電話を切って三分もしないうちに明良兄からメールが届く。素早いな、と感心しながら開ければ四乃森蒼紫の電話番号と、それからメールアドレスまで併記されている。shinomori000という名前に数字のよくあるパターンのアドレスだが、こういう時の数字は大抵が誕生日や記念日だ。でも000はどう見ても日付ではなく、何を意味しているのだろう――とそんなことが頭を巡っているうちに、ぱっと画面が黒くなる。ぼんやりしてないで、電話をかけなくてはと思い直してサイドボタンを押しバックライトをつける。青い下線部のついた番号をクリックして電話画面に切り替え発信する。コール音ではなく、只今呼び出しております、と機械音声の後で音楽が流れ始める。椰子の木がそよそよと風に揺れる南国のビーチを彷彿とさせるメロディだった。癒し系の曲であるのだろうけれど、聴いているうちにリラックスするどころか身体が固くなる。緊張している。
クーラーが効きすぎたリビングで二時間もテレビを見ていたせいか目が乾燥していて瞬きを繰り返し、ぎょろぎょろと忙しなく視線を動かせば勉強机の上に置いたデジタル時計が目に入る。十二時四十七分。この時間に電話してもいいのかな。……というか四乃森蒼紫は私の番号を知らないのだから、いきなりかけても出てくれないかもしれない。明良兄に電話するから出るようにと伝言してもらえばよかった。いや、でも明良兄に手間をかけさせないよう自分から電話すると申し出たのに、そんなことお願いしたら意味がないではないか。ああ、せめて、いつかけたらいいか聞けばよかった。――そうだ。メルアドも教えてもらってるのだから、メールを打って本人に直接聞けばいいのではないか。おそらく電話をかける前に考えるべきことをのろのろと考え始めたら、
「はい。」
と音楽が止み繋がってしまった。
「もしもし?」
第一声が出せずにいたら、もう一声続いた。
「あっ、あの、操です」
「…………――少し待ってくれ、すぐ折り返す」
そう言って、プツリと電話が切れた。
タイミングが悪かったらしい。やはりメールを送ってから電話すればよかった。後悔先に立たずだが言っても仕方ない、と思っていると着信がある。すぐ折り返すとは言われたが、すぐ過ぎて少し動揺しながら出ると、
「悪かった。」短い謝罪があった。
「あ、いいえ。突然電話してすみません。……今、大丈夫ですか」
「ああ、ちょうど店に向かう途中だったが、路肩に止めたから話せる」
「運転中なのに電話に出たんですか」
それって危ないんじゃないの!? と私はひやりとした。万一、電話のせいで事故にでも遭ったりしたら責任などとれない。
「見知らぬ番号からだったから、出た」
淡々と返されるが、その返答にまた驚き、
「……普通、見知らぬ番号だったら出ないんじゃないですか」浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「昨夜、清里に電話した件で、ひょっとして操ちゃんから直接電話があるかもしれないと思ったからな。出なければ、もうかかってこないだろう」
「あ〜」なるほど、と私は唸った。同時に、いろいろと可能性を考えているのが蒼紫様と重なる。今朝、夢を見たせいもあって尚更、蒼紫様の性格が蘇り、抜かりない、という部分に面影を見た。だけど、私の感嘆を四乃森蒼紫はそうとは解釈しなかったらしく、
「やはりかけてこないつもりだったのか」とため息をつきながら言った。何かその態度がイラっときてしまう。イライライライラ――と私は四乃森蒼紫に対してどういうわけか毎回苛立ちを感じている気がする。冷静になっても、そこまで腹が立つようなことではないような……。けれど、四乃森蒼紫が嫌味ったらしいのは事実だ。人からため息をつかれるのは気分いいものではけしてない。
「まぁ、いい。それで、試食の話だが」
まぁ、いいって、私の方はちっともよくなく、
「その話でしたら、お断りします」
するりと出た。電話するまではまず話を聞いてからと思っていたのに。
喉の奥がひりひりする。
裸足でいるせいか床のひんやりとした冷たさが強く感じられ、そちらへ視線を落としたら爪が随分伸びていた。切らなければ。これが終わったら切ろう。
「じゃあ、そういうことで」「……甘い物は嫌いか」
