again and again

9. お誘い

 前世の記憶を取り戻して二週間が過ぎようとしていた。
 あれから、私の日常は比較的穏やかだった。
 鎌足からは前世で知り合いだった人が意外な形で傍にいることがわかってくると言われていたが、本当にいろんな人がそうとも気付かずに身近にいることがわかり、驚いたというのはあったけれど。
 たとえば、葵屋で一緒に暮らしていた”じいや”は私が通っていた幼稚園の園長さんだったし、よく行くお弁当屋さんの夫婦は白とお近さんだったし(この二人が夫婦になってるなんて思わなかった!)、駅前に貼っているプロレス団体のポスターには式尉さんを見つけたりして、その度に懐かしさと喜びと、同時に、彼らは私のことを忘れてしまっているという事実にちょっぴり切ない気持ちもした。
 燕との関係にも変化があった。秘密を共有した者特有の親近感だ。
 話をしてみると、燕は受ける印象とは違いよく話し、よく笑う、明るい女の子だった。いつもそうしていれば、もっと友だちも多いのにもったいない、と私は彼女をぐいぐいと人の輪の中に引っ張って行き、休み時間も一人で本を読むようなことはなくなった。それを燕本人は嫌がっているようには見えなかったけれど、明神は気に入らないらしい。
「燕を引っ張りまわすな」と怒りに満ちた顔で言ってきたことがあった。
「引っ張りまわしてないわよ。どうして仲良くするのがいけないの?」
 私も怒りで返す。
「別に仲良くするなとは言ってない。無理させるなと言ってるんだ」
「無理なんてさせてないでしょう? なんでそんなに心配するの? 何か理由があるの?」
 以前から気になっていた質問をぶつけるが、明神は、お前には関係ない、と言っただけで答えてはくれなかった。それでもガンとした頑なな様子から何かしらの理由があるのはわかった。どうもこの二人の間にはずかずか踏み込めない並々ならぬものがあるようだった。
「いいか、とにかく無理はさせるな」
 それだけ言うと、去っていく。
 燕のことを心底心配していることだけはわかるので、私も、わかったと返し、以降、明神がとやかく言ってくることはなくなったけれど、私の中で引っ掛かりはある。ただ、不躾に聞けるようなことでもないし、いつか燕から話してくれるかも、と宙ぶらりんのままで、今は楽しい計画だけを大事にしている。
 今度、一緒にライブに行く予定だ。
 そのライブというのがまた、前世繋がりだったりする。
 あれは先週の金曜日だった。帰りに燕とお茶をした後、駅まで歩いていると
「操じゃねーか」
 と声がして振り返ると相良先輩がニカっと爽快な笑顔で立っていた。年上だけれど妙に気が合って可愛がってもらっていたが卒業してからさっぱり疎遠になってしまっていたのに。
 私がチラリと横にいる燕に視線を送ると、うん、と頷いた。
 この人とも前世で関わりがある。占いの館で教えられた(私は相変わらず思い出してはいないけれど)。燕の頷きは、間違いないという合図だ。
 相良左之助。幕末の草莽隊である赤報隊に属し、隊長である相良総三を慕っていたが、彼が明治政府に使い捨てられるように賊軍の汚名を着せられ処刑されてから政府に失望と憎悪を持ち、その後、喧嘩屋として荒れくれた生活を送っていた。ところが、緋村剣心に出会い、もう一度希望を取り戻して行く(緋村剣心が人にもたらす影響力はすごいと思う)。
「なんだよ、黙り込んで。どうした? 暑さにやられたか」
「違いますよ。いきなり声かけられたからびっくりしたんです」
 前世で会ってたんですよ、とは言えないので誤魔化す。相良先輩は訝しむ眼差しを緩めると、
「そうか、悪かったな。じゃあ、お詫びにこれやるよ。ハコの五周年記念で、入場無料なんだ。俺は六時半ぐらいに演奏するから見逃すなよ。……そっちの子も、よかったら」
 渡されたのはライブチケットだった。
「先輩、バンドなんてしてるの?」
「おお、格好良いからって惚れるな。俺には心に決めた女がすでにいるから」
「誰も惚れませんよ。というか、彼女出来たんだ。おめでとうございます」
「いや、アプローチ中」
「なんだ、おめでとうって言い損じゃん」
「おまえなぁ」
 相良先輩は私をヘッドロックしてこめかみをぐりぐりと押してくる。ノリが中学の頃からさっぱり変わっていなかった。
