帰趨
11. 意地
蒼紫さまの部屋を出て店へ向かう廊下の途中、風鈴の音色が響いた。私は足を止め、ちょっと出てきてもいい? と尋ねた。前を歩くじいやは足を止め、私を振り返って、
「構わんが、」と長い髭を撫でた。
髭の先端には小さな桃色の”りぼん”が結ばれている。他にも赤、緑、橙、青、薄紫と様々な色があり、それと同じ色のものを私も持っている。蒼紫さまたちに葵屋へ預けられてひとりぽっちになってしまった私を慰めるために買ってくれた品だ。
葵屋に来たばかりの頃、毎日ぼんやりと過ごしていた。幼くして両親が死亡し、私の身を引き取ってくれた祖父も病死し、今度は蒼紫さまたちに置いて行かれ、葵屋の人たちもいずれいなくなるのだろう、だからもう永遠を期待してはいけないと幼心に思っていた。懐いてはいけない、甘えてはいけない、好きになったらその分辛くなる。そんな私の心を察していたのか、じいやは”りぼん”を買ってくれたのだ。けれど、苦無や手裏剣を遊び道具にしてきた私にはそれをどう喜んで良いかわからなかった。これは女の子のためのものだと聞かされても、ふーん、と思うだけで、どうすればいいか困った。すると、じいやは自分の髭に”りぼん”を結んで見せてくれた。へーんなの、と私が笑うと、じいやも笑った。それから、私の髪にも”りぼん”を結んでくれた。
何故、そんなことを鮮明に思い出すのだろうと可笑しく思っていると、じいやにしては珍しく渋い声を出しながら、
「もう一度聞くが、本当に何もないのじゃな」と続けた。
「……何も、ないよ」じいやの眼差しを正面から見つめ返す。心配をかけたくはなかった。
じいやは私の返事に吐息をついたので、どきりとしたが、
「そうか。言葉には責任を持て」
それだけ言うと背を向けて歩き出した。
私はその後ろ姿を見つめながら感じていた様々な緊張感が緩んでいくのがわかったけれど、ここで崩れ落ちるわけにいかないと縁側から庭に降り、裏口から外へ出た。
もうすぐ夕暮れだというのにじりじりと強い日差しが体中に降り注いでいた。目的地もなくさまよい歩いていると、足下がふらふらと覚束なくて真っ直ぐ歩けているか不安になった。そうであるのに次の瞬間には踊り出したいような気になって、今ならば女学校の授業で苦手とする”社交だんす”も上手に踊れそうだと思った。
だがそれも、葵屋から離れるにつれて遠のきはじめ、路地を一つ曲がり店が完全に見えなくなるとうすら寒くなった。落語の枕が終わり、本題の怖い話が始まるみたいな肝を冷やす空気が私の周囲に漂い始める。
落語は人情噺が好きで、怖い話も悲しい話も大嫌いだ。どうしてそんなものを聞かされなければならないのか、どうしてそれを好む人がいるのか、さっぱりわからないと、いつだったか蒼紫さまに言ったことが浮かんだ。あのとき、蒼紫さまは何と答えてくれたのか思い出せない。
――蒼紫さま。
慣れした親しんだ名がパンっと跳ねた。
知られていた。私が蒼紫さまと女の人の睦事を聞いてしまったことを知られていた。あれから蒼紫さまの態度は変わらずにいたから大丈夫だと思っていたのに。でも、当たり前なのかも。いくら気配を消しても私の未熟な腕では蒼紫さまには気づかれる。それでも今日まで何食わぬ顔で私に接していたのかと思えば苦々しく思う。どうせならそのまま触れずにいてくれたらよかったのに、蒼紫さまは今になって追及してきた。私は白状させられた。
言葉にしてみるとあの時の衝撃が鮮明に思い出され、鳥肌が立ち、くらりと目眩を覚え、身体が脈打ち、冷や汗が流れた。場所も悪かったのだろう、その現場で言わせられるなんて。
そうであるのに私の口はよく動いた。
『蒼紫さまは周りが見えなくなるくらい惚れてるんでしょ』
