帰趨

6. 鉢合わせ

 部屋を出て廊下を渡り中庭へ、そこから裏口へ向かう。
 先日の、緋村より文が届いてから調子が悪く、女を抱く気にもならず、されば出向く意味もないが、屋敷にいても解消されるわけではなく、寺へ赴いて禅を組み過ごしていた。精神を集中していれば五日もせぬうちに鎮まっていき、あの落ち着かぬざわつきは、毎年の梅雨の時期にかかる気塞ぎがいささか強くでたのであろうと解釈した。
 気が鎮まれば、女の元へ通うのが億劫ではなくなり日々の通いを再開し、その日は昼からの予定が前倒しになり早めに手隙になったので夕刻前に葵屋を出て女のところへ出かけることにした。
 井戸の傍を通りすぎれば、葵屋で暮らし始めた当初のことが不意に思い出された。禅寺へ通う為にひっそりと部屋をでれば、何処かで見ていたのかと驚くほど毎回操が姿を見せて見送ってくれたことが遠い昔のことのようである。もうあのようなことはないのだろうか。否、流石に女の処へ向かう見送りなどされれば俺とて後ろめたい。
 何か手土産でも買っていくか。――賑やかな通りに出れば脳裏をよぎる。
 女は荒ぶっていた時期の俺の素っ気なさをチクリチクリと咎め始めたので、その機嫌取りである。最もその咎めも可愛い小言程度で、寂しかったと甘えてくる姿が欲望を煽る。気が乗らぬと遠ざけていた分も割り増しになっているのかもしれぬ。調子のよさを多少自分でも呆れながら、女の機嫌をとるのも一興だ。左様な真似をするようになった平穏な日々を、市井の、何処にでもいる男のような振る舞いは、俺が経験してこなかったものである。
 甘い物がよいか。
 通りかかった甘味屋で足を止めた。すると、その店から見知った姿が出てくる。
「操。」
 先に気付いたのは俺で自然と声をかけた。
 操は出口の前に立ったまま、大きな目を見開いた。その表情は困っているような、驚いているような、なんともいい難いものに見えた。
 この時間、俺が店を出る理由を操は知っている。操の気持ちを考えれば知らぬ顔をして去るべきだったか。
「お待たせしました。操さん」
 何か言わねばと思っていれば店から男が出てきた。俺の存在に気付くと操をかばうような位置に立つ。
――なんだ、この男は。
 明らかに、俺を不審者として警戒しているようである。連れの女が得体のしれぬ男に絡まれていれば守るのは当然であるが、しかし、俺が操の害であるように見られるとは――俺こそが男を不審してしかるべきである。
「操。」
 俺は操に説明を求める。男も操を振り返る。
 二人の視線を浴び、ああ、と小さな声を漏らし、
「あの、えっと、三間さんです。いろいろとお世話になってます」と俺に告げた後で「こちらは同じ屋敷に暮らしてる四乃森蒼紫さんです」
 続いて男に俺を紹介した。
「三間と申します」
 三間という男はに警戒心を解き、こやかな笑みを浮かべ頭を下げた。
 その動作から、武士の出ではないとわかる。商人であろう。
「操が、面倒をかけているようで」
 俺も一応の挨拶をするが、
「お前は嫁入り前の身だ。妙な噂を立てられる真似はするな」
 操に向けて続けた。自ずと声音が厳しくなる。
「妙な噂を立てられる真似なんてしてないよ!」
 すぐさま飛んできた声に、おそらくそれが真実だろうとは思う。万一、男と左様な関係であれば口籠るはずである。とはいえ、そういう関係でないからと済む問題ではない。
「お前は世間を知らん。人はそのようには見ない。男と二人で出かけるなどあらぬ噂を立てられてはどうする。評判に傷がついてからでは遅い」
「そんな! 京一郎さんにも失礼だよ」
 確かに俺の物言いは三間という男に対して不遜であるが、全ては操のためである。先の約束をしたわけでもない男と二人でいれば、意地の悪い者に如何様なことを言われるか。そうでなくとも甚平など着て足を出して男どもの噂になっていた時期があった。年頃になったのだからやめろと再三言ってきかせ、左様な状態では嫁の貰い手もなくなると叱りつけたが――じゃあ、蒼紫さまのがお嫁にして――などと笑う。評判の悪い娘など俺とて嫁にはせんと言ってようやく着なくなり左様な噂も立ち消えたが、また悪い評判が立っては大事になる。それを男にもわからせておかねばならぬ故に、不遜であろうがわざわざ口にしたのだ。そうであるのに俺の言葉を非難し男を庇うとは。何より、
