帰趨

12. 矜持

 喉が渇く。
 夏の暑さはまだこれからというのに渇いて渇いてたまらぬ。
 一人になった部屋で崩れるように座り込込めば身体から水気が抜けていく。水気というより気力というべきかもしれぬが。
 右手で喉笛のあたりを撫でればひゅうひゅうとかすかな息が漏れている。それが時折からみついたようなつっかえを感じ、咳払いを繰り返すがいっこうに治まらず飲む物を欲した。
 操。と唇に乗せるが、うまく音にならぬし、そもそも操の名を呼んで茶を持ってきてもらえるような状況ではなかったと、そうであるのに自然とこぼれ落ちたことに、今度は口元が緩んだ。かほどに愉快な気持ちはいつ以来か。これほど可笑しいのは。可笑しくておかしい、珍妙な声を立てて笑いたい衝動がゴクリと飲み込んだ生唾に下されていく。
 俺は、どこで、何を誤ったのだろうか。
 何故、俺と操がかような言い争いをせねばならなくなったのか。
 部屋を出て行く寸前に見せた操の悲しげな顔が蘇ってくると、下したはずの笑いがこみ上げてくる。笑いという体をした嗚咽は咽頭を行き来し吐き出されるのを待っていた。それをもう一度飲み下そうとしたが、うまくいかない。
 操を傷つけた――その事実が俺を突きさした。
 大事にしたい娘を傷つけて俺は何がしたかったのだろうか。
 女を葵屋に連れてこなければよかった。女の存在を操に打ち明けねばよかった。否、女などそもそも作らねばよかった。俺は別にあの女に惚れていたわけではなかったのだから。
 何故、俺は女に惚れていると思いこんだのか。
 何故、女と関係を持ったのか。
 操を裏切ってまで。
 そうだ。あれは明らかな裏切りだった。操とはそういう仲ではなかったが、やがてそう遠くない未来で夫婦になるだろうとみなが考えていた。そのことを俺自身も感じていた。
 操の家である葵屋に身を寄せて、葵屋の若旦那になり、それで操を娶る気がないなど、そのような都合のよい考えはない。若旦那になるとは、すなわち操と夫婦となり葵屋を営んでいく意思があるということだ。
 俺はそれを理解していた。理解して、そうなるならそれでよいと若旦那になった。凡百の小料亭の主というのも悪くないと。
 しかし、だからと言って操との関係が急激に進展するはなかった。
 俺にはまだ迷いがあった。
 いつかそういう日がくるなら、それでよいが、今すぐというのには抵抗が。過去の出来事に対する整理が依然としてつけられない。俺のような男が光を手にして良いのかとの躊躇いもある。時間が必要だった。
 そんな俺に、操もまた急かしてくることはなかった。ただ目の前の静かな日常を、日々の穏やかな生活を送れることを望み、先のことは考えずに暮らしたいとの気持ちを操は許してくれた。俺はそれに甘えた。
 だが、時の流れは止められない。
 操も年齢を重ねる。同じ年の娘は次々に嫁ぎ子を持ち始める。いつまでも今のままで暮らしていくわけにはいかない、どうするか決めねば。どうするか――どうもこうも、このまま操を娶れば良い。それが当然の流れと受け入れればよい。
 しかし、俺はそうせずに、別に女を作った。
 何故俺は、そのような真似をしたのだろう。

