帰趨
13. 対面
「しかし、このじゃじゃ馬娘を嫁にもろてくれるとはありがたい。気の変わらんうちに早く婚儀をあげんとなぁ」
ひょ、っとおどけるような笑いを浮かべて翁が告げれば、
「もう! じいや。変なこと言わないでよ」
操はふくれっ面になる。されば操の隣に座る男は二人の軽口を微笑ましげに見つめて
「僕の方こそ、操さんを妻に迎えられるなんて幸せ者だと、妹にも散々言われました」
その言葉に操は何ともいえぬ深みのある笑みを浮かべて男を見た。切なげで愛しげな――女子が恥じらう姿に見えて俺は目を伏せる。
今日は操が夫婦となりたいという男が挨拶に来ている。正式なものではなく簡単な顔見せだ。
あの夜――操と言い争いになり己の心の内を自覚し愚かさも知った。しかし、現実を理解しても何をどうすればよいのか一つも思い浮かばない。そうしていると夕餉が出来たと呼ばれた。
葵屋では夜の予約がない場合はみなで揃って夕餉を取る。ここしばらく忙しかったが幸か不幸かその日は予約がなく全員での食事だ。部屋に入ると操はすでに座っていた。姿に大きく心臓が跳ねたが立ち止まるわけにもいかず俺も座る。
操は何を思っているのだろうか。
気になり様子を伺うが操は何事もなかったように美味しそうに箸を進める。小柄な身であるが操はよく食べる。見ていて気持ちのよいほど。それ故に、食事が喉を通らなくなれば"何かあった"とわかる。だが今はけろりとして美味しげに平らげていく。
食事が終わり店の準備にみなが立ち上がる。当然、操も。女衆と膳の片づけをしながら、今夜は忙しくなるかなぁ、などとにこやかに話をしている。俺は声をかけることも出来ず部屋を出た。
ところが、廊下をしばらく進めば
「蒼紫さま」操の声がする。
振り返れば小走りに近寄ってきて俺の傍でピタリと止まる。
「さっきは感情的になってごめんなさい」
思ってもみなかった謝罪に俺は幾分驚いた。非ならば俺の方にある。言い争いも、そもそもの火種を作ったのも俺の愚考だ。しかし、
「それでね……あの…」操は一瞬視線を逸らし、それから決意を固めるように大きく息を吐き出す。そして今一度俺を見上げてくる。
「あれからね、蒼紫さまに言われたこともよく考えてみたけど、やっぱり三間さんと夫婦になるよ」
凛とした声音で告げられる。言葉は俺を貫ぬく。
操はふっと表情を緩める。いとけない、俺の良く知る操の顔ではなく、酷く大人びて見える。真っ直ぐに俺を見つめる眼差しは澄んでいて美しかった。
「蒼紫さまが心配してくれる気持ちはすごくわかるよ。あれだけ蒼紫さまのことを追いかけていたのに、たった一月で別の人と婚儀を決めるなんて自棄になってるって思われても仕方ない。でもね、私は本当にいい加減な気持ちで婚儀を決めたわけじゃないの。私、三間さんとだったら幸せになれるって思えたの。これも何かの縁なのかもって。だから、私、三間さんと夫婦になる」
言葉に嘘はない。反発などではないと。ただ、俺がそう思い込みたかっただけと。現実を告げるには十分だった。しかし、だからといって俺はそれを受け入れることはできない。俺は"心配"して反対しているわけではない。操が自棄になっているから止めると卑怯な言い方をしたが、本心は俺が操に他所の男と婚儀をさせたくなかっただけと――ようやく気付いた本音を、だが、どう伝えればいいかもわからず躊躇っている内に、
「……けど、やっぱり出来れば蒼紫さまにも認められたい。蒼紫さまは私にとって大切な人だから、祝福されたい」
先に操が言葉を重ねた。
大切な人――その言葉が俺を揺さぶる。だがその”大切”は俺の望む大切ではもうないだろう。操の俺に対する思いはすでに男女のそれではなく、家族のものへ変わっている。未練など少しもなく。それをはっきりと正面から告げられて俺は虚しさとも寂しさともつかぬ感情に飲み込まれる。
