帰趨
16. 昔話
白い肌だと背中を拭きながら思う。
京都は盆地で独特の暑さがある。初めて訪れる人は不慣れさに体調を崩してしまうことも多い。美雪ちゃんもその一人で、夏風邪を引き込み寝込んでいた。元々身体が強くなかったこともあり、暑さで食欲が戻らず、ずるずると長引き、やっと熱が下がった。
「お風呂に入りたい」真っ先に願った。身体がべたべたして気持ち悪いと気分も優れない。ただ、先日、少し体調が回復したからと入浴し熱をぶり返したので京一郎さんは認めなかった。代わりに固く絞った手拭いで身体を拭くことになり手伝いをしている。
「ああ、さっぱりした」持ち上げていた長い髪を落とすと、真っ白な背中が真っ黒な髪で覆われていく。
「操さん、ありがとう」くるりと振り返り笑顔で告げられる。「ああ、でも髪の毛がべたべたしてるのが気持ち悪いな」
「汗、いっぱいかいてるもんね」私は美雪ちゃんの前髪を撫でる。考えてみればこれまでずっと私が一番年下だったから、一つ違いといえ年下の女の子と接するのは初めてだ。妹がいるとこんな感じなのだろうか。
「うん。そう、ずっと寝てたから絡まっちゃってるし」長い後ろ髪を横に持ってきて手を通すが途中で引っかかり最後まで行かない。何度か頑張ってみたが諦めたのか寝具から降りる。三間家の京都の家は洋館だ。東京の本邸も西洋風だと聞いている。寝具も布団ではない。大きな長方形の台の上に布団を敷いた”べっど”と呼ばれるものだ。地べたに敷いて寝る布団と違い、寝返りを打てば下に落っこちるのではないか。心配を口にすれば慣れるとそんなことないと返された。でもそれは裏を返せば慣れないと落ちるということだろう。
美雪ちゃんが机の引き出しから櫛を取り出し"べっど"へ戻ってくると私の傍に腰掛ける。
「貸して」
「いいの?」頷くと美雪ちゃんは少しだけはにかんだような表情で私に櫛を渡してくれた。それから背を向ける。私は美雪ちゃんの後ろ髪を少し手にとって上から櫛を通していく。
「すてきな櫛だね」
手にした櫛は派手な装飾はないけれど細かい彫り物が施されていた。
「ありがとう。これ、兄さんが買ってくれたものなの」
「京一郎さんが?」
「うん。私の母……あ、産みの母の方だけど、母の形見の櫛があったの。父が母に贈った物で、随分と年季が入っていた品だったから、ふとした拍子に壊われちゃったんだよね。それがすごく悲しくて泣いてたら兄さんが買ってくれたの。『泣くな。これからは僕がずっと傍にいるから。寂しい思いはさせないから』って約束してくれたの。今にして思えば、形見の品が壊れて泣いてるのに、何かちょっと慰め方が違う気もするんだけど、あの頃は『あ、そっか。じゃあ泣くのやめよう』って――私って単純だよね」
なんだかんだと言いながらも美雪ちゃんの物言いは優しげだった。
たぶんだけれど、美雪ちゃんは形見の櫛が壊れたことも悲しかっただろうけれど、本当は両親を失い一人ぽっちになってしまったことに不安を感じ泣いていたのだろう。そして、それを京一郎さんはちゃんとわかっていた。だから傍にいると言ったのではないだろうか。そして、美雪ちゃんは安堵し泣きやむことが出来た。
悲しい出来事というのは生きていれば多かれ少なかれ存在する。でもそれが暖かな記憶へと塗り替えられることがある。そうしてくれる人が傍にいてくれることは幸運だ。美雪ちゃんは形見の櫛を失ったけれど、別の宝物を手にした。大切な思い出の一つなのだろう。
コンコンと扉が叩かれる。
「終わったか」京一郎さんの声だ。
「うん。もう入っていいよ」美雪ちゃんが答えると京一郎さんが入ってくる。手には紅茶の入った"てぃーかっぷ"と"くっきー"を乗せた"とれい"――お盆のことをそう言うらしい――を持っている。
「待ちかまえてたの?」
「ああ、僕の悪口でも吹き込まれたか適わないからな。……何か変なこと言われなかった?」
