again and again
5. 彼
目が醒めると真っ白な場所にいた。天井や壁、絨毯はおろか、調度品やソファ、すべてが白で、ここは天国だと思った。おそらく天国とはこういう潔癖なほど綺麗で、汚れ一つない世界だという気がした。でも、身体を起こすと母の姿が見えた。部屋とは対照的な黒のワンピースを着ている。首には真珠のネックレス。セミロングほどの長さの髪は私と一緒に美容院でセットしてもらった。ああ、そうだ、今日は明良兄の結婚式だった。こんなにも部屋が白くて生活感が感じられないのは生活するためのものではないからだ。
状況がわかってくると身体の感覚も戻ってくる気配があり、座っているソファのすべすべとした皮の感じや、足の裏を伝う絨毯の柔らかい感触、部屋を浸す花を散りばめたような甘い香りが私を取り囲んだ。
どっと胸が痛み、泣けてくる。悲しいというより苦しく、感傷に引っ張られ泣けて仕方なかった。
「どうしたの? 苦しいの?」
母が心配そうに近寄ってくる。苦しい、けれど、母のいう苦しみと私の感じている苦しみは別の物だから首を振る。
夢を見ていた。長い長い夢。それは一人の少女の生涯だった。彼女の生い立ちはけして幸福とはいえない。幼くして両親と死に別れ、引き取ってくれた祖父も病死し、頼りにしていた人には置いて行かれ、時代の波の中で漂うように生きた。移り変わることへの寂しさを感じながら仕方ないのだと諦めることが多かった。その彼女がたった一つ、どうしても諦めきれなかった気持ち。強く握りしめて、けして手放さなかった思い。そのすべてが私の内に広がり心を波立たせている。
「お水飲む? もらってこようか?」
黙ったままの私へ母が言った。
扉を開けて父が姿を見せた。黒のタキシードを着て、手には大きな荷物を持っている。結婚式の引き出物だと思ったら、あっ、と声が漏れた。
「全部、終わってしまったの?」
うまく口が動かず舌足らずな感じになった。母は初めきょとんとした顔をしたけれど意味を理解し、ええ、と頷いて慰めるような顔になった。私が結婚式や披露宴を見ることが出来なかったことにがっかりしていると思っているのだろう。私の悲しみはそれではなく、のんきに夢の余韻に浸っていたことへの急激な後悔だった。
「ごめんなさい。行かなくちゃいけないところがあるの」
立ち上がると慌てたように母が止めたけれど、私はそれを振り払い、立ち尽くす父の傍をすり抜けて外へ出た。
――”彼”が帰ってしまう。その前に、どうしてもう一度会わなければならない。
廊下に出てしばらく進むと、ゲスト用の待合室に出る。三人ほど女性客がいるだけで私の探している人はいない。
もっと進むと今度は会場全体のエントランスに出た。来客者がみんな通る場所だ。人があふれているので終わってからそれほど時間が経過していないのだろう。私は少しだけ冷静さを取り戻し慎重且つ迅速に人々の姿を見た。
その人は思っていたよりずっと簡単に見つかった。会場の扉付近にいて今まさにここを出ようとしている。後ろ姿を目指して小走りに駆け寄った。
「あの、」
引き出物の袋を持っている右の肘の辺りを掴む。袋から半分飛び出した一眼レフカメラが見えた。
私は最初から背の高いその人を見上げていたけれど、その人は自分の視線で振り返ったので私と目が合うまで妙な間があった。
突然呼び止めたことにそれほど驚いている様子はなく黙ったまま私を見下ろす。
長い前髪に隠れた目を、その奥を見つめる。彼の目は真っ黒で澄んでいた。濁りや、淀みはなく、綺麗に思えた。それは私の知っている”彼”とは違っていて躊躇いを覚えたけれど。
「……もう体調は回復されたんですか」
瞳がふいに緩み、優しげな色を宿し、その後で悠然とした低い声が聞こえた。
