帰趨
14. 刻々と
三間京一郎が挨拶に来てから操の婚儀について話をする機会が増えた。
関西出店のための店舗契約も決まり再来月には開店予定で、その前に一度東京へ戻ることになり、それに操も同行することになったと――本日はその話だ。三間家への顔見せと、こちらでの事業が軌道に乗ればいずれは東京へ戻り暮らす。当然操もついて行く。将来住むことになる家を見ておくという目的もある。
しかし、婚前旅行というのに翁は難色を示した。はいからな者を好むが、男女のそれには古風な考えが顔を出すらしい。正式な結納前に左様なことはさせられぬと反対した。
「二人で行くわけじゃないから」
操を翁に告げる。東京へは三間と、三間の妹と三人で行く。泊まる部屋も操と妹が一緒であり”婚前旅行”などというものではない。
「だいたい、顔見せもしないで婚儀は出来ないんだから必要なことでしょ」
「……まぁ、そうじゃが……」
結納は東京での顔見せが済み、先方も納得された後で取り交わしを予定されている。三間の口振りからも九割、話がご破算になることはなさそうだが、何があるかまだわからない。それが俺の心をかろうじて慰めてくれてもいた。
「もう、心配するようなことは何もないってば。三間さんは紳士だから、婚儀前に何かするなんてこと絶対ないよ」
操は嫌みを言うような娘ではないが詰られているような心持ちになる。俺は婚儀もしていない女はこの家で抱いた。それを見られ――操はあれから、そのことについては何も言わない。言うような事もないのだろうが、俺のことなどもう興味はないからかもしれぬと思えば、冷たい態度をとられる方がましと愚かな思いが過る。
「そんなに心配ならじいやついてくる?」
「馬鹿を言うでない。大事な娘を嫁にやるんじゃから、向こうが挨拶にくる前にこちらが出向く真似など出来るわけがない」
「じゃあ、やっぱり私が一人で行くしかないじゃん」
「そうじゃが……」翁は長い髭をもてあそぶように撫でて、黒尉、白尉、増髪、近江女、そして最後に俺の顔を見る。
「適任がおるわ。蒼紫についていかす」
「は? なにそれー! どうして蒼紫さまと一緒に行かなくちゃいけないのよ」
操が非難する。嫌だと包み隠さぬ態度がなんとも居心地の悪さを感じさせる。
「三間家は名家であると聞いておる。これぐらいの無愛想な男の方がなめられんでよいわ。蒼紫が一緒なら東京行きを認める」
「なにそれー。そんな理由でついていかされる蒼紫さまだって迷惑じゃん。蒼紫さまにだって予定があるだろうし。いいよ。私、一人で行くから」
ねぇ、蒼紫さま。と操が俺に告げる。その顔は"断ってほしい"とありありと書いてある。迷惑がっているのはよくわかる。俺とて操が嫁ぐ相手の両親への顔見せの席になど立ち会いたくはない。その場で、どのような振る舞いをすればよいのか。考えただけでも気が重くなる。しかし、
「お前も、先代から操を頼まれているんじゃ。同行して相手の家が本当に問題のない家かを見極めるぐらいのことはしてやっても罰はあたるまい」
操を"幸せに"出来なかったのだから、せめて操の幸せのために出来ることをしてやれと――そう言われて俺は何も言い返せない。操のために俺がなせる残されたことを断れるはずがない。たとえ心の向かぬことであっても俺の願いは叶わぬものであるなら、己のことではなく少しぐらい操のためになせることを。
「話は決まりじゃな」
そして翁は強引にすべてを決めてしまった。
操はまだ納得できない様子で俺の方を見ているが、
「わかった」俺も答える。されば操は諦めたように俺から視線を離した。
だがその表情は物憂げに見える。俺のような陰気な男が同行すればまとまる話もまとまらぬとでも考えているのかもしれない。その心配はわからぬでもないが――そこまで厭うことはなかろう。素直に頼りにされればそれはそれで辛くなるのだろうが、かといって操から邪険にされるのも辛い。いずれにせよ操の婚儀に関わることは心を突いた。
「結納が終わればすぐに婚儀じゃろ。花嫁衣装も準備せねばな」
俺の憂鬱を余所に話は進む。聞いていたくない内容に自然と視線はうつむき膳を見つめる。箸はほとんど進まぬ。
「まだ気が早いよ」
「何をいうとる。お前の晴れの舞台じゃ。立派なものを用意させる。されば、時間はあった方がよい。明日にでも呉服屋を呼ぶ」
「……それなんだけど、洋装はどうかって話もあってね。ほら、京一郎さん、洋菓子店をしてるから西洋式もありかもって」
「おお、流行の”うえでぃんぐどれす”というやつじゃな」
「うん。”ばーじんろーど”っていうのがあって、赤い絨毯の上を父親と一緒に歩いて、途中で新郎に引き渡すの。私の友だちもこないだそれで婚儀してたけど、すごく感動しちゃった。じいや、父親代わりに歩いてくれるでしょ」
「ひょ、儂が父親役とな。そりゃ、楽しみじゃのう。されど、その”うえでぃんぐどれす”はどこで作るもんか。呉服屋ではなさそうじゃが」
「……いや、まだ決定してないから」
「歯切れが悪いのう。気乗りせんのか?」
気乗りしないという言葉に俺は下げていた視線をあげて操を見る。心に迷いがあるのか。愚かな期待を抱いてしまうが。
「気乗りしないと言うか、一つだけ……」言いながら操の頬が赤らむ。「誓いの”きす”っていのがあるんだよねぇ」
どくり、と心臓の音が鳴る。先程から婚前旅行の話も出ているが、操の口から具体的な"きす"という行為を聞かされると喉の奥が焼け焦げるような感覚に落ち着かぬ心持ちになる。
「みんなの前で愛を誓って、その――口付けをするって恥ずかしすぎない? まぁ、頬で大丈夫らしいけど、それでもさぁ」
「なんじゃ、そんなことか。別によいではないか。減るものでもないし、夫婦になったのなら堂々と見せつけてやればよいわ」
翁は婚儀前の男女の関係にはうるさいが、婚儀を挙げれば問題ないとなんとも乱暴な発言をする。
「えー、嫌だよ。そういうのは二人きりのときにこっそりするものでしょ」
「まぁ、秘め事というぐらいじゃからな。しかし、西洋では誰もがやっとることなら、別によいではないか」
「うーん」
婚儀を決めはしたが、操はまだ誰の者でもない。しかし、祝言を挙げ、初夜を迎えれば、そのような営みを交わす。操はあの男の手で女になる――己は操にそういう関係を見せつけたというのに、操のそれをほのめかされると平静でいられないなど勝手だと思う。しかし、操が男と睦事を交わすなど考えたこともない。否、考えないように遠ざけていたのかもしれない。いつまでも純粋無垢な子どもであると思いこもうとしていた。だが、操はもう幼子ではない。年頃の娘である。婚儀するとなればやがて子を産み育てるのは自然の流れだ。ただ、その前になす事柄が生々しさを帯びれば聞いていられない。
「……――操。」
「え?」
黙り込んでいた俺に突然名を呼ばれて操は驚いた声を上げる。
「明日、墓参りに行くが、お前も」
「……ああ。うん、そうだね。……東京に行く前に般若くんたちにも報告しておいた方がいいもんね」
話を切り上げさせたくて咄嗟に出たことだが、操は勝手にそう納得し頷いた。
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