again and again
3. 運命の人
六月二十九日の土曜日は雲一つない晴天だった。
私は明良兄の結婚式のための支度に朝から追われていた。振袖を着ることになったのだ。
七時に美容院へ行き、着付けと化粧や髪のセットもしてもらい、先ほど家に帰ってきた。結婚式場までここから一時間半かかる。挙式は十一時からなので、もう少し経てば出なくてはいけない。美容院から直接向かうほうがよかったかもしれない。
冷たい物が飲みたくて冷蔵庫へ向かおうとしたら、あんたは座ってなさい、と母が言い、着くずれしないように慎重にちょこちょこダイニングテーブルまで歩き椅子に腰掛ける。
「……やっぱりさ、制服のほうがいいんじゃないか?」
前に座る父が私の姿をしげしげと見ながら言った。
「何言ってるの、結婚式というのは参列者も華やかにしてお祝いムードを出してあげるのがいいの」
それにはすぐさま母が反論する。
私は母が出してくれた麦茶のコップを袖が邪魔にならないように気を付けながら手にして口をつけた。
優しい桃色の地色を、伝統的な友禅技法と金箔・金駒刺繍で緻密に彩って、重ね雲取りに、四季の草花と割付文様を描いた古典柄の着物は、母が成人式のとき着たものだ。明良兄の結婚報告のあと、実家へ連絡し送ってもらった。炭入りの収納ケースに詰めて送られてきた一式を開けとき、母は少女のように華やいだ顔になった。余程思い入れがある品らしい。
その振袖を私に着せることが出来てご満悦の母には父の反対が面白くないのだろう、むっとして気を悪くしている。せっかくのおめでたい日なのにこのまま喧嘩になったらどうしようと私は焦った。
だいたい、すでに着付けまでしてもらっているのだから今更過ぎる。着付けだってタダではない。父はどうして反対するのだろう。普段は外見のことに口を出すことはないのに今日に限って何故なのか。そんなにも似合っていないのだろうか。
「そうはいっても、これでは少し花嫁さんに気の毒じゃないか」
続いたのは私の考えていたことと正反対だった。
父の真意を知ると、むくれていた母は、あら、いやだ、と笑い出した。
「……お父さん、恥ずかしいこと言わないでよ」
母の不機嫌は私が引き継いだ。そんな心配は杞憂というものだ。明良兄のお嫁さんはとても綺麗な人で(一度会わせてもらったことがある)私がどれほど着飾ったところで到底敵うはずがない。おまけに、人生の門出を迎える幸せな花嫁としてのオーラを纏っているのだ。鬼に金棒、そんな人と比べること自体がどうかしている。
「外では絶対そんなこと言わないでよ」
念のために釘を刺せば父は私の態度に不満のようで、なんだよ、せっかくほめたのにつれないなぁ、と頭をかいた。これは褒めているのだろうか、単なる親バカではないのかと思ったがそれは辛辣すぎると口にはせず飲み込んだ。
私と父がやり取りをしている間、母はご祝儀袋にお金が入っていることを確認してからふくさに包みバッグへ入れ、それから、私の飲みかけの麦茶を飲みほすと、行きましょう、と言った。
外に出るとたちまちに額に汗が浮かんだ。まだ梅雨明け前だというのに完全な真夏日だ。雨が降らなかったのはいいけれど、それにしても暑い。いつもならばハンカチで乱暴に顔を拭うところをお化粧をしてもらっているのでそんなわけにもいかず、こういう場合どうしたらいいのだろうと困った。
大通りへ出るとタクシーはすぐに捕まった。乗り込むと、運転手さんは私の姿に、おや? という顔をしたけれど、目的地を告げると納得したようで車を走らせ始める。シートに持たれると帯がぺしゃんこになるので、前のめりの格好で一時間半を乗り続けるのはかなりきつかった。降りると腹筋がカチカチに固まっているような気がしてやっぱり制服にすればよかったとちょっぴり後悔する。
