帰趨

8. 操の決意

 徳川慶喜公の江戸城無血開城を知らされた時は血が逆流するように湧いたが、その話を聞かされたときしばし意味を理解できなかった。女の処から戻った俺に、翁は話があると神妙な顔つきで部屋に入ってき、左様な雰囲気を見せるなど、当然、俺と女のことについてなのだろうと思い、それも咎めの類であるに違いないと思っていた為、余計に混乱したのかもしれぬ。
 眼球が渇き左右に動かすが鈍い。
「操が嫁ぐことを決めた」
 翁が繰り返す。
 二度目のそれに、言葉だけはようやく飲み込めたが、青天の霹靂である。
「操には婿養子をとって店を継がせるつもりじゃったが、嫁に行くと言うてな。お前がおるし、店は安泰だからよいだろうと。操がそれで構わんなら、儂らも構わんと了承した。お前に葵屋を任す。よいな」
 それだけ言うと、翁は去った。
 部屋に残され、俺は懐手をした。手の先に痺れを感じた。
 風に乗って風鈴の音が耳に届く。
 俺は店を手にすることとなったのか。
「私も幸せになるから、蒼紫さまにも幸せになってほしい」と操はたしかにそうは言っていたが、葵屋を継ぐのが俺の幸せとでも言ったのか。その頼みを翁は無碍にできず俺の全てを託すと――翁は操に甘い。否、考えるべきは左様なことではない。
 操が、嫁ぐ。俺ではない男のところへ。
 年頃の娘だ。いずれは嫁に行き、子を産み家庭を持つ。ごく当たり前のことであり、俺が望んだことでもある。幼い操を葵屋に預けたのも、操に普通の男と普通の幸せを掴んでほしいと考えてのこと。その長年の願いがようやく成就する。喜んでしかるべきだろう。
 しかし、話を聞かされて俺の心に浮かぶのは全く違う感情だった。
 俺に女が出来たと告げて二月も経過していない。変わり身の早さを不審する。
 操が俺を思っていた年月は長い。その間、八年という長き空白が存在している。会うことはおろか文の一つもない状態でさえ操は俺を思うことをやめず、日本全国を幼い女子の身で探し回ったくらいなのだ。それがころりと他の男との婚儀を決めた。あまりにも早すぎる。俺への当てつけか或いは自暴自棄になって決めたのではないか。疑念が生じる。疑念というより、どう考えてもそうである。
 ならば辞めさせねばならん。正常な判断が出来ておらぬならば、諭して聞かせてやるべきだ。翁とてそれくらいはわかりそうなものを、何故、あっさりと認めてしまったのか。
 ……翁が見合いでもさせたのか。それならば反対せぬのも理解できるが、そうであれ話が急すぎるのではないか。婚儀は女子の生涯において重要なことである。じっくりと吟味すべき事柄である。それをかように早く進めるなど尋常ではない。
 なんとしても思い留めさせねば。
 己のすべきことが見えれば、体が動くが――立ち上がったらくらりと眩暈を覚える。立ちくらみなど、幾多の死闘を潜り抜けても起きたことなどなかったというに、無謀な話に血の巡りが悪くなったせいか。この平穏な日常で見舞われるなど思ってもみないが、悠長に休む気にはならず、とかく、話をと操を探すがこんな時に限って姿が見えぬ。部屋にも、店にもいない。急ぎ用があるので知らぬかと廊下を行く近江女へ尋ねたが、出掛けている、と教えられる。何処へ、誰と――浮かんだ疑問を飲み込み、戻れば俺の部屋に来るよう言伝を頼んだ。 

*

「操ちゃん、蒼紫様が話があるから部屋にくるようにって」
 外出から戻り店の手伝いをしようとしたら、お近さんが言った。
「……わかった。ありがとう」
 返事をしながら、私は動揺を隠しきれなかった。
 三間さんからの結婚の申し込みを受けることにしたとじいやに話したのは一昨日だった。初めは驚き、そして心配した。――私が自棄を起こしたのではないかと。まさか、いくらなんでも自棄で婚儀なんてしないよ、と笑ったら、そうか、と頷きそれ以上反対はしなかった。白と黒、それからお近さんとお増さんも似たような反応だったが、最後はみんな祝福してくれた。ただ、蒼紫さまにだけは打ち明けられずにいた。茶店で鉢合わせしたときの三間さんへの微妙な空気を思い出せば、切り出しにくいというか……そんな私の心情を察したのか、じいやから話をすると言ってくれた。筋を通さないことを嫌う人だから、私の口から言うべきなのはわかるが、どのような反応をされるか――手放しに喜ばれるのも、みんなと同じように自棄になっていると疑われるのもどちらも見たくはない。結局、私はじいやにお願いすることにし、今朝、蒼紫さまが戻ってきたら話をする、と聞かされ、終わるまでわざと外出していたのだ。
「一緒についていこうか?」
 お近さんが言った。
 蒼紫さまと二人きりになるのがつらいのではないかとの配慮だ。
「……えっと、平気。」
「そう?」
「うん……あっ、だけど、一つだけ……客間にいるからって伝えてもらってもいい?」
「それは構わないけど」
 私の願いに、お近さんは不思議な顔をした。何故、客間なのかと思われても仕方ない。あの出来事を知っているのは私だけなのだから。
「ほら、ずっと女子が男の部屋に一人でくるなって叱られてたからさ。婚儀が決まった以上はね。客間なら平気でしょ」
 言うと、そうね、とお近さんは頷いて、今から行ってくるからと去って行った。


