帰趨

3. 新たな出会い

 その人と出会ったのは梅雨明けしたばかりの頃だった。
 私は店の前の通りに打ち水をしていた。
 本格的な夏に向けて日差しが強まっているから少しでも涼しくなるよう、けれども水たまりが出来ないよう、柄杓を振るう。太陽に照らされて水滴はキラキラと光り、やがて蒸発していくが見えなくなっても消えてしまったのとは違う。形を、変えただけだ。
 あれから、私と蒼紫さまの関係は比較的うまくいっている。と、思う。以前のように時間があれば蒼紫さまの傍へ行くことも、蒼紫さま、蒼紫さま、と積極的に話しかけることもなくなったけれど、朝起きれば挨拶をするし、時間が合えば食事も一緒に摂るし、必要があれば会話もする。蒼紫さまを避けるような態度はとっていない。蒼紫さまの方は以前の通りだ。
 しゅ、しゅと柄杓を振っていれば手桶の水がなくなる。空になった底を見ていれば永遠などなく、どこかで終わりがくるのだと思う。それは私の苦しみにも言える気がした。そんなことを考えてしまうのは、それだけまだ心に重くのしかかっている証拠でもあるが、それでも、終わりがあると信じられるようになったことは進歩だ。だから大丈夫、と大きく息を吐き出す。体を動かすのはいい。ふさぎ込んでいてはダメだ。
「よーし、終わり!」
 誰に聞かせるでもなく言いながら伸びをする。それからくるりと踵を返し葵屋に入ろうとした。――が、しばらく先の町屋の前に男女が見え、足を止めた。様子がおかしく、女の人は座り込んでいて、男の人は女の人を抱え込みながら焦ったように周囲をきょろきょろ見渡していた。ただ事ではない雰囲気を感じとり駆け寄り
「どうしたんですか?」と声をかければ、
「発作を起こして……」
 そう言うその男の人の方が倒れてしまうのではないかと不安に感じるほど蒼白だった。
 それほどひどい発作なのか。
「私の家、すぐ近くなので待っていてください。人を呼んできます」
 言い残して葵屋に戻り黒とともにもう一度彼らの処へ戻った。
 彼らはまだそこにいた。黒が発作起こす女性――というより女の子を抱えて葵屋に運んだ。
 布団を敷き寝かせる。額に汗を浮かべ苦しそうに顔を歪めている。呼吸をしづらいのか、はっ、はっ、はっ、はっ、と痙攣のように震えていた。
 医者を呼びに行こうとしたが、薬を持っていて飲めば落ち着くというので、お近さんが水を運んできてくれて、持っていた薬をゆっくり慎重に流し込んだ。
 健康だけが取り柄の私には小麦粉みたいな粉を飲むと体がよくなるというのがピンとこないけれど、薬を飲み横になっていると本当に落ち着いてくる。先ほどの苦しげな姿が嘘のように静まった。
 薬ってすごいものだな。今度、恵さんに手紙を書こうか――ふと懐かしい人の顔を浮かべたら痺れのような痛みが胸を駆け巡った。東京で、みんなで集まった桜の季節が遠い。あの頃、私は無邪気に未来を信じていた。
「呼吸も落ち着きましたし、このまま少し眠らせてあげれば良くなりそうですね」
 お近さんが女の子の額の汗を手拭いで拭いながら、規則正しい呼吸になってすやすや眠る様子にそう告げた。
「じゃあ、操ちゃん、あとはお願いね」
 私は頷いた。
 三人――といっても、女の子は眠っているので二人――残され、部屋の熱気も静まり、廊下に吊るしてある風鈴の音がよく響いてきた。私は手持無沙汰で、代えたばかりの女の子の額の手拭いを裏返した。
「すみません。僕がしますから」
 すかさず、男の人が告げた。
「あ、いいえ、平気ですよ」
「すみません」
 その人はとても低姿勢に何度もそう繰り返すので、
「そんなに謝らないでください。大事にならなくてよかったんですから」と返した。