「痛いよ! もう! 私は女の子なんですから、やめてくださいよ」
「おお、わりぃ、そういえばそうだったな。弟にしか思えなくて、つい」
 何がついなのか。乱れた髪を整えながら睨みつけても、ニコニコと笑って悪びれていない。
 あーあ、と私はため息をついた。
「じゃ、そういうことだから、またな」
 さっと片手を挙げると私たちの傍をすり抜けて去っていく。残された私と燕はチケットと、去っていく背中を振り返って見送り、それからどんな演奏をするのだろうと興味がわいてライブに行ってみることにしたのだ。
 楽しい予定が出来るとわくわくする。それにもうすぐ夏休みだ。いっぱい遊んでやる、と意気込んでいたわけだが――その前に地獄の期末テストが待ち構えている。
 浮かれモードから勉強モードへ切り替えて、真面目に試験勉強をしなければ。
 日頃からこまめに復習しておけばよかった、と毎回思う嘆きを抱えながら集中していると電話がかかってくる。うっかりいじらないようベッドに投げていたので拾い上げる。ディスプレイには「明良兄」と表示されていた。
 結婚式の帰りにおめでたい席で倒れてしまったことの謝罪はしたものの、それ以降連絡をとっていない。お詫びの品を持って改めて謝罪をしなくちゃ、とは思っていたけれど、彼らはすぐにハネムーンへ出発したし、戻ってきてもバタバタしているだろうと、時間を待っていた。
「もしもし?」
 こちらから連絡するべきだったので後ろめたく思いながら出ると、
「もしもし、操? ……もうすぐ期末試験だろう? いつから?」
 明良兄は挨拶もそこそこに、いつもの優しい口調で尋ねてきた。突然のことに目が白黒する。
「えっと、来週の木曜日から」
「そうか。ちょうどよかった。なら土曜日においで」
「え?」
「勉強、教える約束していただろう」
 覚えていてくれたのか、と私は感動した。明良兄のこういう律儀なところを尊敬している。
「昼頃においで。それで夕方まで勉強して、そのあとはホームパーティだ」
「ホームパーティ?」
 小洒落た台詞が出てくるなぁと聞き返せば、
「ああ、新居のお披露目を兼ねて友だちを招待したんだよ」
「ふーん。……でも、そのパーティに私も出ていいの?」
 明良兄にとって私は妹みたいなものだけれど、友だちと遊ぶのに妹も一緒にというのは嫌なものなのではないか。勉強を見てくれるという約束を果たすのにその日しか時間がとれず、追い返すわけにもいかないので誘ってくれたのだろうか。と、考えてみたがそれならばうちにおいで、とは言わず、私の家に来るだろう。それで時間になったら帰れば、ホームパーティの事実を私に知らせることもない。どういうつもりで誘ってくれるのだろう。
「もちろん。実は、巴の弟も来るんだ。操よりも一つ年上だけどね。彼一人だけだと居心地悪いかなって。年が近い子がいた方がいいだろうと思って」
「なるほど。」と私は頷いた。
「じゃあ、待っているから」
 そう言って電話は切れた。
 まだ行くとは言っていないのにせっかちだなぁと思いながら、私も受話器を置いた。
 勉強を見てもらえるのは嬉しい。明良兄のヤマ勘(明良兄に言わせれば勘ではなくて、試験と言うのはどこまで理解しているか教師が確認するためのものであり、確認するのに適した問題というのがあるらしい)は当たるので、今回も張ってもらおう。これでどうにか数学は大丈夫かも! と希望が持てたのはいい。でも――ホームパーティ、というのがどうも。ホームパーティそのものというより、そこに来るらしい友人が。どういう人が来るのだろう。もっとはっきり言えば、そこに四乃森蒼紫が来る可能性について、憂鬱さと緊張を覚えていた。
 これから偶然、何度も会うわよ。 
 鎌足が言ったことが本当になりそうな予感に、私の心はざわざわと揺れている。


 当日は雨だった。
 家を出るときはそれほどひどくはなかったのに、最寄駅に明良兄が迎えに来てくれていて一緒に歩いていると急に強く降り始めた。ざあざあと当たり一面が白くけぶるように激しくて、だけど雨宿りできるようなところもなく、先を急ぎ、ずぶ濡れになってしまった。そのくせ、マンションについた途端に止んだ。
 ついていなーい、と文句をつけながら、私たちはエレベーターに乗った。目指すは新居である七一〇号室の角部屋だ。