声が重なる。それから、今度は沈黙だ。
対面しているときの無言状態と、電話でのそれとでは大きな隔たりがある。非言語コミュニケーションというものがまったくないせいだ。ああ、人は本当に言葉以外でも会話しているのだな、と思う。
「甘い物が嫌いなのか」
先に会話を再開したのは四乃森蒼紫だった。こういうところは蒼紫様とは違う。蒼紫様は本当にとことん無口で、だいたい微妙な感じになってもあたしの方から話かけて事態の収拾をはかるのがパターンだった。
「嫌いじゃないですけど……」
「けど、なんだ」
「基本的になんでもおいしく食べるので私は試食会向きじゃないと思って」
試食会がどういうものか興味を持ったので、それでもいいなら行きたいと思うところもあったけれど、口から出たのは完全なる辞退だった。
「なんでもおいしく食べるのか」
私がぐちぐちした気持ちになっているというのに、四乃森蒼紫はそう言って、更には、嫌いなものはないのか、ピーマンやニンジンもちゃんと食べられるのか、とか言いだした。
「……食べますけど」
何故そんなことを言い出すのだろうと呆気にとられながらも一応返事をすると、
「そうか、そういえば、清里のところで食事をしたときも、ニンジンスティックを齧っていたな」
さらりと言われたが、私は瞬時にその記憶を思い出せなかった。……巴さんはいろいろな料理を作ってくれて、中に野菜スティックがあったから、何本か齧ったけど、ニンジンだったか、キュウリだったか、セロリだったかまでは。時々、ものすごく記憶力のいい人がいるが、四乃森蒼紫もその部類らしい。それにしても、あの時、私のことなど眼中になさそうだったのに、よく覚えていたなと感嘆する。
「いいことだな」
更に、小さな子どもに、えらい、えらい、と言うような感じで(流石にそこまで露骨ではなかったけれど)言われる。褒められて悪い気はしなくもないが、それでもそんな子どもみたいに褒められても愕然となるし、というかそんな話をしていたっけ? とやや混乱しはじめる。
「あの〜……私の好き嫌いの話はどうでもいいと思うんですが……」
「…………………………だが好き嫌いがないというのはアレルギーもないということだろう。健康であることはよいことだ」
「まぁ、そうですね。アレルギーで好きなのに食べられないとか、食べて命を落としたりなんて話もありますし、そんなこと考えたらなんでもおいしくいただけるのはありがたいです。丈夫に生んでもらって両親には感謝してます」
「そうだな。親に感謝の念を抱くのはよい心がけだ」
えらい、えらい、とまた褒め始め、私はすっかり毒気を抜かれる。
やっぱりこの人、変わってる。
「……」
「……」
再びの無言無言無言である。が、
「……操ちゃん。」
ふと名前を呼ばれる。
「はい、なんですか?」
「返事がないので電話が切れたのかと」
「返事って……返事のしようがないじゃん」
「返事のしようがないようなおかしなことは言っていないと思うが」
「内容はおかしくないけど、どうして試食会の話から親に感謝する話になるのかわからない」
こんな説明をしているところからしてわからない。会話の組み立て方がこれまで出会ったことのない種類のもので、変化球が飛んでくるみたいに思えた。
「世間話だ」
「え?」
「俺と世間話をする気はないということか」
「…………そんなこと言ってませんし、でも試食会のことを話すための電話でしょ? 話がズレていってる」
「そうだが、用件だけだと味気ないと思わせるだろう」
「そうかもだけど、明らかに世間話の入り方が変ですよね。普通、だいたい最初に元気ー? とか、近況報告したあとで、で、用件なんだけどってならわかりますけど、本題に入ったあとで、途中で話が変な方向に進んだこれは世間話なの?」
「ああ」
堂々と肯定される。正直、そこでたじろったり、動揺したり、変だったか? とか言われるかと思っていたのに、世間話であると頷かれて、またしても私は言葉を失った。
「普段電話で長話をすることがないので、変に思わせたらな申し訳ないが………………って俺は何を言っているのだろうか」
私の絶句もあってか、ようやく自分のしていることのおかしさを自覚したらしい。我に返ったような独白だった。こちらとしては、今? その疑問は今なの? 随分前から何を言っているの? 状態だったと思われますが――と言いたかったが怖くて言えず、とりあえず普段しない不慣れなことをしようとして変になってしまったことだけはわかったので、
