帰趨

15. 墓参り

 木々が青々しい。光が葉の隙間を縫うように降り注ぎ、地面へまだらの陰影をつくる。
 蒼紫さまは私の少し前を水の入った手桶と柄杓を持って歩いている。私は墓前に備える花を手にしている。来る途中で買ったものだけど、切り口をたっぷりと水で湿らせていたのに熱気で少しくたりとしている。暑い中を二時間歩き続けているから多少は仕方ないことだけど。
 隠密御庭番衆の墓は町から随分と離れた山中にある。生前、危険な任に就いていた。世を去ってからくらい静かな場所へ眠らせてやりたいとの計らいなのだろう。
 無口な蒼紫さまとお墓までの長い道を会話もなく歩き続ける。月に一度の恒例行事だった。来る日を決めているわけではないけど、それとなく私から誘う。ずっと続けてきたが先月は来なかった。いろいろあって言い出せずにいた。一度断たれてしまうと、再開することが難しい。今月はどうしようか。憂鬱なことは後に引き延ばすようにしていたけれど、昨夜の夕餉の際に蒼紫さまから誘われた。蒼紫さまの方から言ってくるのは初めてのことで、私は多少躊躇いがあったけれど頷いた。
 幾度も来ている道だけど、蒼紫さまの後ろ姿を見つめながら、私は気詰まりを起こしていた。これまで会話がないことを苦痛に感じるなどなかったけれど沈黙が重い。蒼紫さまのこのところの口の重たさは憂いを感じさせるものだから。そして、その原因を私は知っている。蒼紫さまは失恋し傷心しているのだ。
 あれから、蒼紫さまの外出の機会が目に見えて減り以前のように家にいる時間が増えた。それで女の人と別れたというのは本当らしいと認めた。ただ、全く外出しなくなったというわけではなく時々は出る。そのときも、
「禅寺に行ってくる」
 私のところへやってきて一言告げていく。まるで蒼紫さまが葵屋に戻ってきた当初に戻ったように感じられた。
 あの頃、私は蒼紫さまが外出することに怯えていた。いなくなるのではないかと恐ろしくてたまらなかった。すると、蒼紫さまは私に行き先を告げていくようになった。私を不安にさせていることを心苦しく思ってだろう。気遣いをありがたいと受け取りながら、それでも蒼紫さまが外出するときは落ち着かなかった。
 それがいつからだろう。私は蒼紫さまが家を出ても気を揉まなくなった。ちゃんと帰ってきてくれると、ここが蒼紫さまの居場所と思ってくれていると、信じられるようになり、蒼紫さまもどこへ行くとは告げなくなった。
 もう大丈夫と、ずっと続いていくと思っていた日々――でもまた逆戻りだ。蒼紫さまは出先を告げていくようになり私はそれを見送る。まさに当時を戻ったようだ。ただ、私たちの関係は同じではないけれど。
 蒼紫さまは無理をしている。
 別れたと言い自棄になる姿に「未練があるなら謝った方がいい」と私は告げた。すると蒼紫さまは「未練はない」と怒った。でも、嘘だ。怒ったのは図星だから。たぶん今も後悔している。否、時間が経過した今だから、余計に辛くなっているのかもしれない。そして、心を落ち着けるために禅寺へ向かう。
 それをわざわざ私に告げるのは何故だろうと不思議だった。誰かに行き先を言わねば、あの人のところへ足が向いてしまいそうで怖いのだろうか。その予防線のために言うのか。それとも私に妙な勘ぐりをされて、未練があると思われたくないと意地がそう言わせるのだろうか。理由は定かではないが、どちらにせよ、禅寺へ行っていることで心が揺れ動いていると筒抜けだ。蒼紫さまの切ない胸中を――それぐらい私だってわかるのに蒼紫さま自身は行動が指し示す意味が自分ではわからなくなっている。それほど冷静に物事を見られなくなっている。
――よっぽど堪えているんだな。
 思うと、私の心はきゅっと縮んだ。
 過去の出来事を思い煩い、禅寺通いへ明け暮れていたときも痛ましかった。そして私は蒼紫さまの心に寄り添いたいと願い、少しでも出来ることはないかと必死に考えた。でも、何もなくて、そのことがどうしようもなく寂しい気持ちを呼び起こした。けれど、今はあの頃と全く別の焦燥が私を突き刺している。
 蒼紫さまも恋に泣くのだ――きっと、喜んであげるべきことなのだろう。失恋したことは残念だけれど、やっとそういう普通の振る舞いを出来るようになった心を喜ぶべきなのだ。でも、私ではない人に恋をし、その身を焦がし、途方に暮れるところなど見たくない。
 私もたいがい未練がましい。だけど、蒼紫さまの傍にいるとどうしても意識してしまう。私は他の人と夫婦になるというのに、依然として蒼紫さまのことばかり考える自分に後ろめたさが広がった。
「操。」蒼紫さまが足を止めて振り返る。
「どうしたの?」
「いや、黙ったままでいるから、気分でも悪いのかと。少し休むか」 
 その表情は静かだけど優しげだった。辛い状態でも私を気遣ってくれる。蒼紫さまは自分の心とは別に、私を心配してくれる。だから私もそうするべきなのに、蒼紫さまの胸中を思い自分も辛くなっている。そのことに更に申し訳なくなる。
 こんなことではいけない。私がしょげていても何も変わらない。私に出来ることは、きっと蒼紫さまの心配を減らすことなのだ。
「平気だよ。ありがとう」なるべく明るい声で答えた。