そのときになって、私を倒れた場所から運んでくれたのはこの人かもしれないと思った。父は不在だったし、母の力では到底無理だ。ならまずお礼を言うべきだけれど、私の体調を心配してくれている、その声を聞いたら、もうダメだった。それは”彼”のものだ。私は我慢できずにぽろぽろと涙を流す。頬を流れた滴が顎を伝いぽたりと落ちていく。
「あの、」
私はひとたび、口にした。
言わなければならないことがある。信じてもらえるかわからないけれど。大丈夫な気がした。こんなにも優しげな表情を浮かべているなら、わかってもらえる気がした。
「さっき倒れたとき、すべてを思い出したんです。私は、あなたに会うために生まれてきたこと。」
少しもうまく言えないことがはがゆい。もっと適切な言葉があるだろうし、これではあまりにも言葉足らずだ。落ち着かなくてはいけない。呼吸をくり返すけれど深く息を吸い込めない。
彼は何も言わず、ただ、優しげな表情をすっと引っ込め、周囲に視線を泳がせた。――気づけば注目を浴びている。
私の格好の奇異さ(寝かせるときに帯びを外されていて、伊達締めだけになっているし、草履も履かずに足袋だけでここへきたし、一つにまとめてあるはずの髪の毛がだらりと頬に流れてきているからきっと酷いことになっている)と、それにくわえて涙を流している姿は、このおめでたい雰囲気に包まれた結婚式会場ではあまりにもそぐわない。建物の入り口という誰しもが通る場所で、明らかに悪目立ちしていた。
そういえば、今日はお化粧をしている。こんなに泣いたら大変なことになるだろう。これではまるで襲われた後みたいだし、みんなに変に思われる。そうは思えど具体的にどうすればいいのか考え付かずにいたら、彼が私の手を引いて歩き出した。えっ、と思ったけれどこの暑い中でもひんやりとしていて冷たいてのひらの感触に言葉を飲み込み、そのままついて歩く。
大きくて、冷たい手。――この手を知っている。
握られているだけの手に自分からも力を込めようとする。その前に、ぱっと火花が弾けたように離された。
彼が私を振り返る。人通りの少ない廊下に着ていた。大きな窓から光が入っていて、明るい日差しが眩しい。
「信じてもらえないかもしれないですが、私には繰り返し見る夢があるんです。それが何であるかわかりませんでした。でも、さっき、倒れたときにすべてを思い出したんです。あの夢は、私の前世の記憶で、私は前世であなたのことが好きだった。そして、生まれ変わってもあなたに会いたいと思った。何もかも思い出したんです」
私は言った。正直に、誠心誠意を込めて一つずつ言葉にした。真剣な気持ちは必ず伝わるだろうと思っていた。
私にはもう、これまで見てきたあの夢の正体が何であるのかはっきりわかっていた。はじめは断片的に見せられていたものが、整然と順序立てられ、今は私の前に無視することが出来ないほど強靭なものとして存在している。
そう。あの少女はかつての私。彼女の願いを叶えるために私はすべてを思い出したのだ。そして、彼女が一心に愛しぬいた相手が、この人なのだ。彼を見た瞬間、電流が走る抜け、前世の記憶を覚醒させた。
日差しが揺らめく。窓の外には銀杏の木が青々とした葉をつけていて、それが少しの風でもそよぎ、その度に光が反射するせいだ。彼はそれに反応するように、目を細め、
「何と言えばいいのかわからない」と告げた。
そうだろうと思う。私自身もまだうまく飲み込めていないのだ。
「でもこれは本当のことなんです」
私は続けた。
その間も彼は私を見ていた。こんなに長く人と視線を合わせるなど初めてで、ぎこちなさはあったけれど、私の目の奥から何かを探ろうとしているのかもしれない。ここで自分から逸らしてはダメだとじっと見つめ返した。
「冗談で言っているわけではないことはわかった」それが功を奏したらしく彼は言った。けれど、「そうであるなら、余計に厄介だな」
「厄介?」
「とてもじゃないが、まともだとは思えない」