「私を気遣ってくれてるわけですね」
とても好意的に受け取ってみる。すると、四乃森蒼紫の大きな咳ばらいが聞こえた。そのとき空気が器官に入ったらしく、結構本格的にごふごふっとせき込み始め、電話越しに私は困惑を強める。しばらくして、ようやく鎮まり、大丈夫ですか、と様子を伺えば決まり悪そうに、ああ、と不愛想な返事がある。勝手に咳き込んだのに不機嫌になられても、と思っていれば、
「では、そういうわけだから」
「え、どういうわけで」と全部言う前に電話が切れた。
「意味がわからなすぎて、混乱しています」
その夜、九時を過ぎてから鎌足に電話をして、昼間の顛末を聞いてもらった。
あんな風に唐突に切れてしまったのは、パトカーでもやってきて路駐で罰金をとられそうになったから……とありえそうな状況を考えたりもしたが、そうならば状況が変わったあとでもう一度連絡がありそうなもの。それが一切ないということは、本当にあれで終りだったのだろう。
「うーん、それはなんというか……可哀想だわね」
「そうだよね。私、からかわれてるのかなぁ」
「いやいや、操ちゃんがじゃなくて、彼の方が、よ」
「……なんで?」
挙動不審としか言いようのない言動をされた私ではなく、四乃森蒼紫に同情的であるなんて、むっとするというより、あっけにとられる。
私はベッドに横になり、ごろごろと左右に転がる。
「だって、せっかくのデートの誘いをむげにされたら、奥手な彼には大打撃だったでしょうに」
「デート? 試食会の誘いでしょ」
言えば、鎌足はそれはそれは盛大にため息を吐いて、
「も〜! 操ちゃん、恋したことないの!?」とまくし立てられる。
「ないよ」正直に頷いたら、
「開き直らないの!」と今度は叱られた。
上半身を起こして、そんなに怒ることなくない? 私は困ってるんだから。と返せば、やれやれとまたしてもため息が返ってくる。
「彼も彼だけど、操ちゃんも操ちゃんよねぇ。あのね、試食会なんてそんなの建前に決まってるじゃない。普通の男でもデートしましょうと面と向かって言える人なんてなかなかいないわよ。まして彼の性格を考えたら、絶対無理よ。それでも、どうにかして口実を考えて言ってきたのに、それを真に受けて断るなんて信じられないわ。もうね、大打撃で、再起不能で、今頃泣いてるんじゃないかしら。可哀想〜」
「って、そんなの知らないし……」
言いながらも、可哀想と連発されると罪悪感を感じなくもない。責められると気弱になる。唇に触れるとカサカサしていて、執拗に触っていると薄皮がめくれてきて、それを強引にびっと引っ張ったら分厚く取れ、じんじん痛む。
「しかもしかもしかも〜、そのあと、どうにか話をしようとしているのまで拒絶したんでしょ?」
「拒絶って……だって、本題から全然かけ離れたこと言いだすんだもん。今、その話する必要ある? って思うでしょ?」
あの流れですんなり受け入れられる人がいるのか、逆に聞きたいぐらいだ。
「ああ、もう、せっかく仲直りしたのに、どうしてそうやってこじれる方にばかり進むのかしら。前途多難すぎ」
「そんなこと言われても……じゃあ、私はどうしたらよかったの?」
「とりあえず、すぐにカッとするのはやめることね。どーして彼に対してそんなに突っかかるの?」
「だって、四乃森蒼紫の態度が厭味ったらしいんだもん。ため息ついたりさ。感じ悪くない?」
「ため息ならあたしだってついたけど、あなた、そんなに怒らなかったじゃない」
言われてみれば、鎌足にはさっきから連発でため息つかれまくりだったのに、私はカチンとくるようなこともなく、喧嘩腰になるようなことはなく、会話が続いている。
「で、で、でも、鎌足と四乃森蒼紫は違うし!」
スマホを持つ手を入れ替える。押さえつけ過ぎて離した方の耳が熱くて痛かった。受話器の向こうからは、うっふっふ〜と気味の悪い含み笑いが聞こえてくる。
「それって彼を特別に意識してるってことよね。向こうも操ちゃんに対して妙な態度とるけど、操ちゃんも人のこといえないじゃない。ある意味、夫婦喧嘩犬も食わないってやつかしら」
「変なこと言わないでよ! そんなんじゃないし!」