 入ると、私たちの濡れネズミの姿に、巴さんはてきぱきとタオルを用意してくれて、風邪を引いたら大変だからと私に自分の服まで貸してくれた。洗面所で着替えていると、
「着替え終わってる? 入ってもいい?」
 と声がする。
「大丈夫です」
 答えると巴さんが入ってきて、私の濡れた服を乾燥機へ入れてくれた。
「……少し大きいわね。操ちゃんの服、すぐに乾くと思うから、しばらくこれで我慢していてね」
 貸してもらったのは、真っ白なシミひとつないブラウスと、フリーサイズの七分丈のパンツだ。私が着ると子どもが背伸びしているようにしか見えないだろうけれど、巴さんが着れば大人の洗練された女性に見えるのだろうな、と思った。
「そんな、こちらこそ、貸してもらってありがとうございます。持って帰って洗濯してお返ししますから」
「そんなに気をつかわないで」
 にっこり笑う姿に天使みたいだなぁとうっとり見とれてしまう。 
「……私も小柄なほうだけれど、操ちゃんは本当に小さくてとても可愛らしい。明良兄さんが可愛い、可愛い、って言っていたのよくわかるわ」
「明良兄がそんなことを?」
「ええ、操ちゃんのこと、本当の妹みたいに思っているのよ。それもかなりのシスコンね。今日だって、朝からずっとそわそわしていて、もしかして早く来るかもしれないからって約束の時間より随分早く家を出ていったわ。何かあれば携帯があるし、あまり子ども扱いすると嫌がられるわよって言ったんだけどね」
 その様子を思い出したのか、巴さんはくすくす笑い出した。ああ、なんだか寛容な人だなぁと思う。もし自分が同じ立場だったら、妹みたいなものといえ、自分ではない女の子のことで右往左往する夫のことをこんな風に楽しげに話せるだろうか。きっとちゃんと二人の間に信頼関係があるから揺らいだりしないのかも、と思うと私の方が嫉妬してしまいそうだった。
 リビングにつくとお土産のロールケーキを渡す。箱の端がくたくたになっていたけれど幸い中身は無事だった。
「ロールケーキ、巴が好きなんだ。ありがとう」
 明良兄も着替え終えて顔を見せた。
「そうなの?」
「生クリームが大好きなの」
 答えてくれたのは巴さんだった。
「あの真っ白でふわふわして甘い感じが、幸せの気持ちにさせてくれるから」
「あー、それわかります。私も生クリーム好きなので」
 巴さんはふわりと笑う。よく笑う人だ。その笑顔はとても優しく心地よい気持ちにさせてくれる。前世では無口で無表情な人だったらしいけれど、そのような印象はなくて、ただ、ただ、柔らかくて温かな匂いがする。幸せを満喫している屈託のない無邪気さがあった。
 その様子を明良兄は眩しげに眺めて微笑んでいる。二人が揃って笑い合っている――幸せな光景に少し前なら胸を痛めてしまう自分がいたのに、今はそれ以上に胸がいっぱいになる。前世の二人の非業を知ってしまったせいだろうか。何も知らずにいれば自分の気持ちだけを優先させていられるけれど、事情を知ってしまったらその背景にあるものやそれに関わる人たちの気持ちを想像して、ああ、こうなる方がずっといいや、と思う。物事には大きな流れが合って、きちんと間違いない方向へ流れているとき、それが自分の願いとは違うものであっても(多少の寂しさは感じるにせよ)、これが一番いい形なのだと納得してしまう力強さがある。二人にはそういうものが存在した。
「身体が冷えているでしょう。お茶を入れるから」
 巴さんはキッチンへ向かった。
 あ、手伝います、と慌てて言ったけれど、お前は座っていたらいい。僕がするから、と明良兄が巴さんのあとに着いて行ったので、私は大人しく椅子に座った。
 テーブルの中央に青と白、それから黄色の花が活けられていた。巴さんはフラワーデザイナーだからきっと彼女が活けたのだろう。花の名前はわからないけれど、たぶんきっとこの黄色の花が多すぎても少なすぎてもダメで、絶妙なバランスが涼やかさを醸し出しているのだ。透明な花瓶の底は切り花の茎が見えてしまわないように大きな葉っぱで覆われていて、家に飾るものだからと手を抜いたりしない細やかさが彼女の几帳面さを表しているようだと思った。
 しばらくして運ばれてきたのはオレンジティーだった。冷えた身体にはほっとする。