そんな憂鬱も会場を目の当たりにするとたちまち吹き飛んだ。
エントランスからして豪華だなと感じていたが、通された待合室の見るからに高級そうな調度品に圧倒され、大きな窓の向こうに見える庭園の噴水や、青々と生い茂る芝生の柔らかさや、太陽の光を受けて水面がダイヤモンドのようにキラキラと光るプールにすっかり魅せられてしまう。
「結婚式場ってこんなにすごいの!?」我慢できずに言えば、
「明良くん、頑張ったのねぇ」と母が頷きながら言った。それから、あんたもこういうところで結婚式を挙げられるような甲斐性のある相手を見つけなさいよ、と発破をかけられた。それを聞いた父は、おいおい、操はまだ十六だぞ、と笑っていた。
室内を見渡せばすでに人が集まっていて、そのうちの留袖を来た女性が私たちに気づいて近寄ってきた。明良兄の母親、小夜子伯母さんだ。
「ああ、姉さん。おめでとうございます」母は嬉しげな、そして余所行きの顔をして祝いの言葉を述べた。
「暑い中、わざわざどうもありがとうございます。和真さんも」と小夜子伯母さんは母から父へ、最後に私を見ると「しばらく見ない間にすっかり娘さんらしくなって。これじゃあ、操ちゃんが嫁ぐのもすぐね」と言った。
母といい小夜子伯母さんといい、いくら結婚式だからといって、私にまで結婚、結婚、ということが可笑しかった。父は母に言ったようなことを口にしたが、あら、子どもなんてあっという間に大きくなるんですから、和真さんも今から覚悟しておいた方がいいですよ、と窘められて今度は苦笑いを浮かべていた。
親族用の控室は奥にあるからと言われてついていく。通された部屋はやはり調度品が品よく並べられていて、窓の傍に洋二伯父さん(明良兄のお父さん)が立っていた。中央に向かい合って並んであるソファには祖父母と、それからおそらく洋次伯父さんの父親だと思われる老紳士が座っている。
「まぁ、まぁ、操ちゃん」と私に気づくと祖母は手招きした。
「おじいちゃん、おばあちゃん、お久しぶりです」
挨拶すると、二人ともとても懐かしげな顔をして頬を緩ませた。それは私へ向けられたものとは違っているように思え、あれ? と不思議に感じた。
「お母さんとそっくり」
続いた言葉にこの振袖に母の成人式の姿を見ていたのだとわかった。
「そんなに似てる?」
私はかねがね父親似だと言われていたし、自分でも父に似ていると思っていたけれど、祖母は、ええ、とっても、と嬉しげに言うので否定するのも変な話だと頷く。
「もう立派な娘さんねぇ。これだと、操ちゃんの結婚式もすぐだねぇ」
祖母はますすます嬉しそうに笑った。
いつも散々子どもっぽいと言われるのに三度も連続で結婚すると言われると流石に驚いた(そこまで本気の言葉ではないだろうことはわかるけれど)。これも振袖効果なのだろうか。着物は大人っぽく見えるのかもしれない。それとも私には和装が似合うのだろうか。和装が似合うイコール寸胴と言われているような気もするのであまり喜べない。父がまた何か言うかとチラリと横目で見たが、今回は何も言わなかった。
談笑していると係りの人が呼びに来てチャペルへ移動する。
ぞろぞろと歩いていると後ろの方がざわつき始めた。何事かと気になって振り返れば、人の流れの中にびっくりするほどの美人を見つける。見つけたというか自然と目についた。コバルトブルーのシックなドレスを着ているだけで、アクセサリーの類は一切つけていない。そうであるのにとんでもなくゴージャスだ。存在そのものが輝いている。オーラがあるとはこういう人のことだろう。見すぎたら失礼と思ったが視線が吸い寄せられていく。よくよく見たら、それはモデルの駒形由美だった。
なんで明良兄の結婚式に駒形由美が来てるの!?
