お囃子が聞こえる。
今宵は夏祭りだ。遠方からも多くの人が訪れる。人混みは好まないし祭りに出向くことはないが、それでも浮かれた熱が俺の部屋にまで伝い、落ち着いて書物を読む気になれず部屋を出て廊下を通りかかれば、
「おお、良いところへ来たな。呼びに行こうとしとったんじゃ」翁に呼び止められる。
縁側に腰掛けて茶を飲んでいるが、傍には三間京一郎がいた。
そういえば三間と祭りに行くと言っていた。三日あるうちのいずれかに行くと話していたが今日だったのか。
操の夫となる男の来訪だ。家にいるなら挨拶をするべきと俺にも声をかけるつもりだったと翁はいつもの高笑いと共に言った。
三間は立ち上がって俺を見ている。人の良さそうな男だとつくづく思う。
「こんばんは」笑みとともに告げられ会釈を返した。
話すことも特にない。早々に去りたいが――出てきたばかりで踵を返すのも不自然かと考えていると、
「操の支度がまだ終わらんでな。儂もこれから出ねばならん」
相手をしろと――日頃から無愛想な男と散々言っているのだから人のもてなしなど頼むのは無謀ではないかと感じられたが翁は言い終えるとさっさと行ってしまった。取り残され仕方なく腰を下ろすと三間も座った。
「お待たせして申し訳ない」
出掛けるとわかっているのならば時間までに準備をしておくべきだ。待ちぼうけをくらわせていることへ保護者としての謝罪。しかしそれはつまらぬ優越感からでもある。操は時間に細かく俺と出掛けるとき――出掛けるといっても墓参りくらいだが――間違っても待たされることなどなかった。俺は操に気遣われ大事にされていた。操の態度の誠実さは俺に対するものが上である。そのような想い愚かと笑いたいが消えない。
「待つのは慣れてますから。僕の妹など平気で三十分、一時間は待たせます。本人曰く『女子にはいろいろ準備がある。一緒に歩くのに恥をかかさないように美しくしようとしているのだから、感謝するべきよ』なんて無茶を言います」
三間は怒るでもなく温和なままで言った。
「しかし、お忙しい時間を割いて頂いているのでしょう」
明後日には東京へ戻る。操を連れて。ただ戻るだけではない。大きな商談があると聞かされていた。それ故に、ここしばらく操は三間と出掛けることもなかった。おそらくは今も祭り見物などのんきにしている時間はないはずだ。わざわざ時間を割いてもらっているのに待たせるなど、と思い詫びれば、
「夏祭りは操さんにとって大切な思い出と聞きましたから。亡くなったおじいさんはお忙しい方で、あまり構ってもらえなかったようですが、一度だけ夏祭りへ行ったことがあると――それを聞いたら行かないわけにいきませんから」
三間の話は事実だった。
先代御頭は多忙な身で操の世話を焼く暇はなく代わりに面倒を見ていたのは俺や般若だったが一度だけ操と二人で夏祭りを見に行った。当時、少しずつ徳川幕府が傾き始めた時期であり、御頭も何かと危うい立場で、護衛にひっそりと俺もついて行った。
操の手を引いて明るい祭り場へ出向く御頭は俺の知る表情とは違い好好爺という表現がしっくりとくる。一方で操の表情は固い。御頭と二人きりということに緊張しているように見えた。しかし、ある屋台の前で足を止める。風鈴が鈴なりに吊されており様々な音を鳴らしている。御頭は一つ手に取り操に買ってやった。されば操はぱぁっと明るい顔になり微笑んだ。普段のころころと笑う朗らかな表情とはまた違うなんとも幸せそうな笑みだった。
リーンリーンリーン。
俺の記憶へ同調するように涼やかな音色が響く。縁側に吊された風鈴だ。
「風流な音色ですね」三間も反応しふっと目を細める。
