帰趨
7. 予期せぬ申し出
偶然とは恐ろしい。三間家からの帰り道、京一郎さんと甘味屋から出てくるとバッタリと蒼紫さまと出くわした。
婚儀前の娘がフラフラと男と二人で出掛けるなど、あらぬ噂を立てられぬ真似をするなと詰め寄られ、心配をしてくれているのだと思っても嫌な気持ちになった。
とぼとぼと歩きながら、どうしてこんな風になってしまったのか、情けなくてため息が出る。
じいやたちには三間家との交流について話をしているが(というか三間家訪問の誘いに最初に賛成し、行ってきなさいと後押ししてくれたのはじいやだたちだ)、蒼紫さまには言っていないのが悪かったのかも。……思えば三間家に行くときに限り蒼紫さまも不在で話す機会がなかった。家にいても以前のように蒼紫さまの部屋を訪れ一日の出来事を報告するということもやめてしまていたし。
女の人を連れてきた日から、私は蒼紫さまの部屋へ一歩も入っていない。
蒼紫さまも、店のみんなも、振られたから近づかなくなったのだと思っているだろう。たしかにそれも一因だが一番の理由は別にある。入ったら最後、そこでなされていたことが否応なく、艶めかしく、私を切り裂くだろうと怖かったのだ。
あの部屋で蒼紫さまと女の人が何をしていたか、私は知っている。
時間が経過するほど、私はあの部屋でなされていた出来事よりも、あの部屋でなしていたという事実に傷ついていた。万が一に店の誰か――私に見られる可能性があるのに蒼紫さまはそれを考えなかったということに。否、考えたかもしれないが、そんなことはどうでもよかったのだ。私を傷つけたくないとの思いよりこの人を欲しいと思う方が勝った。今すぐ抱かねば我慢できぬほど惚れている。
思い出したくもない記憶を避けるよう、蒼紫さまの部屋を訪れて日常のあれこれを報告するという、長い間続けてきたことをやめた。私から傍に寄っていかなければ蒼紫さまとの時間はあっけないほど持てなくなり、私が三間家へ出入りしていることも言う機会がなかった。
「……すみません。出過ぎた真似をしましたか?」
「え?」
隣を歩く京一郎さんを見ると寂しげに笑っていた。
秘密を共有してから、三間家の帰りにお茶をするようになった。”そのこと”を互いに口にすることはなかったが、一緒にいると不思議とイガイガした心が丸くなるように思えた。同じような状況にいるからだけではなく、京一郎さんのもつ柔らかな雰囲気が居心地よかった。私に気を使ってくれている。人から気を使われると悪いような気がするのに、京一郎さんのそれはとても落ち着く。
「京一郎さんが謝まることは何もないじゃないですか。それよりも不愉快な目に遭わせて、私の方こそ謝るべきなのに、自分のことばかりに集中して……ごめんなさい」
身勝手な態度を謝罪すると京一郎さんはふわりと微笑んでくれた。その顔を見ると今度は安堵の息を吐いた。
「彼は操さんのことを大事に思っているんですね」
「……私のことは祖父から頼まれてますから」
「おじい様は、確か武芸を生業にされていたんだったね」
私は頷いた。
「蒼紫さまは祖父の弟子で、病床で私のことを頼まれたんです。――義理固い人だから今もその言葉に縛られているんですよ。蒼紫さまにとっていつまでも世話の焼ける妹ってことなんでしょうけど……私はもう子どもじゃないのに」
ほんの少しでも、私のことを異性として意識してくれていたなら、気持ちに応えられない後ろめたさや申し訳なさでぎくしゃくとした態度になっただろう。けれど、好きな人が出来たと告げられてからも、蒼紫さまは何も変わらず堂々として、保護者として私の面倒を見なければとの意識を持ち続けている。そのことが私をたまらなく悲しい気持ちへ突き落とした。私に対する感情に"色恋"を僅かも含んでいなかったことの証明だと感じられた。幼き頃から知る者への情を持ってはいるけれど、特別な女として見られているわけではない。
他の女性に思いを寄せていることよりも、他の女性へ思いを寄せたことで私への思いがいかなものだったか浮き彫りになったことの方が私を傷つけた。何もなければ、そんな違いを見せつけられはしなかった。だからこそ、私はこれまで相手にされていなくても蒼紫さまを好きでいられた。だけど今は――。
「いっそう冷たくされた方がいいって、そう思うのは贅沢ですかね」ポロリとそんな愚痴が零れた。
振られた者と振った者はすべての関わりを断つとの決まりがあればいい。だけど現実は厳しい。男女としての関わりだけが世の中に存在するわけではなく、私と蒼紫さまは葵屋で暮らす家族でもある。蒼紫さまが私を家族として認めてくれ、接してくれるのに、私が拒否すれば蒼紫さまは葵屋に居づらくなるだろう。自分の思いが報われなかったからと、蒼紫さまの安息の場所を奪う真似は出来ない。
私は蒼紫さまに幸せになって欲しい。その気持ちに今も嘘はなかった。でも、蒼紫さまの顔を見ると真っ黒で苦々しい気持ちが膨れ上がり嫌な態度をとりそうになることも本当で、このままでは私はどうにかなってしまう。共存できない思いを抱え、何処にも行けず、右往左往するばかりだ。