*

 通い慣れははずの墓までの道がやけに遠く感じられた。これまでは操が一人で話をし続け、よくもまぁそれだけしゃべることがあるものと呆れながらも感心しているうちにたどり着いたのだ。しかし、今日の操は口が重く黙って後ろをついてくる。墓参りに騒がしくするのはいかがなものかと感じていたし、神聖な気持ちになるにはよい。そうであるが俺は気落ちしている。
 風が吹き葉を揺らす音や、落ちた小枝を踏む音が異様に大きく聞こえてくる。操と二人でいるのにひどく寂しい。そんな風に思うなど初めてのことで――一人でいても、他の誰といても感じたことはなかった。左様な気持ちを知ることなどないと思っていた。しかし、間違いようもなく俺の心を苛むのは寂しさだ。
 操が俺に向けて朗らかに話しかけてくることがなくなって一月。否、冷たい態度や、避けたりということはない。みなのいる場所で極めて普通に見えるし、必要があれば俺にも話しかけてくる。ただ、俺が一人でいても傍に寄ってくることがなくなった。女が出来たと告げ、操の気持ちを無下にしたのだ。当然のことだろう。だが女と別れたと告げてからも元には戻らなかった。同じ屋敷にいながら、下手をすれば一日口を聞かぬようなことにもなりかねないほど操は俺から離れた。
 すぐそこにいるのに俺の隣には立たない。
 操が熱心に俺に向けていた視線も、笑みも、何もかもが失われた。そして、それは今、別の人間に与えられている。
 その事実がじわじわと俺を追いつめていた。
 落ち着かぬ心を鎮めるために禅寺通いを再開した。かつて己の身の振り方を考えるために一日の大半を過ごした場所へ、今一度行くことになるとは思わなかった。
「禅寺へ行ってくる」
 出掛けに操へ外出先を告げる。女とは手を切ったと話したが、操は信用していない様子であったから誤解されぬようにと――否、それは建前だ。どこかで俺はまだ昔に戻りたいとの、戻れるのではないかとの淡い期待があったのだろう。以前のように操が俺を迎えに来てくれるのではないかと都合のよい願望があった。
 そして、その願いは一度だけ叶う。
 雨が降りだしそうな怪しい天候の日――操が傘を持って来てくれた。
「蒼紫さま」本堂の入り口からひょこっと顔を出して俺の名を呼ぶ。
「操。どうした」驚きながらも素早く立ち上がり近寄った。
「どうしたじゃないよ。今日は雨が降りそうだから出掛けるなら傘を持って行った方がいいって朝もみんなで話してたのに。忘れるなんて蒼紫さまらしくないね」
 はい、と傘を差し出される。
「……すまない」謝れば、
「別にいいけど。いろいろ思うことがあるみたいだけど、あんまり根を詰めすぎない方がいいよ」
 操は早口に告げて、じゃあ、と去って行こうとする。
「操。」俺は引き留めた。「帰るのか」
――それならば一緒に。
 続ける前に、
「これから三間さんのところへ行くの。ここのところ美雪ちゃ……妹さんの体調が良くないんだけど、三間さん忙しいみたいで、代わりに私が傍に」
 俺のためだけに足を運んでくれたわけではなかった。
「随分と親しげにしているのだな」漏れたのは嫌みとも取れる一言だったが、
「まぁね。義理の妹になるんだもの。家族の心配をするのは当然でしょ」
 そう言って笑い三間家へ向かった。
 操は新しい家族を持つ。遠くへ、俺の手の届かないところへ行ってしまう。俺の元へはもう来てはくれない。
 俺は一つもわかっていなかった。
 操から与えられるだけの人間ではない、操がいなくとも俺はやっていける、それを知らしめたいとの愚かな考えを持ったが――俺は何もわかっていなかった。操が俺に向けてくれていたものを己がどれほど必要としていたのかさえ理解していなかった。だから、そんな愚かなことを思い描けたのだろう。
 俺のした振る舞いで露呈したのは、俺が考えるよりずっと深く多くを操がなしてくれていたという真実。そして、操の方こそいつでも俺から去ることが出来たという現実だ。俺が他を選ぶなら、操もまたいくらでも他を選べる。そうだというに、俺が操の元を去ろうとしたら操は追いかけてくるだろうと信じていた。己の存在が操に大きな影響を持っていると証明出来ると考えた。
 全て俺の幻想であり、自惚れであった。つまらぬ意地を持ち、つまらぬ思惑に捕らわれ、操を試そうとし結果がこの始末だ。
 何もかもを己から手放した。今更悔やむこともおこがましい。されど、溢れる後悔を留め置くすべも知らぬ――。