「蒼紫さまは今、辛い状態だってわかってるけど、もし時間があって、心に余裕があったら、一度三間さんに会ってみてよ。会ってくれたらきっとわかってもらえると思うんだ」
続く言葉が更に俺を苛んだ。本来であれば、女と別れて傷ついている俺の心を気遣ってくれるなど有難いことだろう。操を振り作った女との関係が壊れたならば、己の傷ついた心の憂さ晴らしに詰られても文句は言えまい。しかし、操は俺の心配をする。その気持ちに有難いと思うべきだ。しかし俺の心には苦しみが溢れる。
「……女のことは本当にもう全て終わった。お前が気にすることはない」
それだけはわかってもらいたいと告げれば操はじっと俺を見る。その眼差しは依然として心配げに見えたが、
「そう」短く一言告げた。それ以上、女のことを追求する気はないらしい。
「……お前こそ、本当にその男を好いているのか。それがお前の本心なのか」
最後の望みを託すように尋ねる。すると操も強い眼差しを逸らすことなく頷いた。
「そうか。そうだな……お前もいつまでも俺のことを思っているはずがない。俺は少し自惚れが過ぎたようだ」
自嘲が思わず洩れた。そうでも言わねば、たまらずにまた無体な振る舞いをしそうであったから、己の心を抑え込み"お前の思いを見誤って申し訳ない"と告げる。自覚した心に蓋をして保護者面を。
操はかすかにだが笑ってくれた。
「じゃあ、三間さんに会ってくれる?」
「わかった」俺は言った。他に言えることなどなかった。
それから三日後。
操は男を――三間京一郎を連れてきたのだ。
客間に通された男の元へ翁と俺が向かう。部屋に入れば三間と操が隣り合って座っており三間の前に翁が、操の前に俺が座った。
「三間京一郎と申します」
涼やかな声で述べた。
三間京一郎。関東では名の知れた名家の一人息子で、洋菓子店を営んでいる。京都に訪れたのは関西への出店計画のためと聞かされていた。家柄も仕事も申し分ない。何より、操の言うとおり、目の前にしてみると愛想の良い穏やかそうな人柄がにじみ出ている。
「まぁ、そう固くならんでも。改まる席でもないですから」
翁が述べた。顔見せの挨拶と言っても、本当に何も決まっていない。来客とさほど変わらぬものだ。その言葉を受けて三間は頷いた。しかし、操の方が緊張していた。その姿に翁のからかい癖が出て”じゃじゃ馬娘”発言に繋がったのだが。
「そうじゃが、あっちこっちへ連れまわされとるんじゃろ。なんとかいう庭園に連れて行ってもろたとか。手鏡と櫛も買ってもらったとも言っておったが」
翁は先程のからかいとは違い声音を僅かに低くした。申し訳なさそうな様子に、
「いえいえ、それぐらいは。関西のことはほとんど知りませんし、操さんががいろいろ連れて行ってくれるので楽しいです」
言い終えると三間は操に微笑みかけた。操も微笑み返す。
やりとりを聞いて、俺の心に浮かぶ違和感。男の口から聞かされる操の様子は俺の知っている操とは異なるように思えてざわりと心を揺さぶる。
操のことは何でも知っていると思っていた。
操が最も親しく打ち解け、屈託のない態度をとるのは俺であると信じていた。
しかし――操は俺にはどこかへ行きたいなど一度も言ったことはない。何かをねだったことも。それ故に、そのような欲はないものと。しかし、そうではなかったのか。操にも人並みの欲があったことに驚いた。
だが考えてみれば操は好奇心の強い活発な娘だ。出歩くことはは好きだろう。では何故俺には一度もどこかへ行きたいと言わずにいたか――いや、違う。俺が葵屋に戻ってしばらく操は外出を促した。しかし俺は断った。日課としていた禅寺に一人で出向くことはあっても、奴らの墓参りに出掛けることはあっても、それ以外の場所へは赴く気分になれなかった。それ故、操の誘いを幾度も無下にした。俺の身を案じてくれているとは感じながらも拒絶した。操は無理強いはせず、やがて誘ってくることもなくなった。それ以降ずっと。
