帰趨

4. 違和感―2

 空気が肌にへばりつくような気怠さがあった。梅雨が終わり、夏の厳しい日差しが照り返す。朝の、未だ涼しいはずの時分でこれなら、昼になれば更に気温が上がるだろう。蝉が喧しく鳴いている。
 葵屋へ帰り着き裏口から入り中庭から廊下へ上がれば、気づいた操が顔を出し声をかけてきた。
「蒼紫さま、あのね、緋村から文が届いているの。読み終わったら内容を教えてね」
 そう言うと、またくるりと背を向けて居間へ戻った。
 俺はしばらくその場に立っていた。
 隠し事ではなくなってから出向けば泊まることも増えたが、女は気の利くたちではない。初めこそ、起きれば朝の支度をしていたものだが、数日も過ごせばなくなった。料理が不得手であるようで、早く戻らなければお仕事に支障が出ますよ、などと急かされる。無理に作らせたうまくもない物を食べる趣味はなく、女の思惑に乗るよう屋敷へ戻る。葵屋の朝は早いので、さすれば丁度良い時間になる。皆が朝餉を摂っている。操は俺の帰宅に気づけば、ひと声かけて、朝餉を食べるかと尋ねてくる。甲斐甲斐しく俺の世話を焼こうとする姿は、あの日より前と変わりなく思えた。操が言うのだからと俺は厚顔に食事を摂った。だが今は、朝餉の誘いはおろか、おかえりなさい、の一言もなく、用件だけ、手短に告げられた。
 懐から懐中時計を取り出した。少し遅い。食べてきたと考えたのか。
 ふとこぼれるため息に、己の緊張を知る。
 俺は部屋へ戻った。机の上に一通の文が置かれている。
 これまでも、緋村から幾度か文がきたことがある。左様な場合、操はそわそわと落ち着きを失い、俺の部屋で読み終えるのをじっと待ったり、待ちきれずに後ろから覗きこんでくることもあったが、今回は、あとで教えて、と告げられただけである。にこやかな笑顔で、陽気な声で、しかし、そこにはこれまでになかった距離があった。
 物事が変わっていくのは自然の道理であるが、近頃、操の態度について、そのささやかな、気のせいとやり過ごしてしまってもよいような差異が気にかかる。女の来訪時、操が感情を露わにすることはなく、以降も、一度も俺に辛辣な振る舞いを見せなかったことが返って気詰まりを感じさせているのだ。本心を偽るのは難しい物である。まして、操は素直すぎるほど素直な娘――無理が祟りそれがじわじわと俺への態度に出てきているのではないかと。それならば、一層早くむき出しの本音をぶつけられた方がよい。そうしてくれれば俺は――俺は、何か。続く言葉を見失う。
 机の前に座り、文を開く。
 変わらずの悪筆である。
 内容は時候の挨拶から始まり、こちらに変わりはないかとの伺い、そして、本題である墓参りについて――緋村一家は毎年、雪代巴の墓参りへ京を訪れる。今年はその時期を彼岸へずらしたいとのことであった。盆の頃に、会津にいる女医・高荷恵が所要で東京を訪れることになり、家を空けるのは忍びないということらしい。更には、その頃にまた俺たちにも東京へこないかとの誘いが続いた。
 この事実を知れば、操は行きたいと言うだろう。
 春先に久々に皆で集まらぬかとの誘いを受け赴いたばかりであったが、あの時、操は随分と楽しそうであったし、帰りも別れを惜しみ涙まで浮かべていた。高荷はともかく、緋村一家は夏にこちらへ来るのだから、左程に悲しむことはなかろうと思わなくもなかった。
 操が行くとなれば、お目付け役がいる。それは俺の役割である。
 これは一つの切っ掛けになるかもしれぬ。二人きりで旅をすれば否応なく操の本音もあぶり出るだろう。良い機会である。


「操」と声をかけたのは、正午過ぎだった。
 この時間、操は店の前に打ち水をする。戻ってくる頃合いに、部屋を出て中庭へ向かえば予想した通り、手桶と柄杓をもって戻ってきたところだった。
「蒼紫さま。どうしたの? ……あっ、緋村の手紙のこと?」
 手紙と口にした途端、操の顔が綻んだ。
 とくり、と心臓が鳴る。操の屈託のない笑顔をここしばらく見ていなかったせいだろう。近頃の、操が俺に接するとき笑みは見慣れぬ笑みである。静かで、大人びた、距離のある、俺はその笑みを疎んじていた。
「お盆のことだよね。今年も例年通りくるって?」
 手桶を井戸の傍に放り出し縁側まで駆け寄ってくると、大きな目をくりくりさせながら子犬がじゃれつくように見上げてくる。
 懐かしい。そんな言葉が浮かぶ。
「時期をずらしてほしいと書かれていた」
 操はわかりやすく表情を曇らせた。
「盆の時期に、高荷恵が東京を訪れることになったそうだ。こちらへは高荷が去った後で訪れる」
「恵さんが?」
 頷けば、そっか、なら仕方ないね。せっかく東京にくるのにほったらかしてこっちにはこれないもんね。来ないわけじゃないし……と俺にと言うより自分に言い聞かせるように口にした。
 言いながらも落胆しているのは見てわかった。俺はそれを拭い去れるだろう緋村からの提案を教えた。
「東京へ来ないかと誘われている」
「え? ……あ、そうなんだ」
 操は素っ気なく述べ、俺から視線を逸らして俯いた。それは思っていた反応とは全く違っていた。喜ぶに違いないと思い、他の言動など考えもつかなかったせいか、俺は面食らった。
「乗り気ではないのか」
「乗り気じゃないというか……」
 操らしくなく歯切れが悪い。曖昧な態度に右目の奥がちかちかと痛み、腹の辺りがまがまがとし息苦しい。
「行きたくないのなら別に良い」
 言い捨て、背を向けて部屋に戻る。途中、操が引き留めてくるかと思ったがそれもなく、小さな声で「ごめんなさい。」と聞こえた。謝罪は、行きたくないという肯定である。
 行きたくないのか。
 胸中で繰り返せば腹に合ったまがまがしきものが、すっと冷えた。その後は、女を送り届け戻った後で操が俺に向けてきた笑顔を見たときと同質の、ざわついた得体のしれない胸騒ぎが押し寄せてくる。
 俺の身に、否、心に、何かが起きている。だがそれは知ってはならぬものであると危機を回避する直感が告げていた。戦いの中で鋭利に研ぎ澄まされた神経が知らせる第六感であるはずが、何故今俺に警笛を告げるのか。わからぬ。わからぬが、俺はその通り、何も考えぬように禅を組んだ。