京一郎さんは"べっど"の近くにある"てーぶる"に"とれい"を置きながら私を見て言った。
「変なことなんて言ってないわよ。せっかくお兄ちゃんのところへお嫁にきてくれるって言ってくれてるのに断られたら大変だからね」
「本当か?」京一郎さんはわざと疑うような声を出す。すると、美雪ちゃんはわかりやすくむくれた。仲がいいなと思う。
「本当よ。ね、操さん」
美雪ちゃんも振り返り私を見る。潔白を証明してほしいということだろうと、
「この櫛を京一郎さんに買ってもらったときの話を聞いてたの」
手にしていた櫛をひらりと京一郎さんに見せる。
「……――その櫛、まだ持ってたのか」
「まだって……持ってるよ。だってお兄ちゃんが初めて私に買ってくれたものだし」
美雪ちゃんはむくれたままで続けた。美雪ちゃんにとって大事にしていた品が京一郎さんにはそうではなかったのか。そういう怒りを私は理解できる。でも、
「懐かしいな。美雪があんまりにも泣くから似ているものを探して買ってきたんだが……母親の形見の品の代用なんて出来るはずないのに、泣きやんでくれてほっとした」
私の手にある櫛を見つめて懐かしげに告げる。京一郎さんは少しも忘れてなどいない。すぐに思い出せる記憶として留めている。
美雪ちゃんのために一生懸命に櫛を求めてお店を探し回る光景が自然と思い浮かんだ。その当時から、京一郎さんにとって美雪ちゃんは特別な存在だったのだろう。そして、そんな京一郎さんの気持ちの籠もった贈り物を大切にしている美雪ちゃんも、京一郎さんの望む形ではないにしろ京一郎さんのことを思っている。二人は恋人という形ではないけれど、誰にも踏み込めない固い絆がある。それがとても羨ましく感じられる。
「どうせ私は単純ですよ」美雪ちゃんは言う。でも、声音にはもうむくれた調子はなく照れ隠しだろう。
「ああ、本当に単純で助かった」京一郎さんもからかう口調で言った。
「もう! お兄ちゃん!」
京一郎さんは笑い、私も笑う。つられて美雪ちゃんも笑い出した。
「本当に仲がいいですね。羨ましい」思わず漏れた。それはお世辞でも何でもなく悲しくなるほど本音だった。
「そんなことないよ。お兄ちゃんはすぐに私のこと子ども扱いして年上ぶるし。小言ばっかり言うし」
「僕だって、小言なんて言いたくはないけど、言いたくなるような振る舞いをするから言わざるをえないだけだよ」
美雪ちゃんの抗議に京一郎さんは芝居がかったため息をつく。美雪ちゃんはむーっと声を上げる。私はそれを見てケラケラと笑った。
葵屋への帰り道。京一郎さんと並んで歩く。西日が背後から照っていて長い影が進む方向へ真っ直ぐ伸びて揺れている。
「ごめんね。美雪の面倒を見てもらって。でも助かったよ」
「いえいえ、これぐらいは。でも、元気になってよかったね」
「ああ、あれだけ達者なことが言えるようになったんだから、もう大丈夫だと思う」
安堵しながらもやれやれとくたびれたように告げるので、私は先程の二人のやりとりを思いだして可笑しくなった。私にはとても大人の振る舞いに見えるけれど、美雪ちゃんの前では子どもっぽい。それは長年一緒に過ごしてきた安心感からなのか、誰よりも大切な人の前では自然と普段と違う顔になってしまうのか。いずれにしても近しい距離にいるのは間違いない。
「……どうかした?」
「え?」
「なんだか元気がなく見える」
京一郎さんは私の顔を覗き込むように前屈みになる。私は足を止める。
「いいなぁって思って」俯くと小石が見えてポンと蹴る。ちょうど伸びた影の頭ぐらいまで転がった。
「やっぱり、私と京一郎さんは違うよ。二人の間には強い繋がりがある。でも……」
「彼と何かあったの?」
京一郎さんは少しだけ躊躇いがちな声で聞いてきた。
何かあった。否、何もなかったのだ。
墓参りから帰ってから私は気持ちが落ちていた。私と蒼紫さまの間にある思いの違いを突きつけられ、独り善がりだったと認めてから過去の全てが色褪せて感じられた。そしてさっき、二人の会話を聞きながら蘇ってきた思い出が更に私を寂しくさせた。