「すみません」
 言った傍からまたその台詞。私は堪え切れず笑った。彼もつられて笑う。それでぎこちなかった空気が緩んだ。
 それから、改めて自己紹介を受ける。彼の名は三間京一郎と言い、東京で洋菓子店を経営している。京都へは出店のために訪れていた。予定地にしている場所は、隣の隣の町にあり、以前は醤油蔵があった場所だ。失火して家屋は半壊。その後、建て替えをしたが、その間に職人たちが別の店に引き抜かれてしまったとか、揉めに揉めて最終的に店を畳み、以降、空き家になっている。
「あの場所でお店を開くんですか。それは楽しみ」
「あくまで予定ですが」
 三間さんは微苦笑を持って告げた。話が難航しているのだろうことは想像がついた。西洋の品をよしとする者と、よしとしない者がいる。周辺への折り合いが難しいのだろう。
「でも、それならどうしてここへ?」
 現地の下見だとしても随分離れた場所まで来たと言える。
「実は、牛鍋屋へ行く途中だったんです」
「牛鍋?」
「はい。東京でよく行っていた店の姉妹店がこちらにあると聞いていたもので」
「それってひょっとして赤べこと白べこのこと?」
 私が告げると、三間さんは目をしばたたかせ、眉も上に引っ張り上げるように動かした。表情が豊かな人だな、とそれがなんだか新鮮に思えた。私の知っている男の人は――じいやは別にして――無表情だったり、食えぬ笑みを浮かべていたり、曲者が多いから。
「ご存じなんですね。驚きました。ひょっとして有名なんですか」
「どうだろう? おいしい牛鍋屋さんとしては有名だけど、東京と姉妹店であることを知ってる人はそんなにいないかも。私はたまたま、東京に知り合いがいて、その繋がりで教えてもらったので。あっちに遊びに行ったとき、赤べこにも連れて行ってもらいました。味が少しだけ違うんですよ。関西風と関東風で、出汁を変えているんですって」
「そうなんですか。ああ、でもそれはよくわかります。うちの店でも取り扱う菓子類を、関東と関西では少し作り方を変えた方がいいかもしれないという話をしていたりしますから」
 やはり関西と関東では味覚が少し違うのだな、と思ったら、東京で初めてうどんを食べた日のことが蘇ってきた。
 うどん出汁も関西と関東では違う。関西では鰹節と昆布でとった出汁を薄口醤油で風味づけするのに対して、関東では主に鰹節で出汁をとり濃口醤油で味を決めつゆを作るので見た目もかなり黒い。透明な黄金色の出汁に慣れていた私はびっくりした。一緒にいた薫さんも、緋村も、弥彦も、なんの躊躇いもなく食べ始めて、ここでケチをつけるわけにもいかず一口食べてみたけれど、その味にむせてしまう。
「慌てずとも、誰もお前の分はとらねぇーよ」
 弥彦は呆れた顔をして、ため息交じりに言った。
「違うわよ! 焦って食べたからむせたんじゃなくて、こんなに真っ黒なおつゆなのに思ってたよりも甘かったから、驚いただけだもん」
 私はそんな卑しくはないと反論を返せば、
「操殿は京都出身でござるから、こちらのつゆには驚くかもしれぬな」
 緋村が“ふぉろー”してくれた。その通り、かなり変な感じだった。きっと食べなれたら大丈夫なのだろうけれど、私は京都で食べていたようなうどんを頭に思い浮かべながら注文したので、口がそれになっている。なのにまったく想像していなかったうどんが出てきたものだからすんなりと食べられなかった。失敗したな、と思いながら今更別の物を注文するのももったいないし、食べるしかないよね、とうだうだと考えていれば、それまで黙っていた蒼紫さまが、すっと自分の注文した品である「盛りそば」を私のほうへ寄せて、