「着いたぁ〜!」
 二時間近くの道のりをほとんど無言で歩き終えて山頂にたどり着くと、操が大きく伸びをしながら言った。それから墓前へと近づくと花入れに手を伸ばした。
 水分が飛び、干からびて茶色く変色しているが先々月に操が飾った花だ。
「ひどいことになってる……蒼紫さまも先月ここへは来なかったの?」
 操が振り返り尋ねてくる。
「ああ、来そびれてな」
「……――それってもしかして、私のせい?」
 神妙な面持ちになり聞いてくる。
 毎月、操からそれとなく墓参りへ行かないかと促されるが先月は言われなかった。もしかして自分に誘われるのを待っていたせいで来なかったのか。操の心配はそういうことだろう。その通りだった。俺は操から今まで通りに誘ってくれることを期待した。さればそれをきっかけに関係を少しは修復出来るのではないかと。しかし、操は何も言ってはこなかった。俺と二人で――たとえそれが墓参りでも――出掛ける気にはならなかったのだろう。それを思えば、今日共に参ってくれているのは有り難いことだと感じられた。
「そうではない。俺の都合で飛んでしまっただけだ」
 だから何も気に病むことはないとの意味を込めて告げた。少しでも操の気が軽くなるように。俺に出来ることはそれぐらいだ。
「……そっか。そうだよね。別に二人で来るって決めていたわけじゃないもんね。来たかったら蒼紫さま一人で来るもんね」
「ああ」
「うん、そっか。なんか変に考えちゃって。そうだよね。それなら、いいんだ。……――さ、先月の分も綺麗にしよう」
 操は言うとにこっと笑いよしっと腕まくりをし始めた。