「いいえ、彼は操さんを大事にしているでしょうけど、それを操さんが望んでいないのであれば、残酷な振舞いだと気付くべきです。いつか、ずっと先に、時が流れてしまえばまた自然な形で関わりを持てるかもしれないが、今の操さんにとってはこの状況は酷です」
京一郎さんはけして強い口調ではなかったけれど、ハッキリと言い切った。
その言葉に、私の内にある我慢してきた感情が揺らめいていくのを感じた。
蒼紫さまから悲しい言葉を聞かされても、蒼紫さまが女の人を連れてきても、部屋で交わしていた睦事を知ってしまっても、私は泣かなかった。ずっと泣いていなかった。泣かないと決めていたわけではなかったのに涙が流れずにいた。認めなくてはと思いながらもあまりにも受け入れがたい出来事を最後のところで拒否し続けていたのか、私が落ち込めば周囲を心配させると強がっていたのか、たぶん、その両方。泣いてしまえばもう本当に終わりだと怖かったのだ。だけど、
「すみません」
声が震える。
涙が零れ落ちる。
京一郎さんは突然泣き出した私に驚くことも困ることもしなかった。
「我慢せず泣いた方がいい。泣けるとき泣かないと泣けなくなりますよ」
それは京一郎さん自身のことを言っているのかもしれないと思った。
この人の傍でなら私は素直に泣くことが出来る。その事実に状況は少しも変わらないというのに私は元気づけられる。わかってくれる人がいる、そのことが有難かった。
私はかすかに笑った。すると、道の真ん中で泣いていたことが急激に恥ずかしくなり、顔をはたいて、行きましょう、と先を促した。
一歩、二歩、三歩歩いて、ふと京一郎さんが立ち止まったままであると気付く。振り返ると、やはり立ち止まったままだった。どうしたんですか、と唇を開いたら、
「僕と結婚しないか」
恐ろしいほどの真っ直ぐな声だった。
「どうしたんですか、突然」
予想もしなかった申し出に、冗談を言って笑わそうとしているのかと思えたが、冗談で口にするような内容ではない。何より、思い詰めたような京一郎さんの表情が、その台詞の真剣さを物語っていた。
「ずっと、考えていたことなんだ。……話したと思うけれど、僕は三間の嫡男だから家を継ぐ子が必要だ。父も、祖父も、子を産ませるためだけに愛してもいない、家柄の良い女性を娶った。そして、僕にも望んでいる。――それが名家に生まれた者の宿命だと、昔から愛や恋などより利を優先し、好いた女は外で囲う。そうして家を守ってきたんだ。言いかえれば、嫁にした女性の幸せと引き換えにしてきた。僕は悲しむ祖母や母の姿を見てきたから、自分はそのような振舞いはしない。本当に心から愛する人と夫婦となると決めていた、だけど」
京一郎さんはそこで言葉を切った。
愛した人は妹だった。
「でも、あなたたちなら夫婦になれる」
従兄妹同士の婚儀は法律上、認められている。
京一郎さんは叶わぬ思いを抱いているといえ、美雪ちゃんに他の相手がいるわけではない。私のように木っ端みじんに敗れたわけではない。
「法律上はね」京一郎さんは表情を崩し静かに告げた。その目は遠い。「だが、あの子は僕を兄として慕っているだけだ。それに子どもが産めない。出産に耐えられる体ではない」
結局、京一郎さんもまた自分はしないと決めていた政略婚をしなければならない。
京一郎さんは諦めたような寂しげな表情から強い眼差しに戻り私を捕らえた。
「ここしばらく操さんと過ごして、僕は操さんとなら一緒に暮らしていけると思えた。情熱的な気持ちを抱くことはないだろうけど、家族として幸せになれると。でも、それは僕の勝手な考えだし、そんなことで結婚してほしいなんて言えないって思っていたけれど――操さんにとって今の環境は辛いものなら、それなら、僕と結婚した方が心穏やかにいられるんじゃないかと思った。僕は、女性としての一番の愛情を操さんへ持つことは出来ないが、その他のすべてを、僕の持てるすべてで、誠実に向かい合ううと誓います。僕と夫婦になってもらえませんか」
互いの心の深くに別の人がいて、それが永遠に消えることはないと知りながら、そのことを悲しむのではなく、責めるのでもなく、互いに秘密を共有し、静かに、穏やかに、そして幸せになろうと、そんな道化のような振舞いを――でも、私の心は強く揺れる。
きっと私はあの人を忘れることなどないだろう。これまでの人生をかけて思い続けてきた相手を忘れるなんて。それを許してくれる。叶わなかった思い抱き続けることをよしとしてくれる。この人の前でだけは強がることもなく、本当の心でいられる。寂しい心を寄り添わせて幸せになれる。
「返事は急がないですから、考えてみてください」
私はしばらくぼんやりと京一郎さんの顔を眺めた。
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