帰趨
9. 愚か者
思うとおりにいかぬのが人の世である。
操の婚儀をやめさせるはずが、止め切れなかった。原因となっている女とは別れるとの提案にも、婚儀をやめるとは言わなかった。それよりも俺に幸せになれ、操は操で三間という男の元へ嫁ぎ幸せになるから、俺も俺で女と幸せになれ、それが願いとまで言った。
俺はそれ以上、反対のしようもなく引き下がるしかなかった。
操が他家に嫁ぐとなれば俺の保護者としての役割も終わる。操のことを何一つ気にとめることもなく、世話を焼くこともなくなる。これからそれは夫となる男の役目である。
お役御免となった俺は、操を思えば罪悪感を持っていたが、それらを感じることなく女の元へいける。誰にも気兼ねすることなく、操が言うように俺は俺で幸せになると。
しかし、晴れて認められた女との関係を、どういうわけか俺は喜べなかった。女の元へ足が向かない。もっと平たく言えば急に女に興味がなくなった。
されば、現金なもので目に留まっても気にもならなかった女の粗が不快なものと見え始める。
己の身は小綺麗にするが住まいの手入れはおろそかで、料理などほとんど作ったことがない。金にはだらしなく、清廉な容姿を武器に男に貢がせ生計を立て暮らしている。
俺との関係もそうである。女は寝物語の合間に金銭を要求してきた。
色恋に金が混ざればそれはもう色恋ではない。俺も馬鹿ではない。女が俺を好いているわけではないと気づいてはいたがあばたもえくぼ、抱いている間の全てを忘れていられる享楽があれば多少のことはよいと思った。
色香に引き寄せられたのかもしれぬ。辛い心を甘い香りで包み込んでくれる。さすれば過去を慰められる気がして、女の肌の心地よさを得られるならそれでよかった。
結局、俺とて女を好いていたわけではなかったのかもしれん。一時の快楽を求めることを好いた惚れたと誤魔化して正当化していただけ。俺はまた、逃げていたのだ。何から逃げていたのかもわからぬが。
家を訪れることが減っても月の"手当”は支払ってやらねばならない。人に頼むわけにも行かず、女の元を訪れることにした。
女は冷たくなった俺にどう出るか。以前にも、足が遠のいたことがあったが、あの時のように甘えてくるか――左様なことを考えていたが、家を訪ねれば中からあられもない声が聞こえてくる。昼間から、憚りもなく情事にふけっていることが伺える。
俺は驚きながら戸口の前に立ち、しばし考える。
通わぬようになっていたといえ、何ヶ月も経過していたわけではない。故に、既に女に別の”だんなさん”が出来ていたとは思わなかった。否、女も食っていかねばならぬ。再び通うようになりはしたが、一度、俺は女を見限ろうとした。一度は許しても二度目はないと、戻ったとしても、また三度目があるかもしれぬ、いつ見限られるかもしれぬ男より次を見つけた方が安心と思うのはおかしなことではない。合理的な判断である。そうれはそうであるが、これほど簡単に次を見つけ靡くとは。――ここへ来る間に、女との関係に芯からの惚れた腫れたはないと思ったばかりだったが、金の切れ目が縁の切れ目、俺への情など僅かもなかったということがここまであからさまに突きつけられれば清々しくさえある。
女の声が、徐々に性急になりはじめた。よく啼く女だとは思っていたが「だんなさんが悦くしてくれますから」としんなりと身を預けられると悪い気はしない。しかし、それも女の手練手管であったかと、他の男相手の濡れ場でも随分と感じているらしい様子で知る。
一際大きな声がする。女が果てるときの声だ。俺はそれが聞こえてしばらく、家に入った。
俺の顔を見て慌てふためくかと思ったが、慌てたのは女ではなく一緒にいる男の方で、
「な、な、なんやねん、あんた」
一方で女は動じることなく、