操は俺に遠慮していた。素直な娘であると思い、言いたいことがあれば言ってくると思い、しかし本当にそうであったのか。今更になって疑問に思う。そのことが嫌な感情を逆なでる。
『どこへ連れて行ってくれるわけでもなく、着物の一つ、櫛の一つも買ってくださることもなく、たまに土産を持ってきてくださったかと思ったらお菓子だなんて――子どもではないんですから。女子が悦ぶことなどなにもしてはくださらず、ただご自分の欲求の解消のために好きなようにされた』
女と別れた日に罵られた言葉が思い出される。
俺は女子と戯れるような生活をしてはこなかった。女の言うように無粋な男なのだろう。気遣うような振る舞いなどせずにいた。否、子ども相手かと馬鹿にされたが土産に菓子を買うぐらいのことはした。
だが、操へは――本当に何一つしてこなかった。
それでも操は文句をいうことはなかったし、俺の傍で笑い続けていたが。
『あの人の傍にいると笑ったり泣いたり、我慢することなく素直な気持ちでいられる』
三間とのことを反対したときに操が口にした。その意味を考えることはなかったがあれはつまり――。
「私も、三間さんと出かけるの楽しいよ」操は続けた。
「ほうか、ほうか」翁は睦まじげな二人に目を細めた。
胸に広がる苦味から、その日、俺は一言も口を開かなかった。しかし、日頃の無口さが幸いして誰も妙には思わなかった。
*
甘味屋に入り席に座ると大きな息を吐いた。それを見て京一郎さんは笑う。
「そんな盛大なため息をつかなくても」
「ため息じゃなくて安堵の息なの!」
今日、三間さんが挨拶にきた。それが終わり私は三間さんを途中まで送ってくると葵屋を出た。"片時も離れたくないあぴーる"だ。睦まじい恋人に見せるための行動だったけれど、せっかくだから甘味屋に寄って行こうと京一郎さんが誘ってくれた。
「ふふ、操ちゃんかなり緊張していたもんね。初々しくてよかったけど」
「もう! からかわないでよ」
京一郎さんの言う通り単なる顔見せのはずが私はものすごーく緊張した。その場に蒼紫さまも出席したからだ。
「でも、どうにか乗り切ったね」
続いた言葉に頷く。
挨拶に来ることが決まったのは三日前だ。
蒼紫さまと言い争いになった夜。私は店に戻ってもう一度婚儀のことを言った。蒼紫さまへの反発心でも、自棄になっているからでもなくて、本当に京一郎さんとなら幸せになれると思ったからだと。だから、京一郎さんに一度会って欲しいと。蒼紫さまはもういつもの冷静な姿に戻っていて頷いてくれた。
それから、私は京一郎さんに挨拶に来てほしいとお願いした。
京一郎さんもそのつもりだったからと快く引き受けてくれたけど、逆に本当にいいのかと心配してくれた。
「彼が反対するなら操ちゃんにとっては嬉しいことじゃないの?」そう言ってくれた。
京一郎さんが言わんとしていることはわかった。蒼紫さまが私の婚儀に反対する。私を嫁がせたくないという。他所の男のところへ嫁に行かせるのは嫌――その先にある感情が私への恋慕であると。これまで全くそのような目では見れなかったけれど、いざ他の男の嫁になると思えば惜しくなったとかそういう感情が男女間にはあるらしい。ならば私にとって喜ぶべきことなのではないかと。
実を言うと、私もそんな風にならないかと僅かの期待が存在したことは認める。惜しくなったと引きとめられて果たして素直に喜んでいいか微妙だけど、全くそういう気持ちを持たれないよりは嬉しい思う。けれど、期待は脆く散る。蒼紫さまの反対にはそういうものでは一切ない。