――キョウイチロウさん
 親しげに名を呼んだ。「三間さん」と紹介しながら感情的になったら名を。咄嗟のときに出るのが普段遣いの言葉である。されば操はこの男を名で呼んでいる。そんなことを言えば男の方も操を名で呼んでいる。それが何だというのか。緋村も、その弟子の明神弥彦など操と呼び捨てにするではないか。別に対したことではない。そうであるのに小骨が喉に刺さったような引っ掛かりを覚える。
「すみません」
 俺と操のやりとりに三間という男が割り入ってきた。
「操さんは僕の妹と親しくしていただいている縁なんです。妹は体が弱くて、屋敷に遊びにきてくださる帰りを僕が送っているんです。今日は暑かったので、少しお茶をしていこうかと。僕の配慮が足りませんでした」
「京一郎さんが謝ることなんてないよ。親切に送ってくれてるだけなんだから。こっちがお礼をいうべきなのに」
 操は依然と男を庇い、不愉快気に俺を睨みつけてくる。
 日が未だ高く、灼熱が身を焦がし、じりじりと奥歯を噛む。
「……左様な知り合いが出来たなど、聞いておらん」
 俺は告げた。これまで、何事かあれば必ず俺に話してきた。些細なことも全て。
「だって……話す時間もなかったじゃない。それに、私だってもう立派な大人なんだし、何から何まで話す必要ないでしょ」
 言う通り、俺は時間があれば女の処におり以前のように操と二人で時間を持つことはなくなっていたが……話そうと思えば話せるはずである。それに日々のあれこれはよいとしても、対人関係は別であろう。言ってくるべきではないか。――否、俺の非か。操との距離が出来ていることを自覚していたのなら尚更に注意をしておくべきだったか。操は人を見る目はあるとは思うが初心なところがある。まして今は傷心でありそれに漬け込むような狡猾な男に出くわさんとも限らぬ。考慮し目を光らせておく必要があったのに、東京行を断られて以降、今はそっとしておいた方がよいとそればかり思い考え及ばなかったとは、まったくの迂闊であった。
「……もういいでしょ。行こう、京一郎さん」
 操は怒りを解いてため息交じりに告げた。
 何が良いものか。誤解されぬように男と二人でいるなと言っているのに、まだわかっていないようである。
 話の分からぬ者を相手にするのはくたびれる。俺もまたため息を吐き、なんといえば理解するかと思案するが……チラチラと行きかう者がこちらを見ているのに気付く。周囲を見渡せば妙な注目を浴びている。これこそ操の評判に傷が付くというもの。俺は言葉を飲む。
 操は物言わぬ俺を納得したと解釈したのか三間に視線を送った。三間はそれをするりと受けて頷き、
「では僕らはこれで」
 そう言うと二人に背を向けられる。
 右のこめかみに強い痛みが走る。目の奥から火花が散ったような痛みである。眉へを寄せればそれは静まるが。
「待て」
 ようやく声が出た。
 操は振り返った。その顔にはありありと未だ何かあるのかと書かれてある。
「俺が送ろう」
 譲歩策である。俺であれば誰も何も誤解などしない。俺と操がともに葵屋で暮らすことは皆が知っている。操と二人でいることを妙には思われぬ。後は帰る道すがら言って聞かせればよい。
「いきなり何? 京一郎さんに送ってもらいうからいいよ。というか、蒼紫さま出かけるところだったんでしょ」 
 だが、操は眉根を寄せて嫌な物を見るようにし俺の申し出を拒否した。
 その態度に正直怯む。操から、左様な振る舞いを、俺を厭うような素振りをとられたことはなかった。それでも、
「これ以上、誤解される振る舞いをするな」
 俺は操を先代から頼まれた身である。それは果たさねばなるまいと告げた。
「まだそんなこと言ってるの? 今時、男の人と二人で歩いてたからって誰もなんとも思わないよ」
 操は怒りというより呆れたように言った。
 そして、俺を無視し歩き出す。
――操。
 その態度に、ひとたび呼び止めようとしたがうまくいかぬ。その内に鎮まっていたはずの右目が火花を散らす。両目を強くつぶり力を込めれば落ち着くが、目を開けた時には既に二人の姿は見えなくなっていた。
 あまりのことに立ち尽くしておれば、出入り口で何をしているのかと甘味屋の者が怪しんできた。俺は気まり悪く適当に菓子を包んでくれるように告げた。