「あんた自身が囲われもんやもんな」

 見下げるように言い放たれた。
 朱乃屋という料亭の若旦那が俺を快く思っていないことは前々から知っていた。年が近いせいで何かと比べられることが多く、しかし生憎と俺の評判が勝っていた。男は商才がないのだ。されば、いつしか顔を合わせると嫌味の一つ二つを言ってくるようになった。だが俺は左様なこと気にもとめなかった。それがまた男は気に食わなかったようだが。
 今年に入ってからも男とひと悶着あった。
 それは年が明けてほどなくの寄り合という名の新年会、所謂酒宴の席でのこと。俺は乗り気ではなかったがこれも付き合い、仕方ないと参加していた。男はそこで芸妓に執拗に言い寄り始め、芸妓は俺に救いを求めて来た。他の者は酔っ払っており頼りにならぬと思ってだろうが、しかし、日頃から俺に不満を抱いている男の癇に障り、俺に向け言い放った。
「あんた自身が囲われもんやもんな。そやから庇うんやな。そうやわな。御庭番衆の御頭かなんか知らんが、結局は敗北者やろ。それがのうのうと、行く宛のないあんたの面倒を見てくれた店の若旦那に納まった。男前は得ですな。せやけど俺ならそんなん耐えられませんわ。なんもかんも与えてもろて情けない」
 されば、いくらなんでも言いすぎだとみなが咎めた。
 酔っ払いの戯言と俺も受け流すことにした。
 ところが、普段であればくだらないと翌日には忘れる出来事が脳裏から消えぬ。男の言葉は妙に俺の心を煽った。
 それが全くの事実無根ではなかったからだろう。
 何もかもを失い行く宛てのない俺は葵屋に身を寄せた。やがて店の若旦那になった。このまま操と夫婦になるだろう。
 数多くの過ちを犯し償いきれぬ罪を背負った俺が労することなく人並みの――否、それ以上の幸せを手にする。それはすべて、操が俺に与えてくれたものであった。
 俺の心のうちにあった躊躇いは過去の出来事への踏ん切りがつかぬことだけではなかった。男の言うようなことを俺もうっすらと理解していた。そして、それでよいのかと。よいわけがないと。
 このまま操と夫婦になれば、俺は本当に囲われ者だ。
 そんな矜持が。
 丁度、その頃に女と出会った。
 女は俺を頼りにしてきた。女の肌もさることながら俺はそれが心地よく感じられた。操には与えられるばかりだが女との関係は違う。女の前では俺は情けない男ではないと、矜持が満たされた。
 行きついた答えに冷や汗が流れる。身体が硬直していくのがわかる。俺が囚われたもの。俺が執心したもの。それがつまらぬ矜持だったと知り、それ故に操を裏切り女との関係を持ったなど認めたくはない。俺は、己の手で、己の意思で、何かをなしたかった。操に与えられるばかりではなく、自分で何かを。それがよりにもよって女を囲うことであったなど、そんなこと。だが、
『あのお店の若旦那となったのもその人のおかげで、婿養子みたいな立場なんでしょう。好きな女に何もかも世話になって気後れした。だから憂さ晴らしに外で好きなようにできる女が欲しかった。そういうことかと納得しました』
 つい先ほど女に言われた言葉がひとたび俺を打った。
 矜持を満たしたいだけならば何も女とのことを打ち明けずともよかった。店の者に知られぬようにする方法などいくらでもあった。されば操を傷つけずに済んだ。しかし俺は明らさまな態度で女のところへ通った。操へ己の口から「好いた女が出来た」とまで告げたのだ。
 何故、俺がわざわざ女の存在を隠さず、あまつ店にまで連れて行ったか。
 その理由を、女の方は百も承知していた。俺のつまらぬ矜持など全て見通され、それを知り復讐に操との仲を裂くように仕向けたと嘲笑われた。
 そうまで言われて、俺はようやく己の本心を知った。隠し持っていた愚かな思い上がりを。
 俺は操を傷つけたかったのだ。傷つけ泣かせ引き留めさせたかった。
 操は俺がどこにも行かぬと、住む家を与え、働く場所を与え、俺の生活の全てを与えている自分の元を去るわけがないと、このまま自分と婚儀するだろうと、そのような心持でいるのではないかと疑い、ならば、俺はいつでもそこから自由になれるとわからせてやりたいとの思いがあった。俺は葵屋にいなくとも、操の傍でなくとも、生きていけると知らしめたいとの心があった。
 しかし、俺の思惑は大きく外れる。操は俺に女が出来たと知っても泣きも責めもしなかった。――それ故に次は女を店にまで連れてきたのだ。女を目の当たりにすれば、流石に黙ってはいられぬだろう、泣きながら引きとめるだろう。だが、それにも操は咎めることなく、それどころか
「蒼紫さまが幸せなら、お祝いしなくちゃね」言って笑った。
 操は俺を好いていたのではないのか。俺と夫婦になることを望んでいたのではないのか。何故そのようなことを言えるのか。
 そして、更には他の男のところへ嫁ぐと言いだした。
「私は私で幸せになるから、蒼紫さまも蒼紫さまで幸せになって」そう言ったのだ。
 違う。俺が望んでいたことはこんなことではない。
 俺はただ、操から与えられるだけの人間ではないと証明したかった。与えられているから操を選んだわけではないとわかってほしかった。されば堂々と操と夫婦になれると――俺は操と、俺こそが操と何よりも夫婦になりたいと思っていたのだ。堂々と誰の目も気にすることなく操の前に立ちたかった。
 その方法を俺は誤った。
 矜持など何の意味がある。そんなもの捨ててしまえば、意地など張らずにいれば、されば操は今も。
――俺は大事なものをまた見失った。
 言っても始まらぬ後悔が溢れ出る。とめどなく溢れるそれを飲み込んでも喉の渇きは増すばかりだった。