帰趨

10. 愚か者―2

 女の家を出れば、俺の心は多少の未練や別れを惜しむ気持ちが出るかと思ったが、まったく気にならなかった。興味を失っていたところへ、女の不貞を見せられ、あまつ罵られたとあれば返ってさっぱりするというもの。それでも僅かでも気持ちがあれば怒りぐらいは感じるのかもしれぬが、女に対する恨み辛みは一切なく、それよりも俺の意識は別のところへ向いていた。足は自然と速まり葵屋へ――操の元へ。
 確かめねばならぬことがあった。どのように話を切り出せばよいか考えつかぬが、それでも、やもたてもたまらず、気が焦り先を急ぐ。
 戻れば、操はちょうど店の前で打ち水をしていた。梅雨が終わり夏も本番。少しでも涼しくなるようにと左手に手桶を右手で柄杓を持ち鼻歌まじりで勤しんでいた。
「操。」声をかければ、
「あっ、おかえりなさい」動きを止めて述べ、すぐまた打ち水を始める。
 以前であれば俺の姿を見かけると店の手伝いでもなんでも放り出して傍へ駆けてきて、
「なんじゃ、最後までしていかんか」
 翁は呆れながら注意をし、俺もまた任されたことは責任を持てと諌めたが、それでも操は繰り返す。もはや体に染み着いて取れぬようであった。それが今は嘘のように止んだ。あれは夢であったかと疑うほど、操は俺を見ても駆け寄ってはこない。物事を途中で投げ出さなくなったと喜ぶべきかもしれぬが、俺の内に広がるのは喜びではない。
「話がある」
「話? 何?」
「立ち話ですることではない」
「えー、じゃあ、夕餉の後でもいい? これすんだらお店の方も手伝わないと。忙しいんだよ」
 その台詞もこれまではなかった。俺よりも優先させることなど何一つなかったのだ。
 だから、なんだというのか。操の大事が俺ではなくなったからといってどうだというのか。――自問してみるが胸に広がるもやもやとしたものは消えてはくれず、焦燥が増すばかりだった。
「今でなければならん」
 間髪おかず答えれば操は息を飲み俺を見た。俺が急かすことなどほとんどなかったからだろう。それから、少しばかり考え込んだが「わかった」と頷いた。
 屋敷の裏口から入る。操は手にしていた桶と柄杓を井戸の傍に置く。縁側から廊下へあがり部屋へ向かおうとするが、
「話なら客間で聞くよ」
 操が言うので振り返ると立ち止まって客間の方角を指差していた。客間は俺の部屋とは反対にある。
「俺の部屋でする」
「……前にも言ったけど、嫁入り前の娘が他の男の人の部屋に行くのはよくないでしょ。だから、客間で」「俺の部屋でする」
 俺は操の言い分を遮るように言葉を重ねた。低い声で威圧的とも思える口調だったが操は俺の様子に眉を寄せた。
「客間で聞く」
「俺の部屋だ」
 操は一歩も引く気はないらしいが、俺も同様である。
「いいから来い」ついには操の細い手首を掴む。俺がそのような行動に出るとは思っていなかったのか、操は抵抗しなかった。それをよいことに引きずるように連れ歩いたが、五、六歩も進めば操も我を取り戻し、されば操の手を掴む俺の腕に重たさがかかる。操が体重をかけ動きを止めようとしている。
「嫌だ。行かない。離して! 触らないで!」
 最後の言葉が俺の荒ぶった心に突き刺さる。
 部屋に行きたくないとだけの意味でそう言ったのか、それとは関係なく俺に触られることが嫌で言ったのか。
 俺は抗う操の身を抱き上げる。小柄で軽い。重さだけなら子どものようだが、着物の上からもわかるほど丸みを帯びている。子どもなどではなく女子の身体だ。
 操はぎょっとしてまた動きを止めた。我に返り暴れ出す前に俺は部屋へ連れ去った。


 いささか乱暴に操を部屋へ投げ出して、後ろ手で襖を閉める。操は受け身をとって起き上がり俺を睨んできた。
「どうしてこんなことするの!」
 立ち上がり外へ出ようと近寄ってくる。
 俺は襖の前に立ちはだかる。
「座れ」自分でもぞっとするほど冷たい声が出る。
「そこどいて」しかし、操は怯まない。ここにはいたくないと懸命に見える。懸命すぎることが俺の不安を煽る。
「話がある。戻れ」戻って座れともう一度告げるが、
「嫌よ。聞いて欲しいなら客間で聞く。ここでは聞かない」
 操は無理に襖を開けようとする。俺はその手を取った。強く握れば操の顔が歪む。傷つける気などないがどうしても緩めることができない。
「ここで話す」
「ここでは聞かないって言ってるでしょ」
「何故だ。以前は好んで自分から来ていただろう」
「……それは……だから、私は嫁ぐことに決めたの。婚儀前の娘が男の人と二人きりになるのは世間体が悪いって蒼紫さまが言ってたんじゃない」
「ここは外ではない。家だ。誰にも見られていない。ならばよいだろう。それとも他に理由があるのなら言ってみろ」