 お持たせだけど、とロールケーキも出してくれて、私は遠慮なく頬張った。もごもごと甘い味が口の中に広がり、暖かなオレンジティーで流し込み、そしてまた頬張る。その間、巴さんがドライヤーを持って現れた。私の髪が濡れていることに気付いて、傍に寄って乾かしてくれる。それはまるで母親が小さな子どもにするような、とても自然に甘やかしてくれる態度に、私は自分でします、とも言わず、されるがままになっていた。ドライヤーの熱風と、その後ろからクーラーのひんやりとした風が届いて、まどろみの中に落ちて行くような気がした。初めて来る家で、こんなにもリラックスしていることに私は驚いた。
「はい、おしまい。」と言う声がして、はっと我に返る。なんだかとても恥ずかしくなった。
「綺麗な髪ね。どれぐらい伸ばしているの?」
「えっと……小学校高学年くらいからです」
 腰に届く髪は、私の唯一の自慢だった。それを誉めてもらえて嬉しい。
「そう。乾かすのが大変でしょう」
「夏はいいけれど、冬は特に」
 巴さんは私の髪を二度ほど撫でると、明良兄の隣の席に座った。
「なんだかそうしていると姉妹みたいだなぁ」
 にこにこと嬉しそうに言う。明良兄は私と巴さんが仲良くすることに賛成なのだ。それは、私のこともちゃんと好意を持ってくれているから、最愛の妻と親しくすることを望んでいるということであり、とても誇らしい気持ちになった。
 オレンジティーを口に含む。口の中が潤うと、
「あの……結婚式のときは、本当にすみませんでした」
 ティーカップを置いて、私は深々と頭を下げた。
 どう切り出そうか、考えていたけれど、今しかないと思った。
 結婚式で倒れてしまったことを、電話で、それも明良兄にしか謝罪していない。謝っても許されないことはあるけれど、だからといって謝らないわけにもいかない。
「気にしないで、操ちゃん。」
 巴さんは、一瞬何のことかわからない、という顔をしてから、ああ、と頷いてそう言ってくれた。忘れたようなふりをして、気にしてないというお芝居をしてくれたのだろうか。この人ならそういうことをしてくれそうだなぁと思い、同時に、謝罪を受ける側にもっと気をつかわせてしまって申し訳ない気持ちがした。でも、他にどう言えばいいかわからない。黙ってしまうと、
「あの日は暑かったから、大変だったよね。体調不慮はどうしようもないし。それより倒れた時に怪我をしたりしなくてよかった」
「ああ、それはもう。目覚めた時はピンピンしてました」
 おそらくきっと派手に倒れたと思うのだが、身体に痣が出来るようなことはなかった。考えれば不思議なことだ。あの日のことは、あまり思い出したくなくて両親にも詳しくは聞いていなかったが、私はどうやって運ばれたのだろう。
「怪我がなかったのは、ホントよかったよ。四乃森には感謝だな」
「四乃森?」
 ドキリ、とした。
「お前の近くにいた男で、異変に気付いて倒れ切る前に抱きとめて運んでくれたそうだよ。とても迅速だったから、周囲もそれほどパニックにはならなかったって」
「颯爽と消えて行く後ろ姿が、まるで王子様みたいだったって、由美が言ってたわね」
――やっぱり倒れたとき運んでくれたのは四乃森蒼紫だったんだ。
 そんなに素早くと動いてくれていたとは知らなかった。そのおかげで、私はどこも打たなかったし怪我もしなかった。そうであるのに、私は彼に逆ギレのような態度をとってしまった。お礼も一応言ったけれど、不躾な、とってつけたような言い方だった。いろいろ思い出してきてどんよりしてしまう。
「なんか、その人にも、申し訳ない……」
 今更言っても仕方ないけれど、そう言わずにいられなかった。
「過ぎたことだし、深刻になることもないよ。あいつもサッパリした性格だしそんなことがあったのも忘れてるだろう。でも、気になるなら、今日来るし、そのときお礼を言えばいい」
 明良兄は私を慰めるように言ってくれたけれど――今日来る? もしかしたら、とは思っていたけれど、ホームパティが始まるまでは不透明だったことが確定してしまった。あと数時間したら、ここで会うことになる。あんな態度をとって二度と会わないと啖呵を切ったのに、どんな顔で会えばいいのか。ドキドキと心臓が速まっていく。
「じゃ、時間まで、勉強するか」
 試験勉強は一番の目的である。明良兄の言葉に、私は落ち着きを失くす心を叱咤して、うん、と頷き鞄から数学の教科書と問題集を取り出した。



2013/8/31