*

 ざぶんと目を閉じ湯にくぐる。呼吸が苦しくなる寸前で浮かび上がる。新鮮な空気を大きく吸い込む。両手で顔をゴシゴシとし水気を払う。最後に「はぁ」ともう一度大きく深呼吸した。
 片道二時間の道のりを歩いた。近頃すっかりと運動不足だったからお湯の中でふくらはぎと太股を順番に揉みほぐす。
 心が沈んでいるときは身体を動かすといいと聞いたことがある。だけども、集中して行えないなら意味はないらしい。
 二月ぶりの墓参り。もしかしたら蒼紫さまは一人で行っているかもと思っていたが、墓前にお供えした花は私が以前に飾ったものだった。完全に干からびて触れると花がパラパラと落ちていく。
 蒼紫さまもあれから訪れなかったのか。
 ひょっとして私が誘うのを待っていたのだろうか。樹海に埋葬していた般若くんたちの躯をこちらへ運んでから、ずっと二人でお参りしていた。恒例の行事を一人でなすのはと躊躇ったのか。気になって尋ねたら、そうではないと即座に否定された。蒼紫さまも色々と立て込んで来れなかったのだと。
 聞かされて私が誘わなかったからではないとほっとした――よりも、墓参りへ二人で来ることを大事に考えていたのは私だけで、蒼紫さまはそれほど意識してはいなかったのだと切なくなった。確かに「絶対一緒に来ようね」と約束したことは一度もない。これまで一緒に来ていたのは私が行こうと促したから。それを私だけが二人の大切な行事だと思い込んできた。
 蒼紫さまに好きな人が出来たと聞かされてから、こんな風に私の勘違いが一つずつ明るみに出始めた。どれほど自分が都合良く解釈していたか。言葉の少ない蒼紫さまのことを勝手な見方で判断していた。
 そもそも、蒼紫さまは本当に毎月墓参りへ来たかったのだろうか。
 今になってふと思う。無惨な死を遂げた彼らの冥福を祈ることを私は当然のものと考えていたけれど、彼らの死を自分のせいと苦しむ蒼紫さまにとって墓参りは過去を思い出し辛くさせるものだったのではないだろうか。そんなことも気づかずに、二人でみんなのところへお参りに行く。どこか浮かれ気分だった自分の幼さ――幼さではすまされないけれど――が急にたまらなくなった。
 無神経な私を咎めることなく、誘えばついてきてくれた。そして、今日も、一緒に行こうと誘ってくれた。私は感謝するべきなのだろう。
 ざぶりともう一度湯に潜る。今度は長く沈んでいる。少しずつ息苦しさを感じる。苦しみは息が出来ないだけではない。
 お墓を掃除し、花を備え、お線香を上げて、両手を合わせると、痛みに襲われた。
 ずっと、この先も、こうして蒼紫さまと二人で続けていくことだと信じていた。否、疑うことさえなかった。私にとっては毎月の決まりごと。でも、それももうすぐ終わってしまう。嫁いでしまえば私は三間の人間になる。いずれ東京で暮らすことになる。そしたら簡単にはここへ来られなくなる。
 少しずつ、少しずつ、私と蒼紫さまの繋がりは消えていく。誰より近いと思っていた距離は、やがて、本来の、正しい距離を取り戻すだろう。
――ごめんね。
 墓前に、私は祈った。
 みんなが私の幸せを願い、葵屋に置いていかれた日から、心の奥で責める気持ちを抱いていた。私はみんなと一緒に行きたいのに。私の幸せはみんなの傍にいることなのに。――だから、日本全国を噂を頼りに探し回った。
 私はどこかで蒼紫さまも好いてくれている。私のために置いていったけれど、蒼紫さまの本音は私を連れていきたかったに違いないと考えていたのだ。どうしてそのようなことを思えたのか、今となってはもうよくわからない。ただ、そう信じて、そして、ついには再会まで果たした。その結果が、自分の気持ちを押しつけてきただけだという結末にたどり着いた。全ては勘違いだ。
 ああ、こんなことならみんなの気持ちを素直に受け止めて、すっぱりあの時諦めてしまえばよかった。そしたらこんな惨めなことにはならず、綺麗な思い出としていられただろう。それを、みんなのことを恨んで――。
 ホント、笑っちゃうよ。
 けど、それでも、傷ついた蒼紫さまにとって葵屋という場所があったことはよかったのだと思う。だから、私のしたことは全てが無駄じゃない。たぶん。きっと。それだけは唯一誉められることだ。
――ちょっとぐらいは私、蒼紫さまの役に立ってたよね。
 一方的に追いかけ回して、迷惑だっただろうけれど、少しぐらいは、そう思ってもいいよね。
 湯船に浮上する。先程と同じように両手で顔を拭う。でも、拭っても拭ってもおかしなことになかなか乾くことはなかった。