゃあ、本当に仲直りはしたのか」
「ああ、うん、まぁ、仲直りというか一応和解はした」
なんだ、そっか。それならいんだが、と電話の向こうで独り言のように言って安堵する声が漏れてくる。その凄まじいほどの安堵感に、明良兄はこのまま要件を忘れて電話をきってしまうのではないかと思え、
「あの、それで、四乃森さんが私に頼み事があるって言ってるの?」と尋ねた。
「え? ああ、そうなんだよ。忘れるところだった」
やっぱり、と思ったけれどギリギリで口からは出なかった。
私はもう一度、それで、どういうことなの? と繰り返した。スマホを握る手にきゅっと力が入る。
「なんでも店で出すケーキの試食をしてほしいらしい」
「試食?」
「そう。若い子の意見も聞きたいから、ちょうど操ぐらいの年齢の知り合いがいないから頼みたいって。どう?」
「どうと言われても……私、別に料理とか詳しくないし役に立てるかわからないし」
出てくるのは気弱な台詞だが、それが正直な感想だった。食べることは好きだし、甘いものも大好きだけれど、試食会というのはお店で出すかどうかの検討するということだ。私一人の意見で決定するわけではないにしろ、責任が発生する。お気軽においしいものが食べれる! と飛びつけなかった。けれど、引き受けるにせよ断るにせよ明良兄経由で伝えてもらうよりも自分の口から直接言うべきだろうと、
「とりあえず、もう少し具体的な話を聞いてからどうするか決めるよ。私から電話してみるから番号教えて」
「ああ、そうだな。そうしてくれると助かる。じゃあ、メールで送るから頼むよ」
「お願いします」
そう言って、電話を切った後、ほーっと長い息を吐いた。溜息とは違う、妙な熱が混ざっている。それはきっと状況の変化への戸惑いなのだろう。仲直りをしたとはいえ、それだけで、次に会う機会が巡ってきたりするのだろうか、それはどういう形だろうか、またひょっこり偶然が起きるのだろうな、とこれからを想像している自分についさっき驚いたばかりだったが、それもあくまで、これから――当面先の未来のことであったのに、昨日の今日で接触があるなんて。胸の奥がざわざわとする。そのざわざわを落ち着かせたくて私はもう一度大きく深呼吸した。
2014/7/6
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