帰趨

5. 秘密の共有

 新風が吹きこむような、というのはまさにこういうことなのだろう。
 三間兄妹を助けた翌日、お礼にと二人は再び葵屋を訪れた。その時に、是非、今度家に遊びに来てほしいと誘われる。京一郎さんが仕事をしている間、美雪ちゃんは退屈らしく、かなり熱心に。店の仕事もあるし、じゃあ、次の休みにお伺いしますね、と私は返したが、ぼんやりしていることが多いことを気にかけてくれていた店のみんなに後押しされ、その日のうちにお邪魔することになった。
 それが私に劇的な効果をもたらすなど思いもしなかった。
 彼らが仮暮らしをしているのは外国人の貿易商が暮らしていたという洋館だ。玄関扉を入れば深紅の絨毯が敷かれてあるのが目につく。傍にある階段の一段、一段にもそれは敷かれていた。目立たない場所に幅を取らないよう作られている日本家屋の物とは違い、堂々とし階段そのものが一つの美術品のような厳かさを感じた。部屋も、障子や襖を開けきってしまえば一間になるような作りとは違い、一部屋が完全な壁で取り囲まれ独立していた。
 物珍しいのは家屋や家具だけではない。おしゃべりをして過ごすだけではなくて、簡単な洋菓子を作らないかと誘われ挑戦した。お店で売られているのだから、誰かが作っているのだけれど、それでも洋菓子を作る工程など初めて見て、こうして人が作っているのだぁと感動し、しかも自分でも作業を手伝わせてもらえたことに興奮した。
 知らなかったことを知ることは楽しい。出来なかったこと出来るようになることも。
 ああ、そうだ。私はこうして自分の手で、足で、いろいろなことを見たり、聞いたり、触れたりするのが好きだったのだと消え去っていた好奇心が蘇ってくる。キラリ、キラリ、とまっさらで未知な世界がまだまだあり、それに気づくことを待っていたように、三間家で過ごす間、気づけば考えている出来事や暗い気持ちを忘れ集中できた。私はそれが嬉しくて度々三間家を訪れている。