「操が好きなもので」祭りに行くと必ず買ってくる。嬉しげに俺にところへ見せに来る。「毎年夜店で買ってきます」
されば三間は小さく息を吐き出すような笑みを零し、
「操さんは鶴の恩返しみたいなところがありますよね。してもらったことはいつまでも忘れず覚えている」三間に視線を移せば、風鈴を見上げている。「言ってましたよ。お祭りでおじいさんに風鈴を買ってもらったことがあると。その思い出を今も大事にしてるんでしょう」
操はそんなことまで話しているのか。否、生涯の伴侶となる相手なのだから当然といえば当然で睦まじくしているのならばよいことだ。
俺は傍にあった茶に手を伸ばす。翁のものだろうが、喉の渇きが勝り口をつけた。三間は続ける。
「その風鈴が壊れて、おじいさんも亡くなって、その時、あなたが『これからは俺が祭りに連れていってやる』と約束してくれたと。操さんにとってそれはただの約束ではなかった。約束をするということは実現するまでは傍にいてくれる。これからも一緒にいてくれる証明と――幼心に思っていたと。両親を失い、唯一の肉親となった祖父を失い、一人ぽっちで頼りない自分の手を取ってくれた。彼女にとってあなたの存在は光のようなものだったんですね。それはきっと今もでしょうけれど」
ピタリと風鈴の音が止む。否、止んだのは俺の五感の方か。聞かされた話をどのように受ければよいかわからず、感覚が静まり返る。それでも三間の声だけはいやによく聞こえる。
「操さんは幼くして悲しい別離を繰り返した。だから、大切な人がどこにも行かず、自分の傍にいてくれることがどれほどすごいことなのかよくわかっている。そして、それこそが彼女の最大の願いだったんだと思います。両親がいて、親しい人がいて、それを当たり前に生きる人もいると思えば寂しい人生とも言えますが――これからは僕がちゃんと傍にいて彼女を一人にはしませんから」
――僕では役不足かもしれませんがね。
そう続けてはにかんだように笑った。すると見計らったように、
「お待たせしました」
背後から声がかかる。俺と三間は立ち上がり振り返る。
俺は息を飲んだ。
薄い青色に紫陽花の絵柄が涼しげな浴衣の操が立っている。その顔は見慣れない。薄化粧を施す姿は幼さなど微塵もなく色香のある美しい女子である。
操は一歩歩みを進め三間の前に立った。
「どうですか?」赤い紅を指した唇で一言。恥じらいと期待をないまぜにした顔で尋ねる。仕草も声音までも日頃とは違うように感じられた。
「はい。とても綺麗です。よく似合っている。浴衣も――」三間はそっと己の頭に触れ合図を送りながら「簪も」
「ホント?」操は華やかな笑みを浮かべる。簪は先日三間に買ってもらったものだ。夕餉の折りに嬉しげに話していた。
「そうでしょう。色が白いから化粧も映えるんです」
「惚れ直しました?」
続けたのは共に出てきた近江女と増髪だ。操の支度を手伝っていたらしい。
「二人ともやめてよ」
「あら、操ちゃん。何を言ってるの、初めての"お祭りでーと"なんだから綺麗にして驚かそうと頑張ったんでしょ。ちゃんと感想を聞かないと。もっと誉めてあげて下さいね、三間さん」
「もう、お近さん! 京一郎さん、困ってるじゃない」
操は照れながら縁側に降りた。二人が並んで立つと爽やかな似合いの男女だ。それは近江女も増髪も感じているようでまた手放しに誉め出す。きゃーきゃーとかしましい様子を三間はにこにこと笑顔で見守るが、
「遅くなるから行くよ」
これ以上いてもからかわれるだけと判断してか操が切りだす。それから黙ったまま突っ立ている俺をチラリと見ると少しだけ頭を下げた。左様な振舞いも一層見知らぬ女子のようだ。
「じゃあ、行ってきます」
三間と戸口へ歩き出す。
「操。」俺は思わず呼び止めた。