 それでもまだ操が「婚儀を決めたからだ」と言うなら、俺は信じようと思った。他に意味などなく操の義理堅さなのだと。しかし、操はじっと俺を見つめて、
「蒼紫さまは何を言わせたいの?」
 俺が何かを知りたがっていると解釈した。それはすなわち操に隠していることがあるということだった。
 操は知っている。
 唾液が喉を通り落ちていくとじくじくとした痛みが伝い、息を吸ったり吐いたりするたび無数の棘を飲み込んでいるような苦しみが広がっていった。
 俺は操の手を離した。操は諦めたような息を吐き出し、
「大丈夫だよ。知っているのは私だけだよ。みんな、お店で忙しくしてたから、蒼紫さまが部屋で女の人としていたことは知らない。ここでそんなことするとはさすがに誰も思ってないと思う。だから心配しないで」
 俺を慰めるように続けた。
 何を言っているのか瞬時には理解できず、目の前の風景が色を失う。白と黒のぼんやりとした世界の中、操の姿だけが色づいている。俺の視線は自然と鮮やかな操へと注がれる。闇を切り裂き浮かんでくる光のようにも感じられるが、しかし光は救いだとは限らない。
 操は何と言った。知っているのは自分だけ。みなは知らぬ。だから大丈夫――何が大丈夫なものか。俺は世界中、誰に知られてもお前にだけは知られたくはなかった。
「……立ち聞きしたことを怒ってるんだったら謝るけど。でも、『あっ』って思ってすぐに立ち去ったし。それに誰にも言うつもりはないから」
 操が、あの時のことを知っていた。
 それも女についた痕を見たからではなく、俺の部屋まで来て中の様子を、情交の声を聞いてしまった。この部屋での睦事を。
「やっぱり蒼紫さまはすごいな。あのとき、私は気配を消してたのにわかっていたなんて。私ってまだまだ修行が足りないかも」
 続いたのは茶化すような言葉だ。場違いな発言に思えたが、気まずさを誤魔化そうとしているのだろう。ならば俺も、お前がいたことには気づいていなかった、気配など感じなかった、立派になった、そう誉めて話を終わらせてしまいたいような気になった。
 そう思えど、押し寄せてくる波を止めることはできない。のんきさはたちまちに飲み込まれ遠くへ浚われ、残るのは受け入れがたい現実だ。
 操が痕を見て俺と女の情交を悟ったなら、あれはここで付けたものではないとの言い訳も立つ。同じ痕でも俺の部屋でなしたのと外でなしたのとのでは意味が違う。だが、左様な狡さは通用しない。
 操――お前はそれを聞いてどう思ったのだ。
「お前がここへ来なくなった本当の理由はそれか。俺を汚らわしいと嫌悪して……」
 それ故、先程も俺に「触るな」と言ったのか。操の目には俺は無神経で浅はかな汚らわしい男と映っているのか。これまで俺に寄せてくれていた信頼も何もかもを失わさせたか。俺はお前に軽蔑されているのか。
 酷く、胸が痛い。
 指先が震える。
 自分でも滑稽なほど、俺は操に蔑まれているかと思えば震えが――。
「……汚らわしいって……まぁ、いい気分のものじゃないけど。でも、それだけ惚れてるんでしょ。みんなにバレるかもって可能性を蒼紫さまが考えないわけない。それでもあの人と――その、」
 操は言葉を詰まらせる。言いにくそうにして、結局最後までは言わず「そういうことでしょ」と言った。
 言わんとしていることは理解できた。僅かの我慢も出来ぬほど女が欲しくてたまらずに店で抱くのは危険と感じながらも抱いた。それほど俺が女に惚れていると操は解釈した。
 言いたくないことを言わされてか、操は落ち着きがなく畳を指の腹で撫でたり着物の袂を整えたりとじっとしていられぬ様子であったが、俺が黙ってままでいると、
「でも、びっくりしちゃったよ。もしバレてたらどうするつもりだったの? いくら惚れているからって、どこでもそういうことをするのはどうかと思うよ。この家には蒼紫さまだけがいるわけじゃないんだから。……まぁ、蒼紫さまの人生だし、葵屋を出て行く私が口出すことでもないけど、この家の跡取りは蒼紫さまなんだから、みんなとぎくしゃくすることはしない方がいいよ。それにね。女の人の評判も悪くなるから。蒼紫さまは……私を振って別の女の人を娶るってみんな思ってるんだよ? ただでさえその女の人の心証は良くないんだからね。それは半分私のせいでもあるから、そのことに関しては申し訳ないとは思うけど。その辺も蒼紫さまが上手に立ち回ってあげなくちゃ。蒼紫さまってそういうところはあんまり気がまわらないからなぁ……心配だなぁ。嫁いじゃったら"ふぉろー"もしてあげられなくなるんだからね?」
 ぺらぺらとよくしゃべる。これもまた操の”ふぉろー”の一つなのだろう。しかし、その内容はどれもこれも俺の心を酷く貫いた。
「俺はあの女を娶る気などない」