「私が自棄になっていると思って保護者として心配しているだけだから」
事実、私が冷静に自棄ではないと告げたら、
『そうか。そうだな……お前もいつまでも俺のことを思っているはずがない。俺は少し自惚れが過ぎたようだ』
そう言って所在なげに笑ったのだ。私への気持ちに目覚めた様子は微塵もなかった。純粋に私の気持ちが自分にまだあると信じていたと。だから自棄になっていると疑わなかったと。そう思いこんだ己の自惚れを恥じると謝ってくれたのだ。
蒼紫さまは私がそれほどまでに好きだったことをわかっててくれたんだな、と思えば切ない気持ちになった。同時に、そんな私のいる場所であの女性と――と恨みがましい気持ちも溢れてきて苦しかった。
「そうかぁ。反対されてるって言うから操ちゃんはうまくいくかもって思ったんだけど」
京一郎さんは辛そうな笑顔になった。
妹の美雪ちゃんに私との婚儀を告げたとき、手放しで喜ばれたと聞かされていた。わかっていたことだし、あそこまで喜ばれると返って清々しいと言っていたけれど寂しそうだった。
「そんなこと言って、本当はそうなったら困るって思ってたでしょ」冗談めかして言えば
「……そうかも」京一郎さんは言った。
「ひどっ!」言いながら私は笑った。
下手をするとそれこそ自暴自棄とも思えるやりとりも心を軽くさせる。気を張らずに笑っていられる。だからきっと私は幸せになれる。間違っていない。大丈夫。そう心で繰り返した。
それからどうすればより自然な恋人に見えるか話しあった。結果、恋人だからとベタベタしすぎると"浮かれすぎて地に足がついていない。冷静になるまで待て"と言われる恐れもあるし、凝った芝居をするより普通の態度でいる方がいいということになった。
そして本日"本番"を迎えたのだ。
「ああ〜本当に緊張した〜」
「隣にいてもひしひし伝わってきたよ」
「でも、うまくいってよかったよ」
「次は、僕の家への挨拶だね」
「うん」
そうだ。まだ京一郎さんのご両親への挨拶がある。京一郎さんの家は名家だと聞いている。私のことを気に入ってくれるか――反対される可能性だってあるのだ。
「近々、東京へ一度戻ることになっているから、操ちゃんの都合が合えば一緒に来てもらえるとありがたいな。結納はその後で、改めてうちの両親とこちらにご挨拶に来させていただくことになると思う。婚儀は……店の開店が再来月に迫っているし、軌道に乗るまではバタバタしてるから来年の春頃になるかな。ちょっと待たせちゃうことになるけど」
来年の春。まだ半年以上先だけれど、きっとあっという間だろう。そしたら、私は京一郎さんと夫婦になる。新しい所帯を持つのだ。なんだか不思議な気がするけど、日取りが決まって行くと現実味を帯びてくる。私は、嫁ぐのだ。
「操ちゃん。大丈夫?」感慨なのか不安なのか判断のつかない思いが込み上げて言葉を失っていると京一郎さんが聞いてくる。
「ごめんなさい。本当に結婚するんだなぁと思ったら、何かこう……胸がいっぱいというか」
「嫌なら、まだ間に合うよ?」心配げに問われる。
「嫌だなんて、そんなことないよ。……京一郎さんの方こそ、ホントにいいの? 気持ちを伝えたこともないんでしょう?」
私と違い京一郎さんは美雪ちゃんに一度も想いを告げたことはない。言ってみなくてはわからないことがある。何もせずにこのまま私と夫婦になって後悔をしないのか。だけど、京一郎さんは静かに首を振った。気持ちを言えばもう兄妹には戻れない。そしたら美雪ちゃんは掛け値なしに京一郎さんを頼れなくなる。それが何より怖いと。だから私はそれ以上何も言えなかった。
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