「え?」操は足を止め振り返る。
薄暗い夜の中でもその顔はよく見える。艶やかな俺の知らぬ顔で不思議そうに見ている。当然だろう。俺は操を呼び止めてどうする気か。余所の男のために美しく着飾った姿へ俺が何を言うというのか。
「気をつけてな」ただ、その身の安全を。
「うん。行ってきます」
操は答えるとするりと前を向き華やかな祭りの場へ向け歩き出した。
夜が更けていくと祭り囃子は熱を増す。
操を見送り部屋に戻ると灯りも点けず畳に横になった。だらしない格好だが禅を組む気にもならない。胸の奥がじりじりと焦げる。そうであるのにひどく寒々しい。がらんどう――内側が空っぽで不気味な静けさを感じる。
暗がりの中、手を伸ばし畳を撫でる。目に添い撫でるとつるりとした手触りが、反して撫でればざらりとした感触が、同じ物でも接し方を変えれば違う物のようになる。
髪を結い、化粧をした操の姿は誰がどう見ても年頃の娘だった。恥じらうような笑みを浮かべ三間を見る表情は、見惚れるほど美しかった。つい二月前まで俺を追いかけていた姿とは別人だ。三間と接するようになって操は華開くように変貌した。俺では出来なかったことをあの男はするりとこなす。
それは外見のことばかりではない。
操が何を願っているか。何を望んでいるか。長い年月を傍にいた俺よりも、あの男の方がよく理解している。
「お祭り、行きましょうよ!」
葵屋に身を寄せて最初の夏。操は俺に言った。戻った当初こそあちこちへと誘ってきたが、その頃になるとそっとしておいた方がよいと、操が外出を促すことは減っていた。それが夏祭りへ行こうと声をかけてきたのだ。
俺は当然のように断った。外出は気が向かないし、まして華やかで人の多い場所は好まない。操は執拗に誘ってくることはなく、女衆と共に出掛けた。
帰ってくると風鈴を手にしていた。
「見て、蒼紫さま」嬉しげに揺らしてみせる。
「涼しげだな」俺は告げた。その一言も誘いを断った償いに述べたもので、それで話を終わらせるつもりだった。だが、操はなかなか俺の部屋を去ろうとはしなかった。何を言うわけでもなくりんりんと風鈴を揺らしていた。その様を奇妙に思いながら、俺は操に背を向け禅を組み始めた。考えねばならぬことがあったから――。
されど、あの時、操は思い出して欲しかったのではないか。かつて交わした約束を思い出し、俺の口から聞きたかったのではないか。
「蒼紫さま、桜を見に行きませんか」
「今日は月が綺麗だから一緒に見ましょうよ」
「今の時期は紅葉してて山を真っ赤に染めてるんだって、時間があったら行きましょう」
「京都は雪って降らないんだよね。雪が見たいなぁ」
操が季節の折々に発した言葉が思い出される。俺を外に連れ出すためのものと解釈していたが、言葉に込められたのはそれだけではなかった。
全ては遠い昔の二人で交わした約束だ。
御庭番衆がお役御免となり、操を連れて各地を転々と流れた。これからの身の振りを思えば漠然とした焦燥に襲われる。だが、部下たちにそれを悟らせまいと――気を張る俺に操が朗らかに告げる。
「桜綺麗だねぇ。もう春だ」
「見て、蒼紫さま、今夜は満月だよ」
「山が燃えてるみたいだね。すごいね」
「うわぁ、冷たい。蒼紫さま、すっごく冷たいよ。雪ってこんなに冷たいんだ」
余裕もなく世話しない毎日の中で季節の移ろいを教えてくれる。朗らかに楽しげに俺を見て笑う。そして決まって最後は「また、一緒に見ようね」と。俺はその一言に救われていた。あの混沌とした時期に、操が明るくいてくれる姿に、深い安堵を感じていた。俺にとってあの頃から操が与えてくれるものはかけがえのないものだった。