『だからってどこでもそういうことするのはよくないよ。みんなにバレたら大変だよ』
『私はお嫁に行くから、"ふぉろー”してあげられないんだよ』
明るく陽気な声で私は言った。だけど、話せば話すほど心に淀みが生まれ、もうやめようと何度も思った。そうであるのに、止められない、ぺらぺらと口が動く。
すると、蒼紫さまは言ったのだ。
――女とは別れた。
何を言っているのか、よくかわらなかった。そんなこと聞かせられても困る。
「あら、操ちゃん、どこいくの」
闇雲に歩いていると、近所のおばさんと出くわした。みんな家路につきはじめる時間に葵屋の方角とは違う道を行く私を不思議に思っている。
「ちょっとおつかい」適当なことを言う。
「そう。遅いから気をつけてね」
はーい、と言うと、いつも元気な笑顔ね、とおばさんもにこにこと笑顔を返してくれた。
それから私は人通りの少ない道に進んだ。顔見知りの人と出くわさないように、今は誰とも話をしたくない。避けるように裏道を進む。
心が奇妙なほど静かだ。身体を刀で貫かれても痛みはすぐにこない。刃を引き抜く瞬間にあふれ出る血と空いた穴を埋めようと細胞がうごめきだすことで痛覚が急激に押し寄せてくる。それは身体だけではなく心も同じなのだ。突き刺さった言葉はまだ私の心から抜けていない。引き抜けば私は痛みで倒れ込むだろう。死に場所を探す手負いの武士のようにふらふらと歩みを進めれば、やがて町外れにある寺にたどり着いた。
どうしてこの場に来てしまったのか、躊躇いながらも階段を昇る。
境内に入ると右手に手洗い場がある。その傍に大きな杉の木が立っていて、暑いときは日除けに寒い日は雪除けになってくれる。かつて私はこの木の下で多くの時間を過ごした。――この寺を蒼紫さまが禅を組むために訪れていたから。
私は毎日ここへ迎えにきた。頼まれたわけではなかったが進んでそうした。蒼紫さまは私の行動を厭うことはなかった。
二人で葵屋へ戻る帰り道、最初の頃は距離を置いて後ろを歩いた。背の高い蒼紫さまとちびの私では歩幅が違う。蒼紫さまが普通に歩けば私はどんどん置いていかれただろう。けれど蒼紫さまと私の距離は常に一定だった。ある時、それを妙に思っていつもよりゆっくりと歩いてみら、やはり距離が開くことはなくて、その意味を理解したとき私は涙が出るほど嬉しかった。
やがて私は蒼紫さまの後ろではなく隣を歩くようになる。傍に立って話をする。大事でもないつまらないくだらない世間話だ。蒼紫さまはそれに時々、ほんとうに時より返事をくれる。ちゃんと話を聞いてくれているのだと思うと心の奥からじんわりとした柔らかな気持ちが込み上げてくる。私はそれを聞くためにこれでもかと話し続けた。
それから最後には私は蒼紫さまの前を歩くようになった。蒼紫さまがちゃんと葵屋への道を自分で選び帰ってくれるか心配して後ろからじっと見つめることも、一生懸命話しかけていないと消えてしまうのではないかと不安に狩られておしゃべりし続けることもなくなって、先に立って歩く。くるりと振り返ると蒼紫さまがまっすぐ私のところへ歩いてくるのが見える。
「前を見て歩け。危ない」蒼紫さまが注意する。
「平気だよ」私は笑う。
そんな日々が続き、そのうち、蒼紫さま禅寺通いをやめた。月に一、二度は今もまだ訪れているようだけど、日課とはしなくなった。
季節が一巡する頃、私はもう大丈夫だと思うようになった。蒼紫さまはどこにも行かない。葵屋が蒼紫さまの家だ。もう大丈夫。私は心配しない。そう思えた。
杉の木に触れる。それは懐かしい手触りだった。あの当時と何も変わらず悠然とした姿で佇んでいる。けれども、私の方はすっかりと変わってしまった。