「あら、嫌だわ。もうそんなお時間でした? ……だんなさん、変な誤解はしないでくださいね。この方は以前世話になってたお店の若旦那さんで、話があると言われて昼過ぎにお約束してたんですよ。でも、だんなさんが可愛がってくださるから、約束の時間が近づいているのも気付かなかったみたいです。恥ずかしいわ。……ですので、だんなさん、申し訳ないですけど今日は帰ってくださいます?」
口八丁手八丁とはまさに。その"だんなさん"はかような情交の場面を見ても黙っている俺に勘ぐることはなく、ただの不躾な男と解釈しようで、女の言葉を鵜呑みにして手早く身支度を整える。俺はそれをしげしげと眺めた。
「また明日も来てくださらないと、嫌よ」
"だんなさん"が俺の傍を通るとき女が言った。それに"だんなさん"はデレっとした顔をして去った。
手玉に取られている姿を滑稽なものだと思ったが、俺も人のことは言えまい。傍目からはかように見られていたのかと居心地の悪さを感じたまらない気持ちになった。
二人きりになり、俺は女を見た。女はやはり悪びれる様子もなく身を整えながら、
「怒らないんですね」
言われると確かに俺は怒りを感じていなかった。己の女が他所の男と不貞を働きコケにされたというのに、強かな様子に感心さえしたぐらいだ。俺の内からは怒りはこみ上げない。怒りを感じるほどの執心がないのだと女の言葉で自覚する。そしてそれを女も承知しているようで、怒られることがないと知れば悪びれる必要もないと堂々としているのかと思えば不愉快さは感じた。
「お前とは今日限りだ。申し開きは聞かん」
俺は持ってきた包みを女に投げてよこした。不貞を働いたといえ約束は約束だ。手切れ金代わりと、女はそれを見ても"いらない"とは言わず受け取って、
「だんなさんが私を責めるなんて出来ないでしょう? それとも別の人に抱かれるのは駄目でも、別の人を心で思うのはいいとおっしゃいますの?」
背を向けて歩き出そうとすれば告げられた。少し前まで女の甘ったる声で"だんなさん"と呼ばれると欲望が煽られたものだが今は白々しく聞こえる。
無視してしまっても良かったが、それは大人げないかと振り向いた。女は薄ら笑いを浮かべている。
「私が不貞なら、だんなさんも不貞ですよね」
「どういう意味だ」
「どうもこうも――……まだご自分のお気持ちをわかってらっしゃらないのですか? だんなさんにはずっと別の人が心にいた。寝言でその人の名を呼んだこともあったんですよ。気になってちょっと調べてみたら、その人もだんなさんを好いていると知りました。それなのにだんなさんは、その人のお気持ちにはお応えにはならず、私と関係をお持ちになった。どうしてそんな真似をするのか最初は不思議でしたけど……あのお店の若旦那となったのもその人のおかげで、婿養子みたいな立場なんでしょう。好きな女に何もかも世話になって気後れした。だから憂さ晴らしに外で好きなようにできる女が欲しかった。そういうことかと納得しました」
「何を言っている」
声音は自然と険しくなる。女の言葉にジリリと嫌な焦燥が。
「何も隠さなくてもいいですよ。私も"一応"お世話になった身ですし、他言はしませんから。……でもねぇ、やはりいいように利用されるのは腹が立ちますでしょう。だから少しばかり仕返しはさせていただきましたけど」
女はそう言うとますます愉快気な顔をする。
「だんなさんは怒りませんでしたけど、普通は好いた相手のそういうものを見たらカッとしたり、傷つきますでしょうねぇ」
その言葉に浮かんだのは一つの記憶。
「そんな怖い顔しないでくださいよ。あの時、私を夢中で抱いたのはだんなさんでしょう?」
何がそれほど可笑しいのか、女は声をたてて笑い、