それを操もまた覚えていてくれたというのに――俺は気づかずに己の身のことばかりを考えた。操の心を気にかけることもせず、それどころか殻に閉じこもり話す機会さえ与えなかった。
大きなことを、誇れることを、何かをなさねばと、左様な思いは捨てたはずが、俺はまだどこかで執心していた。葵屋の若旦那としての人生を決めた後も、己の手で得たものではないことを後ろめたく感じていた。操が俺のいることを喜んでくれているとわかっても、それだけでは俺が承知出来なかった。傍にいるだけで、他に何も期待されていないと不服に思う。過ちを犯し、全てを失い、そんな俺でも受け入れてくれたことを有り難いと感じながらも、そんな情けない俺をよいとされることに不満を抱いた。矛盾する思い――だがそれは俺のつまらぬ矜持でしかなかった。
操が求めたものは、全く違う。
『操さんは幼なくして悲しい分かれを繰り返した。だから、大切な人がどこにも行かず、自分の傍にいてくれることがどれほどすごいことなのかよくわかっている。そして、それこそが彼女の最大の願いだったんだと思います』
三間は言った。わずか二月前に出会ったばかりの男に何がわかると思ったが、聞かされて俺は何も言えなかった。
『これからは僕がちゃんと傍にいて、彼女を一人にはしませんから』
操の傍に立ち、その手を引いて歩く。二人で並んで流れゆく風景を眺めながら、穏やかで静かな日々を過ごしていく。
俺も左様な暮らしを望んでいたのではなかったか。今度こそ間違わず生きると思ったのではなかったか。それが――いつしかまたそんなものでは駄目だと。何かをなしたいと焦り、しかし、時代が変わり武士として名を上げることも適わなく、武芸を生業にしてきた俺にはすべきことがわからなかった。
俺は操に昔の姿を、御頭として己のなすべきことを全うしていた頃の俺を、今一度見せたかった。それは見栄だ。操の前で立派にありたいとの。
――俺は、
なんと青い思いを抱いていたのか。
操のために出来ることならばあった。操が俺に望んだことは、無理難題ではなかった。しかし俺は、操の望む形ではなく、己が望む形を求めた。その結果、操の気持ちを置き去りにした。
俺は大事なことがわからぬ。いつも。大切なことを見誤る。
畳みを撫でる指を止める。だがざらついた感覚は消えない。
その夜、夢を見た。
夢だとわかる奇妙な夢で、俺はまだ年若く、江戸の屋敷にいる。広間で俺の傍には操と先代がいらっしゃった。
「蒼紫さまのお嫁さんになるの」
まだ幼い操が俺に抱きついて言った。されば先代が笑う。
「操。いくらお前が好きでも、蒼紫の気持ちもある。お前だけが好きでも夫婦にはなれんぞ」
からかうように告げた。
操は俺から身を離し、むーっとふくれて先代を見ると、
「蒼紫さまも操のこと好きだもん。だから操は蒼紫さまのお嫁さんになるんだもん」そう言うとまた俺の方を向いて、「ね、蒼紫さまも操のこと好きだもんね。そうでしょう?」
自信満々な物言いとは裏腹にその目は不安げだった。俺は返答に困っていた。いつまでも何も言わぬ俺に操はしびれを切らしてか泣き出しそうになりながら、
「蒼紫さま、操を嫌いなの?」
「いや、俺は――」
しかし、喉が開かない。
操は俺の首に巻き付いていた手を離し、真剣な眼差しでじっと俺を見ていたが、やがて諦めて背を向けて去っていく。
――操。
呼び止めようとするが、どうしてもうまく声が出ない。その間に操の姿はどんどんと離れていく。それでも俺は何も言えない。
――操。行くな。俺も、お前を……、
だが夢の中でさえも俺は肝心の言葉を言えない。黙ったままで操の姿が見えなくなる。さればたちまち周囲が色を失う。己の姿も見えぬ暗がりに覆われ闇に飲み込まれた。