「私も同じようなことがあったの」
あれは私が祖父の元へ引き取られてから初めて迎えた夏のこと。祖父は忙しい身で、普段もあまり一緒にいることはなかったけれど、そんな中で時間を作り私を夏祭りに連れて行ってくれた。
賑やかな道を手を引かれて歩く。不思議と私は大人しかった。キラキラと輝く夜に飲み込まれて、繋がれた手をぎゅっと強く握りながら進む。すると、喧噪を潜り抜けるように美しい音色が聞こえた。思わず立ち止まると祖父は気づいて、
「風鈴か。涼しげな音色じゃなぁ」
目がなくなってしまうほど細めている。初めて見る笑顔だ。いつも厳しい顔をしていたから、私は祖父のことを畏れていた。でも、その時の顔はとても優しげで、私はなんだか泣きたくなった。
「どれ、一つ買って帰るか」そして薄い水色の金魚の絵柄の風鈴を買ってくれた。
私は嬉しくて、嬉しくて、風鈴を吊さずに持ち歩いた。私が歩くと綺麗な音が鳴る。どこにいるかよくわかると祖父は笑った。
だけど、お転婆だった私はそれからしばらくして駆け回っているうちに風鈴を壊してしまった。せっかく買ってもらった大切な風鈴が粉々になってしまった。
「おじいちゃん。ごめんなさい。せっかくおじいちゃんが買ってくれたのに」私は泣きながら謝った。
「泣かんでいい。お前に怪我がなくてよかった。風鈴はまた来年、あの屋台に買いに行こうな」祖父は私の頭を撫でながら続けた。
「また来年もお祭りに連れて行ってくれるの?」
「ああ、そうじゃ。来年も、再来年もじゃ。だからもう泣くな」
「……うん」
でも、祖父ともう一度お祭りへ行くことはなかった。その年の暮れ、祖父は病に倒れ、そのまま帰らぬ人になった。
「来年も一緒にお祭りに行くって約束したのに、風鈴を買ってくれるって言ったのに、うそつき!」祖父が眠る傍で私は悲しみを当たり散らした。素直に泣くことも出来ずに祖父を罵った。あーあーあーあーと意味のない言葉を吐き出しながら涙が流れ落ちる。
私が泣いていたのは本当に風鈴を買ってほしかったからではなかった。約束が守られなかったことに傷ついていたのだ。
来年もお祭りに行く――それは、私にはただの約束ではなかった。
両親を失った私は幼心に漠然とした不安を抱えていた。一人ぽっちの心許なさに怯えていた。でも祖父が私を引き取ってくれた。ああ、私は一人ではない。これからは祖父が傍にいてくれる。大丈夫だと思えた。”また来年”という一言がその証明に感じられたのだ。また、来年、これで終わりではない、この先も一緒。あの約束はそういう意味だった。
それなのに私は再び一人になった。
たった一人残されて、どうしたらいいかわからず、祖父を罵倒することしか出来ず泣き続ける。そんな私に、
「操。泣くな」蒼紫さまだった。「祭りになら俺が連れていってやる。もう泣くな」
そう言って新しい約束をしてくれた。
たぶん蒼紫さまには深い意図のない、額面通りの意味だっただろうけれど。あまりにも私が泣くから慰めにと言ってくれたのだろうけれど。私がその約束に込めた思いなど知りはしなかっただろうけど。でも私には大切な約束となった。
それからほどなく、今度は御庭番衆がお役御免となった。のんきにお祭りにいくような状況ではなくなり、結局、約束が守られることはなかった。でも、そんなことはどうでもよかった。方々を転々と旅をする間も、私は蒼紫さまとたくさんの約束をした。柔らかな朝日、高く上った眩い月、山を覆う紅葉、寒さも忘れさせる真白な雪――鮮やかな風景や印象的な景色を見ると「また一緒に見ようね」私は口にする。だから傍にいてね、と思いを込めて約束をした。私は"ずっと"が欲しかったのだ。これから先も続いていく証明を求めていた。
でも、八歳になると私はやはり一人になる。葵屋に置いていかれた。交わした約束など何の意味もなかったとばかりに――。