驚きのあまりに大声を出しそうになるのはどうにかこらえたが、ミーハー魂に着いた火は止められない。
「お母さん、お母さん!」
私はこの興奮を伝えたくて前を歩く母の袖を引いた。
「何よ?」
着物が着くずれでもしたのかと心配げな母に、駒形由美がいる! と言えば母も後ろを振り返り確認した。
「ホント! 参列者ってことは花嫁さんのお友だちかしら? 彼女も綺麗な人だけど、お友だちも綺麗なのね。類は友を呼ぶのね」
母の目が輝きだす。先日、HOMURAの特集のときに駒形由美の話を振ったら興味なさそうだったのに、綺麗、素敵、と私以上に興奮している。
「うん。すごいね。綺麗すぎる。あんな人、本当にいるんだね」
私も負けじと心の底から感嘆して言った。
「チャンスがあったら写真とってもらいましょ」
母の提案に、
「うん、迷惑にならないようにね」
私も同意した。
広大な敷地を進みたどり着いたのは目もくらむような白亜の教会だった。
おそらくどこか外国のものをモチーフに建造されたのだろう、重厚な雰囲気だ。だけど、中へ入ると外観とは違いスタイリッシュな空間が広がっていて、吹き抜けの高い天井と深紅の絨毯が引かれたバージンロード、祭壇の向こうは全面がガラス張りになっていて光が降り注いでいる。左右に並べられた焦げ茶色のベンチには百合の花のモチーフが飾られていた。
両親と私は新郎サイドの前から三番目の席につく。
明良兄はすでに祭壇の傍でスタンバイしていた。式場についてから初めて見たが、グレーというか銀色というか、光沢のある生地で作られたタキシードを着ている。ざわめきはじめる周囲にも構わずに前を見つめたままで、小夜子伯母さんが小声で明良兄の名を呼ぶとようやく振り向いて私たちに会釈してくれた。その表情はぎこちない。そんな明良兄を見るのは初めてだったので、私まで落ち着かなくなった。
(ああ、明良兄は結婚するんだ)
何度も繰り返えしてきたことが、私の中でようやく現実としてずしりとのしかかってくる。
ベンチが埋まると係の人が式の流れを説明した。ベンチの上にあった台紙にも目次と讃美歌の歌詞が載っている。
会場の準備が整うと空気が神妙に静まりかえる。
係の人の合図で列席者が立ち上がる。
新婦の入場に入り口を振り返れば、パイプオルガンの独特の盛大で華やかな音色が響きわたり、それを合図にゆっくりと扉が開き始めた。
純白のウエディングドレスに身を包む花嫁の姿に、うわぁっと歓声があがる。
私は花嫁ではなく明良兄の顔を見ていた。その眼差しは熱心で、真っ直ぐ自分の元へ歩いてきている花嫁に注がれている。つい先程までの緊張も吹き飛んで、嬉しそうな幸せそうな満ち足りた、それでいて照れくさそうな表情に、男の人が女の人を愛するときはこういう顔になるのかと私は胸がキリキリとして、これ以上見ていてはきっと泣いてしまうとバージンロードへ視線を向けた。
花嫁が中央まで来ている。
明良兄が待ち焦がれている人。今日の主役。
彼女――雪代巴さんを紹介された日のことが思い出される。名前の通り雪のような真っ白な肌に、艶のある黒髪、少しはかなげそうな雰囲気の、優しそうな大人の女性。
明良兄って彼女いたんだ! 私はおどけてみせた。自分でもどうしてこんなにはしゃいでいるのだろうというほどテンションが高くなっていた。異様な興奮は傷ついていることを隠すためだと気付くまで、しばらく時間がかかった。気付いた後は、気付いてしまったことを嘆いた。どうせなら、もっと早く気づきたかった。そうでないなら一生気付きたくはなかった。けれど、心の中でひそやかに膨らんでいた憧れは、最悪のタイミングで恋へと開花し、どうしようもない形で終わりを迎えたことを私に告げた。こなごなになってしまったそれらは、今も胸の奥に散らばったままだ。
そんなことを考えれば傷つくに決まっているのに、私は考えてしまう。そして案の定、さっきよりもずっと胸が痛み始めた。何をしているのだ。馬鹿じゃないのか。
動揺を誤魔化すように忙しなくぎょろぎょろと視線を動かしていれば、花嫁の向こうに駒形由美の姿が見えた。
花嫁が傍を通るとき「巴、おめでとう」と優しげな笑みを浮かべて声をかけている。雑誌やテレビで見る彼女は勝ち気なイメージが強いからその様子は新鮮なものに感じた。私はその姿を凝視する。頭をからっぽにして、幸せオーラを纏う最強の花嫁の美しさにも負けていない、その美貌を頼りにする。日頃のミーハー心は有難いことに、こんな状況でも私を取り込んでいく。しんみりしていたのが嘘みたいに見惚れていく。同時に、捕らわれかけていた忌々しく後ろめたい感情が遠のいていくのを感じ、ほっとした。けれど、
えっ、と息をのむ。
駒形由美の隣の小柄な男性――駒形由美とたいして身長が変わらないし、整った顔立ちだけれど女性的に見えるのでタキシードを着ていなかったら男性か女性か瞬時にはわからなかったかもしれない――の隣、対照的にスラリと背が高い男性がものすごく高性能そうな一眼レフカメラを掲げていてそれが私を捕えていた。
――なんで?