彼の言い方からは嘲っていたり、バカにしていたり感情的なものが少しも見られずとても冷静だった。その分、辛辣に響く。
「少なくとも、私は初対面の人間に”あなたに会うために生まれてきた”と言えてしまえる人間を信用は出来ないし、興味も持てないので、君の気持ちに答えることは出来ない。これが私の答えです。……と言ってわかってくれますか?」
優しげな姿など幻であったのかというほど無表情になり、さらに言葉を続けようと口を軽く開いたが、ため息をつかれただけで終わる。淡々とした拒絶の意志に肺から喉へとこみ上げてくる熱が身体を痺れさせる。
彼は私が黙ってしまうと、さっきまで私の手を取っていた左手を胸元へあげて腕時計を確認し、それから窓の外を眺めたり、私を通り越して廊下の向こうを見たりと忙しなく動く。私には興味がないと、関わりたくないと、もうここから立ち去りたいと、態度でも示しているのだ。そうであるのに強引に去らないのは私が納得せずに追い縋り、また周囲から悪目立ちしては適わないと思っているから。私がすみませんと、わかりましたと、そう言うのを待っている。
まったく期待していた状況とは違っていることがうまく飲み込めないが、その態度は私からわかってもらおうという気持ちを奪うのに十分だった。代わりに生まれた失望感は強く身体を貫いた。彼に会えたと浮かれていた分、それは深く濃かった。こんなにもあっけなく逃げ腰になる自分に情けなくなりながら、どうしても彼の冷たさに対抗する力を持てない。
「私の話、少しも信じてくれていないんですね」
それでも言った。何も言わずに去る方がいいように思うのに気付けば告げていた。
声が震えてしまい、それがさらに私を惨めな気持ちにして泣き出したくなる。
ぐっと両手を握り締めた。爪がてのひらに食い込み痛みが私の背筋を伸ばさせた。
彼は私をチラリと見たが返事もしてくれない。その態度は私をもっと絶望的な気持ちにさせた。
「私のことを頭のおかしな人間と思っていることはわかりました。そうですね。突然、前世で会っていたと言われたら気味が悪い。私がうかつでした。でも、これだけは私の名誉の為に言わせていただきます。私が前世の記憶を思い出したことは本当です。そして、おそらくあなたとは前世で会っている。だからつい懐かしくなって追いかけてしまったけれど、これ以上、どうこうしたいなんて思っているわけではありません。」
頭で考えてというより口が勝手に動く。言っていることの内容よりも、理路整然と言い返さなければならない。そういうことがある。今はまさにそういうときだ。私のことをつまらないものと見ている人間に、自分の尊厳を守るために淀みなくしゃべらねばならなかった。そうすることが私の唯一の反撃だった。
「それから、倒れた私を運んでくださったのはあなたのようなので、その件についてはお礼申し上げます。お引き留めして申し訳ありませんでした。もうお会いすることもないでしょうけれど、お元気で、さようなら。」
頭を下げて踵を返す。彼が私を引き留めることはなかった。
家に帰り着物を脱いでお風呂に入った。
出てくるとテーブルに引き出物が並べられている。白地に桜の花びらを散りばめた大、中、小のお皿を母は気に入ったようで嬉しそうだった。
父はバームクーヘンを齧じりながら、お前も食べるか、と聞いてきた。そういえば、朝におにぎりを一つ食べただけだ。食欲はなかったけれど、冷蔵庫から牛乳を一杯コップについで、テーブルに座り同じようにバームクーヘンを手で割って齧った。甘くて口の中いっぱいに幸せな味が広がっていくのを牛乳で流し込んだ。