私の存在は先代から頼まれた大切な娘というだけで、蒼紫さま個人として特別な感情を持っているわけではない。だから、私と交わした約束など意味を持たないのだろう。きっと約束したことさえ覚えてはいない。気持ちをわかりあっていたわけではない。墓参りのことと同じ、私一人が大切なことのように覚えているだけ。それでも、天涯孤独となった私を見捨てずにいてくれたことに感謝するべきで、嘆くようなことではない。でも、
「私にとって大切な思い出が、相手にとっては何の価値もないものだって思ったら」
言葉にすると心で抱いていたときよりも強い衝撃が襲ってくる。京一郎さんと美雪ちゃんは互いに思い出を大切に覚えている。けれど、私と蒼紫さまは違う。私は蒼紫さまと交わした約束や、何気ない会話、帰り道をただ一緒に歩いたということさえ大切な記憶だけれど、蒼紫さまにとっては流れゆく時の中で忘れてしまう些細な出来事に過ぎない。私が守りたかったもの。私が願っていたもの。何もかもが粉々に散っていくような気がした。自分一人だけが後生大事にしているのかと悔しいような悲しいような愚かなものに思えた。
「それはどうかわからないよ」
私の話を聞き終えると京一郎さんは言った。静かだけど力強い。京一郎さんは時折そういう一面を覗かせる。
「思っていても出来ないことは世の中にはある。きっと、約束をしたときの気持ちに嘘なんてなかったんだって信じてもいいと僕は思うよ」
信じてもいい。一言が染み入るように響く。疑い、否定し、投げやりになりそうな気持ちを、そんなことはしなくてもいい。私が信じたい方を信じてもいいのだろうか。
気付けば視界がぼんやりと滲み涙がこぼれ落ちていた。
泣くつもりなどなかったのに、一度こぼれ落ちるととめどなく溢れ出る。だけど、それは不思議と暖かいものに思えた。悲しみがするりと安堵に姿を変えていた。
本当は蒼紫さまが私にしてくれたことへ否定的な気持ちなど持ちたくはない。それでもどうしても心がうらびれてしまって、悪い方へと向かわせる。そっちじゃないと言い聞かせても水が高いところから低いところへ流れるように、私の蒼紫さまへの思いも愛情から憎しみへと流れていく。蒼紫さまを好きでいたことを後悔はしたくなかった。蒼紫さまへの気持ちだけは綺麗なままで守り通したかった。悲しい事実を聞かされて真っ先に思ったのに――これまでの全ては幻だと恨んでしまう。だけど、
「私……自分では信じ切れなくなって……」
だから誰かに、そんなことないよと言って欲しかった。真っ黒に塗りつぶされていく思い出を止めて欲しかった。そしたら、自分一人では疑ってしまうことも、疑わなくていいと思える気がした。
「うん。そうだね。あまりにも悲しいことが起きると、全部が嫌になってしまうのは仕方ない。それだけ彼を好きだったってことだから何も恥ずかしいことじゃない。誰かをそこまで思えるってすごいことだよ。たとえ今は悲しくても、大丈夫。時が、きっと解決してくれる」
そう言うと京一郎さんは私にハンカチーフを差し出してくれた。これで涙を拭くなんて申し訳なくなるほど真っ白で綺麗なハンカチーフで私は受け取ることを戸惑った。すると、京一郎さんは笑って私の手を取り握らせてくれた。それでも私は使うことが出来ず、何も持っていない左手で目元を拭う。
「なんだか、京一郎さんの前では泣いてばっかりな気がする」
「そうかぁ……じゃあ、今度からは操ちゃん用のハンカチーフを持ち歩くことにしよう。だから遠慮なく使って」
「……私、本当はそんなに泣き虫じゃないよ」
視線をあげて隣を向く。夕日が逆行となっていたけれど京一郎さんの静かな笑みはハッキリとわかる。
この人は優しい。そして、私の気持ちを一番理解してくれる。
「でも、ありがとう」
その日、私は心の底から京一郎さんがいてくれてよかったと思った。
Copyright(c) asana All rights reserved.