だけど、それはすぐに花嫁に向けられた。ゆっくりではあるが動く花嫁を捕らえ損ね、たまたまこちらにレンズが向いただけなのだろう。よく考えれば(よく考えなくても)、私を撮る理由がない。自意識過剰ぶりに恥ずかしくなって慌てて視線を逸らせた。
挙式が終わると新郎新婦をフラワーシャワーで見送るためにチャペルの外に移った。
まもなく昼に差し掛かる日差しの強い時間にクーラーの効いた場所から炎天下に出て、おまけに着ているのが振袖という、どう考えても無謀としか思えない格好に立ちくらみが起き、気を引き締めるように大きく息を吸い込み、少しの辛抱だと言い聞かせながら吐き出した。
係の人から花びらを受け取り指示に従い階段を下りた平地のところで左右に分かれて並んでいると、父は今のうちにお手洗いへ行くと言い出した。もう少しなのにと止めたが、この後すぐに記念撮影があるだろう、それまで待てない、と行ってしまった。生理現象なのだから仕方ないが、夢がないというか、ムードがないというか、嫌だねと言いながら私と母は列に並んだ。
私の向かいには駒形由美がいた。やっぱり綺麗だなと見ていると向こうも気づいて目が合い、まずい、と焦ったが駒形由美は見られることには慣れているようで嫌な顔はされず、それどころかふわりと微笑んでくれて(華が綻んだようとはこういうことをいうのだろう)、同性でありながらも頬が熱くなった。月曜日、絶対友だちに自慢してやろうと心に決めて私も軽く会釈を返した。
彼女の隣にはチャペルでも隣にいた小柄な男性の姿があった。その隣にいた背の高い男性はいない。代わりに紺のブレザーに灰色のズボンの制服を着た男の子が腕をとられて立っていた。制服は四条学院のものだ。かなりの進学校で毎年有名大学への進学率も高い。それをわかっているせいか聡明そうに見えた。男性が笑顔で話しかけているのに対して男の子のほうは嫌そうにしていて、二人はどういう関係なのだろうか気になった。
そんなことを思いながらぼんやりと見ていたら、ふいにズキリとこめかみが痛んだ。静まったはずの立ちくらみかと思ったが、それは脳の奥深いところがうずくような独特の痛みをもたらし、次に身体が重くなり、男性と男の子の姿が大きくブレはじめ、ぼやけた二人から像が浮かび上がってくる。……男性の像は浪人風の装いで髪の色がもっと赤茶けていて、頬に十字の傷がついている。男の子は中華風の装いで白髪、丸いサングラスをかけていて人相が悪い。
すーっと背中に冷や汗が伝い、唇が乾いていく。鉛のように重たくなった右手をどうにか動かして痛むこめかみをさすり目を閉じれば気持ち悪さは少しだけ和らいだ。
「操?」
私の異変に気づいたのか傍から母の声がする。私は目を開けた。
「ちょっと、大丈夫? 顔色が真っ青よ」
「……うん、なんか、暑くて」
男性たちを見るとさっきの妙な像はもう消えていた。
「そうね、この暑さだもの。先に中に入ってなさい。倒れたら大変でしょう」
「でも、」
言った瞬間よろめいてしまう。
「ほら、ちょっと、歩けてないわよ。……お父さんまだ戻ってないわね」
母は私を支えるように肩を抱き、父の姿を探してきょろきょろと見渡しながら、後ろへ下がりましょう、と言った。私は頷いて、ゆっくりと振り返ったが、運悪く真後ろにいた人とぶつかる。その人の手には一眼レフカメラが見えた。
「……すみません」と謝罪すると、
「どうかしましたか」と低い声がした。
その顔を見上げる。かなり背が高くて首の後ろが痛くなった。
真っ黒な長い前髪に半分隠れた切れ長で涼しげな目、高くすっと通った鼻筋、形の良い唇は意志が強そう。ああ、この人も綺麗な顔をしている。今日はそういう人ばかりに会うな、とのんきなことを思う。同時に体中の毛細血管が活性化したように激しく脈打っていく。それは危機を察知して警笛を鳴らしているような、早く気づかなければと急かすような不安をもたらした。
――この人、知っている。
そう思ったらドクリっとひときわ大きく心臓が跳ねた。
堂々とした鐘が鳴り響く。教会の一番てっぺんに吊された鐘だ。新郎新婦が出てくる合図だった。手にした花びらのしっとりとしたなめらかな手触りを感じながら、フラワーシャワーを巻いて二人の門出を祝福しなければならないと思った。でも、身体はまったく自由がきかなくて、カランカランと祝福の音を聴きながら、そこで私の意識は完全に途絶えた。
2013/7/14
2014/4/9 改稿