私が黙々と食べている間、父は今日の披露宴の料理について延々と話していた。――フィレ肉のステーキがうまかった。あの結婚式場はレストランと提携していて、似た料理を食べさせてくれるところがあるから、今度連れて行ってやる。――倒れて出席出来なかった私を励まそうとしてくれているのか、慰めようとしてくれているのか、それにしても新郎新婦の様子ではなくて、食事の話ばかりするなんて、私のことをどれだけ食い意地が張っていると思っているのだろう。
割った分を全部食べきると満足して、もう寝る、と告げれば、あんた、やっぱりどこか調子悪いの? 風邪薬飲んでおく? と母が言った。たぶん寝たら治ると思うからいいと断って部屋に戻った。
電気を点けずにベッドに倒れ込むと、枕カバーから洗剤と柔軟剤の混ざり合った匂いがした。母の好きな芸能人がこの柔軟剤の香りが抜群なのだと言っていたらしく、真似てそれに替えたのだ。だけど私はあまり好きではない。家にはそれぞれ特有の香りがあるのに、無理矢理別の物に染められたように感じられて、少しも馴染まなかった。それは私自身についてもいえる。前世の記憶を思い出してから、世界が違ってしまったように感じ、ごく自然であったことが自然ではないのだと思える。たとえば両親。これまで家族というものを特別に考えることはなく、それが当たり前の存在だったのに、始終、この人たちは私の父親と母親なのだと意識した。前世では親との縁が薄かったから、お父さん、お母さん、と呼びかける瞬間の、甘ったれた感覚にこそばゆくなり、無自覚で過ごしてきたけれど、私はとても甘えているし甘やかしてもらっているのだと照れてしまった。
それから、もう一つ、致命的な出来事が浮かんだ。
彼のこと――言うだけ言って別れてきたけれど、やっていることは完全な逆ギレだ。
冷静になるほど私の発言はおかしなものだ認めざるを得なかった。すべてを思い出したばかりで、感傷的だったし、彼に出会えたことが嬉しくて、それをわかってもらおうと前世のことを告げたけれど、もっと慎重になるべきだった。そもそも、本当にあの人が彼の生まれ変わりかどうかなんてわからない。あの人の顔を見て記憶を取り戻したからって絶対なわけではない。たまたま顔が似ていたということもありうる……冷静になるべきだった。
傍で悲しみが揺らめいているのを感じ、それを無視したくて寝返りを打った。
「あーあ」
なるべく大きなため息を吐きだして、わざと声を立てて笑ってみる。そうやって真逆の感情を無理矢理出せばしばらくは悲しみから逃げていられる。今、彼のことと向き合うのはしたくない。ありありと思い出せるだけの近い記憶ではなく、もっと遠くの、あやふやなものになるまで逃げていたかった。
「あーあ」
もう一度わざとらしいため息をつく。それからのそのそと起き上がり勉強机まで歩いて行き、サイドライトを点けて、一番上の引き出しに入れてある名刺を取り出した。
何かあったらすぐに電話して、と言われ占い師から渡された物だ。
まさにこれが”何か”なのだろう。
慰めてもらいたい。そして、どうして前世の記憶など思い出してしまったのか恨み言を聞いてもらいたい。それから、これからどうすればいいのか教えてほしい。電話をすれば私の望みはすべて叶うような気がした。
――けれど、万が一、占い師にも酷いことを言われたら?
ふとそんな気弱さが浮かんだ。その可能性だってゼロではない。疲れた心には臆病さがついてまわる。もうこの件で辛い思いは僅かもしたくなった。
悩んだ末、結局、これ以上、何かをする気になれず、もし明日の朝、目が覚めて気分がましになっていたら、そのときどうするか考えよう、と今日は眠ることし、名刺を引き出しに戻してベッドに入った。
どんな気持ちのときでも暖かく優しく包み込んでくれる場所があるというのはありがたい。私は胎児のようにきゅっと身体を丸くして目を閉じた。
2013/7/22
2014/4/9 改稿
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