ここで、こうして蒼紫さまを待っていた頃、私は蒼紫さまの傍にいられるだけで幸せだった。それ以上は何も望まなかった。だけど、いつからかそれだけでは満足できなくなった。蒼紫さまとの未来を望んでしまった。でも、その願いは叶わなくて、そして、今は――。
蒼紫さまのことなら何でも知っていると思っていた。一番近くにいて、一番知っているのは私だと信じていた。でも、そんな思いは跡かたもなく消えてしまった。
あんな蒼紫さまを見たくなかった。
女の人と別れたと告げた蒼紫さまは、それから信じられないことばかりを言った。理不尽とも思えることを口にした。自暴自棄とはこういうことかと、人は恋をすると何も見えなくなるというけれど、見知らぬ人のようで――冷静で、物事を熟考する人がまるで考えずに感情のまま、思いのまま、まったく筋の通らないことを言った。
知らない。そんな蒼紫さまを、私は知らない。
『俺がお前をもらってやる』
蘇ってきた言葉がじわじわと私を蝕んでいく。
好きな人と別れた苦しみから私を嫁にすると言い出した。どう考えてもまともな状態ではない。それほど辛い心なのかと打ちのめされたけれど同時に腹も立った。いくらなんでも私に対して失礼すぎる。私を好きでもないくせに、蒼紫さまを好きだと言い続けてきた私にそんなこと。
私を怒り、身代わりにして寂しさを紛らわせるつもりかと非難した。すると、
『お前が誰の身代わりになるというのだ』
言って鼻で笑ったのだ。
お前が誰の身代わりになる。
誰の身代わりになれる。
なれるはずがないだろう。
蒼紫さまがそこまで言葉にして言わなかったけれど、そういうことだと理解した。
――そんなことわかっている。
蒼紫さまに我を忘れさせるほどの女性の代わりなど私がなれるはずない。言われずともわかっている。十分すぎるほど知っている。だから私は諦めたのに。蒼紫さまを諦めて別の道を進もうと決めたのに。そうして頑張っている私に嫁ぐことをやめろと言い、自分の嫁にすると言い、その直後には私では身代わりにもならないと笑う。
どうしてそんな酷いことができるの?
あんまりだと思う。いくら自棄になっていても、私に当たり散らすことないじゃない。
でも一番悔しいのは、それでも私はまだ蒼紫さまを嫌いにはなれないことだった。
女の人と別れたと聞かされ、一瞬でももしかして元に戻れるのではないかと、そんなわけないのに心が揺れた。私を嫁にすると言ったときも心が揺さぶられた。蒼紫さまが私を好きで言っているわけではないとわかっていたけれど、ずっとそうありたいと願っていた夢が叶うのかもと、愚かな幻想が頭を過ぎった。そんな自分がたまらなくみっともくて嫌だった。蒼紫さまの自棄にまで期待する浅ましさが。
――戻りたい。
私はまだ願っている。
ここで蒼紫さまを待っていた日々へ。
何のわだかまりもなく傍にいられた時間へ。
だけど、それは無理な話しで、過ぎた時は二度と戻らない。何もかもが変わってしまったのだ。
もう過去を振り返ることはやめなければ。そうすると決めたのだ。未練は断ち切らなければいけない。
私にだって意地がある。
――泣くもんか。
泣いていても何の解決にもならない。じいやもそれから店のみんなだってきっと心配している。私は、もう子どもではない。自分がするべきことを全うできる。
――帰ろう。帰って、ちゃんと話をしよう。
そして、三間さんとの婚儀は自棄なんかじゃないとわかってもらう。そうじゃないと惨めすぎる。
杉の木に触れていた手を離すと掌がしっとりと湿っていて、まるで私の代わりにに泣いてくれているような気がした。だから、大丈夫、とぐっとお腹に力を入れて背筋を伸ばした。
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