「え?」
「女とは別れた」
 操は目を見開く。そして、意味もなく手を頭にかざし前髪を引っ張っている。困ったときの操の癖だ。困っている。俺が女と別れたと聞いて嬉しがるのではなく困っている。
「されば、お前も三間という男とは別れろ。あの男と婚儀する理由はもうないだろう」
「何、言ってるの?」
 俺も何を言っているのか。その話は先日けりをつけたはずではなかったか。だが、口で女と別れると言うのと、実際に別れるのとは違うもの。行動で示せば変わってくると考えているのだろうか。自分でもよく理解できないが、俺は再び操に婚儀の取りやめを促した。
「どうして私まで婚儀を取りやめなきゃいけないの? 蒼紫さまが別れたことと、私の婚儀に何の関係もないじゃない」
 操は厳しい口調で言った。
――何の関係もない。
 関係がないと。
「関係なくはない。お前は俺に女が出来て、それが気に食わず、自棄になって婚儀するなど言い出したのだろう。されば、自棄になる理由がなくなったのだ。婚儀をする理由もない」
「違う!」操は叫ぶ。「私が婚儀を決めたのは自棄になったからじゃない。京一郎さんとなら夫婦になりたいと思ったからよ。自棄になっているのなら、それは蒼紫さまでしょ。その女の人と別れて辛いからって、私たちを巻き添えにしないでよ!」
 話にならないと操は部屋を出ていこうと襖を開ける。その瞬間、俺が閉める。操は冷ややかな眼差しで睨みつけてくるが、構わずその身を部屋の中央へ押し投げた。
 操は尻餅をつく。俺は傍に寄った。
「誤解するな。俺は女に惚れてなどいない。あの女との間にあったのは色恋などというものではない。互いに利益があっただけの話。別れても痛くもかゆくもない。俺は自棄になどなっていない」
 真実だった。
 操は投げたときに打ったのだろう肘のあたりをさすりながら、俺を睨む。
「それが自棄になっているっていうの。好きな人のことそんな風に言うなんてやめた方がいい。何があったか知らないけど、未練があるなら追いかけて謝った方がいいよ。そしたらきっとわかってくれるよ」
 まるで見当違いのことを言う。
 俺に女とよりを戻せと。未練があるなら追いかけろと。――操が、俺に。
 ならば追いかけぬ"お前"は何であるのか。浮かぶ答えを振り払う。
「女とは別れた。未練などない。金輪際関わる気もない。だからお前も別れろ。それで元通りだ。よいな」
 それを繰り返す。他に言うべき事があるだろう。別の言葉が。”元に戻りたい”理由を述べねば。しかし、それらが口を出ることはなかった。何をどう言えばいいのか俺は言葉を持っていない。言葉に出来るほど己の心を理解していない。ただ戻りたいと。少し前の、俺と操の関係に戻りたい。そこへ戻る。そればかりが溢れ出て、それだけを言葉にする。
「嫌よ。私は京一郎さんと夫婦になる。お嫁に行くの。もう決めたの」
 操は承知しない。嫁に行くと言って聞かない。俺の言うことなど聞いてはくれない。
「そうか。そんなに嫁に行きたいなら、俺がお前をもらってやる。それならよかろう」
 もうそれでもいい。元のように戻れないなら、操を嫁にする。されば操は俺の傍にいる。それでよいと。
「ふざけないでよ! 私を身代わりにでもするつもり!?」
 だが、それにも操は反論する。
「ふざけるなとは俺の台詞だ。お前が誰の身代わりになるというのだ」
 操は操だ。他の誰でもなく。それを身代わりにするつもりかなど、何をどうしたらそのような発想になるのか、あまりの突飛さに笑えてくる。
 操から怒気が消える。荒ぶる感情が静まっていく。ようやく俺の申し出に応える気になったかと思ったが、代わりに溢れた感情は酷く悲しげで、
「そうだよ。私では代わりにはなれない。だからさ、そんな風に荒ぶれないでもう一度ちゃんと話した方がいい。蒼紫さまがそこまで好きな人なんだから、きっとわかってくれる」
 聞かされた者の胸を打つような何とも言えぬ雰囲気に俺の内にあった激しい熱が一挙に引いた。
「……お前は何を、」
 何か、とんでもない誤解を――。
 それを聞き出す前に来訪者が現れた。
「お前たち、何を騒いでおる」
 あれだけ大声を出し合えば異変に気づく。何事かと様子を見に来たらしい翁の声がして襖が開き、操は素早く立ち上がる。
「なんでもないの。ごめんなさい。お店の手伝いもしなくて」
「それは構わんが……本当に何もないのじゃな」
 翁は言って俺を一瞥する。
 俺はそれをまっすぐに受けたが答える言葉は何もない。
「本当に何もないよ。何があるっていうの? ちょうど話も済んだところなの」
 言うと操は翁と部屋を出ていった。足音が遠ざかりやがて聞こえなくなる。
 静まりかえった部屋は夏だというのに熱を奪いさめざめとして、俺は寒さに震えた。