「じゃあ、またね」
「また、きっと来てね」
 帰り際、美雪ちゃんはぎゅっと私の手を握る。その手はとても暖かい。私も握り返して、また、と次の約束を口にして別れる。
 三間家からの帰り道は京一郎さんが送ってくれる。一人で大丈夫と言っても「女の子を一人で帰すわけにいかないよ」と許してくれない。
 私は少し困った。たぶん、きっと、京一郎さんより私の方が強い。美雪ちゃんのような可愛らしい女の子とは違う。なんだか申し訳ないような気がして正直に告げると、京一郎さんは言った。
「操さんが武芸をしているかどうかなんて一瞬見てもわからないだろう? そしたら、変な男が近寄ってきて危ない目に遭うかもしれない。そういう危険な状況にならない方がいい」
 戦って勝てたとしても、戦うという状況になることがそもそも問題なのだと言われればそれ以上反対できなかった。
「京一郎さんて面白いですね」
 私は感心した。そんなことを言われたのは初めてだ。
「じゃあ、僕が送ることを許可してもらえるってことだね」
「はい。お願いします」
 それから京一郎さんに送ってもらうようになった。
 三間家から葵屋までのんびり歩くと三十分はかかる。その道のりで私たちはさまざまな話をした。
 京一郎さんはけしておしゃべりではないけれど、無口でもない。私が話せば相槌を打ちときどき質問を挟み会話を膨らませ、時には自分からも話題を提供してくれる。冗談を言ったり、おどけてみせたり、私を楽しまそうとしてくれているのだとわかる。それもまた、私には新鮮だった。蒼紫さまといるときはいつも私が一方的に話をするだけだったから、男の人と会話らしい会話をしたのは初めてかもしれない。それは、少しこそばゆくて、けれど気持ちを緩ませてくれるものだった。
 そうして過ごすうち、彼らの複雑な事情を知り始める。
 京一郎さんと美雪ちゃんは本物の兄妹ではない。京一郎さんの父親の妹が美雪ちゃんの母――つまり二人は従兄妹になる。
 美雪ちゃんが幼い頃、ご両親が相次いで他界し三間家に養女として引きとられたそうだ。産まれつき身体が弱く、養女ということで肩身の狭い思いでいた美雪ちゃんを人一倍気にかけて面倒を見たのが京一郎さんだった。そのせいか美雪ちゃんはお兄ちゃん子でそれは今も続いている。今回の関西訪問も身体のことを考えれば無理をさせたくなかったというのが京一郎さんの本音だ。けれど、どうしても行くと泣かれては強く反対もできず、東京で一人置いておくよりは安心かと連れてきた。
 まるで、どこかで聞いた関係だと思った。
 同時に京一郎さんの態度にしばしば感じていた違和感の正体を私は知ってしまった。
「いつも来てもらってごめんね」
 三間家を出てしばらくすると京一郎さんは申し訳なさそうに言う。毎回、そう言って謝罪する。私はいつも「そんなことないですよ。私も楽しいですから」と返すがこの日は違った。
「いいえ、私も家にいたくないし、美雪ちゃんと話していると悲しいことを忘れていられるから」
 言ってから、どうしてそのようなことを告げたのか自分でもびっくりした。
 ずっと誰かに言いたかったのかもしれない。言えずにいたことを、京一郎さんになら言える気がした。
「……家の人とうまくいっていないの?」
 京一郎さんは慎重に言葉を選ぶようにゆっくりとした口調で躊躇いがちに言った。
 思い出すのは先日、緋村からの文が届いたときのことだ。
 毎年、緋村一家はお盆になれば雪代巴さんのお墓参りのため京都へ来るが、今年はその時期に恵さんが東京を訪れるらしく、日程をずらしたいということだった。それから、私たちにも東京へこないかと誘ってくれた。春先に久しぶりに集まったばかりだったが、こうして会える時に会っておかなければ、次はいつになるかわからない。そういうことなのだろう。緋村からの誘いは嬉しいものだった。でも、蒼紫さまから告げられ、私は素直に行きたいといえなかった。東京へ、二人で向かうことに強い躊躇いを感じたのだ。これまで二度、東京まで向かったことがあるけれど、あの時とは状況が違う。少なくとも私は、無邪気に喜ぶことができず、言葉を濁してしまった。蒼紫さまはそれを敏感に察し、話を切り上げられた。私の態度に怒っているように感じられた。その様子に焦りを感じたが、どうしたって二人で旅をするなんて無理で追いかけることが出来なかった。むしろ、蒼紫さまは今でも平然と私と旅をすることが出来るのだということが私の心を重くした。蒼紫さまのまったく変わらぬ態度に。
「いえ、変な気を遣わせてしまってすみません。うまくいっていないというか……私、一緒に暮らしている人の中に好きな人がいるんですけど、その人は別の人を好きになったんです。みんな、そのことを知ってるから色々、あって」
 言ってから、私は立ち止まった。別の人を好きに――音にすると襲われる胸の痛みに一歩も歩けなくなってしまった。
 京一郎さんは私の異変に気付き、同じように止まった。
 後ろから賑やかな声が聞こえてくる。子どもが三人駆けてきて私たちを追い越して行った。先頭を走る子の右手には真っ赤な風車が握られていてカラカラカラとよく回っている。子どもたちはどんどん先へ進みやがて二つ先の路地を曲がって見えなくなった。わっと騒がしくなったのがすっと静まったせいで不気味なほど空気が張り詰めた。
 私は我に返り、こんなこと言われても困らせるだけだと浮かされたように口にした先程の言葉が急に恥ずかしくなった。
「よければ、話してくれないか」
 だが、私の躊躇を他所に、京一郎さんは言った。唇を緩く開き、目じりも下げて、笑顔の形をしているのに、その表情は寂れて見えた。
「ごめん。実は僕の方が先に知ったんだ」
 京一郎さんは続けた。
「……どういう意味ですか」
「気付いているんだろう? 僕が美雪を……」
 ごくんと、唾を飲み込めば、その音がやけに大きく聞こえた。
 私は返す言葉を考えるが、適切なものが浮かばなかった。
 気づいていた。彼が秘密にしてきたであろうことが、私にはわかってしまった。それでつい自分の秘密も打ち明けたくなったのだが、今になってそれは繊細な場所へ土足で踏み込むとんでもない過ちだったのではないかと恐ろしくなっていた。
「失礼ながら、少し調べさせてもらった。操さんのこと」
 黙ったままの私に続けた。
「調べる?」
 京一郎さんはもう一度、ごめん、と謝罪した。
 三間の家は関東では名の知れた名家であり、よからぬ企てをする者が近寄ってくることも多く、付き合う相手の素性を調べることを怠れない。まして"大事な妹"の友人となる者の身を調べるのは正当なこと。私のことも葵屋のことも調べたと言う。
「こんなこと聞かされて、いい気分はしないと思うけれど」
 確かに素性を調べられていい気分はしないが、怒ることが出来ず首を振った。
「そっか。なんだ。知ってたんだ」
「ごめん」
「……別に隠してることじゃないし。というか、ほとんど近所の人みんな知ってることだし。ホント、こんなことになるなんてわかってたら誰にも言わずにこっそり思ってたのに。なんかもう針のむしろって感じで、参っちゃってるんですよ」
 口に出すと、ああ、私は辛かったんだ、と思った。辛さよりも、悲しさよりも、ちゃんとしないと、しっかりしないと、みんなを困らせてはいけないと気を張ることに忙しくて傍にある悲しみを無視していた。捕まってしまったら二度と這いあがれない奈落へ引き摺り込まれそうで恐ろしかったし、そうすることが正しいと思った。でも、本当は――。
 私は手で目を覆った。何も見たくなかった。
 少しも疑わず、蒼紫さまと一緒になれると信じ切っていた自分も、それが叶わなくなった自分も、何もかも。
「秘密にしているのも、それはそれで辛いけれどね」
 京一郎さんは言った。