「だんなさんは右のここに痕をつける癖がおありでしょう。ちょうど小首を傾げてこうすると見えるんですよ。ご存じでした?」言いながら首を傾げ襟を正した。すると、確かに一瞬だが襟が開き首筋が見える。「帰りに皆さんにご挨拶させていただきましたとき、お嬢さんにだけ見えるように……そしたらさっと顔を赤らめて慌てて背を向けはりました。本当はお部屋の方に来てほしかったんですが、そしたらもっと面白いことになったでしょう? ですがこれだけでも十分だったと私の気も済みました。年若い娘というのは妙に潔癖なところがあるものですからねぇ。好いたお方が別の女を家に連れ込んで、とあれば百年の恋も醒めるというもの――好いていた分、余計汚らわしいと思うものかと。嫌われてしまっても仕方ないですよね」
と続けた。女の言葉は真っ直ぐに俺を突いた。
あの時、俺とて"操に知られるかもしれぬ"と考えなかったわけではない。店から俺の部屋まで一番離れているし、店の支度でみな忙しなくバタバタとしており、大声でも出さない限り何をしていても気付かれはしまい。しかし、何の拍子に誰がくるとも限らない。女がいることを見せつけるのと、女との情事を知らしめるのは意味が違う。流石にここで女を抱くことはできぬと最初は断った。しかし、女は"執拗"だった。
『ここではできません? 若旦那さんやのに店の人に気を使いますの?』
女の言葉が蘇ってくる。
何故、女は挑発したのか。そう言えば俺がどうするか計算づくだったと、そして俺はまんまとその挑発に乗った。ここで抱かねば腑抜けと思われると意地になった。
それはすべて女の"仕返し"のためだった。それを見事に果たした。
女が帰った後、誰も、何も、俺を咎めなかったのを知られていないと解釈していたがそうではなく、
『年若い娘というのは妙に潔癖なところがあるものですからねぇ』との言葉がやけに耳に残る。
女が言うように操の目に俺のしていたことは"汚らわしい"と映ったのか。俺は操に嫌悪されたのか。
否、しかし、本当に操に知られているかはわからない。首筋から覗く僅かな痕など見えていなかったかもしれない。そもそも、見たとしても操には痕が意味するものなどわからないのではないか。操は男女の営みの知識などないだろう。そのような関係を結んだことはない。生娘である。されば痕を見たぐらいでわかろうはずがない。ただ俺が好いているという女の姿に辛くなって背を向けただけ、女の言葉は俺を陥れるための出まかせである。
そう、否定しながらも、胸の辺りからこみ上げてくる得体のしれぬものに息苦しくなる。
あれから操が俺の部屋に来なくなった――てっきり俺に女が出来たことへの反発で距離をとっていると考えていたが、そうではなく俺と女の睦事を知ってのことであったら、そのようなことをしていた場所へなど汚らわしくて行けないとの考えであったら、何も言わずにいたのは知られていなかったからではなく、怒る価値もない男と俺は操に軽蔑されている。
白とも黒とも、右とも左とも決められぬ曖昧な事実を前に目まぐるしく意識が揺れた。
「だんなさんは女子のことを甘くみすぎですよ。女にも矜持や意地はあります。どこへ連れて行ってくれるわけでもなく、着物の一つ、櫛の一つも買ってくださることもなく、たまに土産を持ってきてくださったかと思ったらお菓子だなんて――子どもではないんですから。女子が悦ぶことなどなにもしてはくださらず、ただご自分の欲求の解消のために好きなようにされて、好いているわけでもない金で買った囲い者だからそれでいいとでも? まぁもっともだんなさんみたいな不粋な方に本気になられても、それはそれで困りますけど。ちょうど新しいだんなさんも出来ましたし、だんなさんから足が遠のいてくれて面倒なく終われると喜んでましたのに……女子にこんなこと言わせるなんて、本当に最後まで勝手でつまらない方でしたね」
女は一息に言い終えると「お世話になりました」と告げる。
一時といえ関係を持った女にここまでなじられるとは。俺がつまらぬ男ならば、その男から生活の面倒を見てもらっていた女も同類であると心に浮かんだが、これ以上己のつまらなさを露呈するのも愚かだと俺は無言のうちに去った。
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