「愛の反対は無関心っていうじゃない。そうやってむきになって否定するのは少なくとも関心がある証拠。素直じゃないわね」
言うとますますふむむむむっという笑い声が聞こえてくる。絶対ニヤニヤ笑みを浮かべているのだ。
身体が熱い。締め切った部屋のせいだとベッドから降りて扉を開ける。リビングへ続く廊下からクーラーのひんやりとした空気が流れ込んできた。けれど、扉を開けっ放しにしていたら電話の声が筒抜けになることに気づいて慌ててしめて、ベッドに舞い戻る。
「なんかドタドタしてるわね? 図星をさされて暴れてるの」
「暴れてないよ……図星じゃないし」
「まぁまぁ、落ち着きなさい。自分の気持ちと向き合わなくちゃ。どうしてそんなにイライラするのか、その先にあるものを認めるところから始めないとね。素直になるって意外に難しいし。前世では素直すぎるぐらい素直だったけど」
私は唇をきゅっと合わせる。皮の向けたところがひりひりした。
「また次に接触があったとき、その場の感情で動かずに、自分が本当はどうしたいのか、四乃森蒼紫と親しくなりたいのか、なりたくないのか、考えて行動しなくちゃ」
「また次……があるのかな」
「あるわよ」
鎌足はあっさりと言った。
それを聞いて、私の胸はとくんと脈打った。なんだこの感覚は――、苦しくて、うまく呼吸ができない。吐き出す息が熱を帯びる。私はその不慣れな感覚を払いのけたくて、
「それはそうと、燕のことなんだけど」と話題を無理やり変えた。
「燕ちゃん?」
「うん。四乃森蒼紫のお店――」と名前を言ったら、あっと小さな動揺が私の中に走り抜けたが、それを無理やりねじ伏せるようにして「――で前世関係の男に絡まれたって話したじゃん。何事もなく済んだんだけど、心配だったから今日電話したんだよ」
四乃森蒼紫からの電話のあと、しばし呆然としていたが、気を取り直して電話をかけた。メールにしようかと迷ったが、あんな電話のあとだったので誰かとまともに話をしたかったのだ。繋がって、体調はどうかと尋ねたら、もう平気だと返事があったのだけれど……。
「なんかさ、平気って言う割には、元気がないというかさ。……ひょっとして別れたあとで明神と何かあったのかなぁーと勘繰ったりもしたんだけど、そういうこと言える雰囲気でもなかったし。なんか、あの二人のことって迂闊に立ち入っちゃいけない気がするんだよね」
「なるほど」
鎌足は打って変わって真面目な声になって頷いた。
「燕と明神って前世でも知り合いなんでしょ。それが今世でも何か影響してたりするの?」
「うーん」
鎌足は肯定せず、言葉を濁す。
「違うの?」
「燕ちゃんはね、元々はそういったものを思い出すことはないはずだったの。それが思いがけずに蘇ってしまったタイプ。だから、すごく辛かったと思うわ。今はだいぶ落ち着いてるけど、思い出してしまったことで今世での彼女の生涯を大きく変えてしまったのはたしか。彼女はそれを乗り越えなくちゃいけなくて、今、その途中ってところかな。プライベートなことになるし、これ以上は、彼女本人の口から聞いて」
「そうしたけど、なんとなく聞きにくい雰囲気があるんだってば。さっきも言ったけどさ」
「操ちゃんがそう感じたなら、今は時期ではないってことよ。あの子、控えめでなんでも自分で抱え込んでしまうところがあるし――特に前世の記憶を思い出してからは人に自分のことを話すことを恐れてる。でも、いつかは乗り越えなくちゃ。自分の人生を生きるために」
自分の人生を生きる――その言葉がやけに強く響く。
「でも、じゃあ、その時期がくるまで私は何も出来ないの? 燕が苦しんでいるのに」
友人が困っていれば助けたい。けれど、助けられることばかりではない。それぐらいのことはわかっていても、実際にただ傍で辛そうだな、と見ているだけというのは歯痒い。
「問題に対して直接アプローチすることだけが助けるってことじゃないわよ」
「……どういう意味?」
「操ちゃんが、操ちゃんらしく生きていることで、彼女を勇気づけることもあるってこと。操ちゃんにとって燕ちゃんが助っ人であったように、燕ちゃんにとっても操ちゃんが助っ人であるの。わかる?」
鎌足はそう言って、更に、
「精一杯、今のあなたを生きてね」と続けた。
2014/7/12