「こちらのほうが差異はなかろう。まだ手をつけていない」と言った。
「え……でも、私はもう食べちゃったし。悪いからいいよ」
 気にかけてもらえたことは嬉しかったが、食べさしを渡すのは――それも蒼紫さまに――躊躇われて断ったが、
「構わん」
 蒼紫さまはそう言うと、私のうどんの器を持ち上げて食べ始めてしまった。私は唖然としたけれど、我に返って小さく「ありがとう」と告げて、代えっこしてもらった盛そばを食べた。盛そばのつけ汁は蒼紫さまが言ったように、うどんほどの違いはなく食べやすくて喉をするする通った。ただ、薫さんや弥彦がにやにやと見てくるので今度は恥ずかしさでむせてしまったけれど。
「もう! お兄ちゃん。そういうときは、ご一緒しませんか? と誘うものだよ」
 思い出に囚われた心を連れ戻すように、軽やかな声が聞こえた。見れば、寝息を立てていたはずの女の子が起きて、顔だけをこちらへ向けていた。
「目が覚めていたのか」 
 三間さんは膝頭を女の子へ向けて座り直す。それに合わせて女の子がゆっくりと起き上った。額の手拭いが落ちそうになって私はそれを受け止めた。
「ありがとうございます」にっこり笑顔になると右の頬にえくぼが出来た。人懐っこい雰囲気にこちらも笑顔になる。
「せっかくの“ちゃんす”なのに、お菓子の話をはじめてそれを潰しちゃうなんて、そんなだから仕事馬鹿なんて言われちゃうんじゃない」
「お前は、散々心配をかけておきながら、何を言ってるんだ」
 三間さんは回復した様子に安堵しながら、同時に怒ったような声で言った。
「えーだって、普通はそこでお礼を兼ねてご馳走しますって言うものでしょ? そう思いませんか?」
 女の子は私に同意を求めてくる。返事に困り曖昧な笑みで返せば、
「まったく、そんなマセたことを言う前に、お前の口からキチンとした謝罪とお礼を言いなさい……申し訳ないですね。馬鹿な妹で」
「お兄ちゃん! 馬鹿な妹なんて失礼だよ」
「お前こそ、兄に向って仕事馬鹿なんてを言うな」
 ポンポンと飛び交う会話を聞きながら、この二人は兄妹だったのだと知る。私はそれを意外に感じた。
「……お二人は夫婦なのだと思ってました」
 それがそのまま言葉になっていた。妹さんが発作を起こしうずくまる身体を抱えていたときの、蒼白な、世界の終わりのような三間さんの表情。あのような顔を見せられたら二人は特別な間柄なのだと思うだろう。――否、兄妹も特別と言えば特別だろうけれど。
 私がそう言うと三間さんは、えっ、と言葉を詰まらせ、妹さんの方は大きな目をくるりとさせた。
「とても心配していたし、親密そうに見えたので、新婚旅行にでもきた若い夫婦なのかと」二人の反応に変なことを言ってしまったのかも、と焦りながら続けた。
「身体が丈夫ではないのに、京都へ着いてくることを許可したので、何かあればすべては私の責任ですから、肝を冷やして動揺してしまったのでしょう」
 三間さんはそれまでと違い、淡々と、まるで他人事のように言った。
 困らせている、という気がして、私は「そうなんですか」と返した。
 なんとなく微妙な空気になってしまったようで居心地悪くしていたら、
「それより美雪、ご挨拶を」
 三間さんは、妹さん――美雪ちゃんに告げた。
 美雪ちゃんは改まったように姿勢を正して、自己紹介してくれた。
 美しい雪と書いて美雪。その名の通り真っ白で美しい雪を思わせる透き通った肌をしている。眠る顔を見ているときは守ってあげたくなるような可愛らしい女の子という印象を受けたが、起きて話す様子はよく笑う元気な女の子で”ぎゃっぷ”を感じたが、その溌剌とした様子に私は好意を持った。