 客間で待っていれば、ほどなく蒼紫さまが入ってくる。黙ったまま私の前に腰を下ろした。
 こうして向き合って座るのはいつ以来だろうか。私は緊張していた。
「何故、ここへ」
 蒼紫さまは一段と低い声で、お近さんと同様の問いを口にした。 
「年頃の娘が男の部屋へ行くのはよくないって、蒼紫さまが言ったんじゃない」
 私も、同じ答えを繰り返す。
 蒼紫さまの部屋へ行くと決まってそう口にしていたのは事実だ。私が「えーいいじゃん」とふてくされた顔をすると「しょうがないな」というように息を吐く。それがお許しの合図だ。最後は私のことを受け入れてくれるのだから、いちいち言わなくてもいいのではないかと思ったけれど、必ずこのやりとりをしていた。蒼紫さまらしいと感じられた。
「じいやから聞いていると思うけど、私、お嫁に行くことにしたの。だから余計に。他の男の人の部屋に行くのはよくないでしょ? 貞操は守らなくちゃ」
 私はわざと冗談っぽく言った。
 蒼紫さまはにこりともしない。
「……お前にそのような相手がいたなど聞いていない」
 射抜くような鋭い眼差しで見つめられ、私は思わず俯いた。
「どういうことか説明しろ」
「説明って……だからさ、お嫁に行くことにしたの……”ぷろぽーず”されてそれを受けたんだよ」
「だから、何故そのような話になった。相手は誰だ」
 無口な蒼紫さまにしては珍しく次々と質問が飛んでくる。反して、おしゃべりなはずの私の口は重い。それでも黙っているわけにはいかない。
「……三間さんって、少し前に会ったことあるでしょ? あの人」
 言いながらチラリと蒼紫さまを盗み見る。無表情だ。蒼紫さまは好ましくない感情が高ぶるほど無表情になる。これはかなりまずい。
「お前はあの時、三間という男の妹と友人だと言っていなかったか」
「……うん」
「それが何故、このような話になる」
「何故って……一緒に過ごすうちにこの人となら夫婦になろうと思えたっていうか。って、そんなこと言わせないでよ。恥ずかしいじゃない」
 誤魔化すように手をひらひらさせながら、「もうやだぁ」と茶化してみる。けれど、そんなことで誤魔化される相手ではない。
「操。」
「……はい」
「その男と、知り合っていかほど経つ」
「……一月くらい?」
「それほど僅かの時間で何がわかる。夫婦となるとはままごと遊びとは違う。婚儀は認めん。頭を冷やせ」
 にべもなく告げられる。
 その言葉は私の心に火をつけた。
「お見合い結婚なんて、会っただけで決めちゃうんだよ。それで睦まじい夫婦になる人だっていっぱいいる。出会って間もないから反対だなんて理由は変だよ」
 蒼紫さまの冷たい眼差しを見つめ返す。
 負けてはいけない。私は、生半可な気持ちで婚儀を決めたわけではない。
「それに、長い間一緒にいたからってうまくいくわけでもないでしょ?」
 私はこれまでの人生をかけて思ってきた人から振られたのだ、とまでは言わなかったけれど意図することは伝わったようで、蒼紫さまの表情が僅かに動いた。
 私ははっとなった。これではまるで非難しているみたいだ。否、非難したのだけれど。頭ごなしに否定されたことで、つい言わなくていいことを言ってしまった。
 気まずい空気。私が招いたことだが、いたたまれない。
「と、とにかく、近々三間さんがご挨拶にくるから、時間が合えば蒼紫さまも会ってよ。三間さんすごくいい人なんだよ。会ってじっくり話せば蒼紫さまもきっと賛成してくれると思う。日程が決ま――」「お前はその男が本当に好きなのか」
 早口にまくしたてる私の言葉をねじ伏せるように蒼紫さまは言葉を重ねてきた。
 一瞬、何を言われたかわからず口ごもるともう一度、
「その男を好いているのか」
「……好きに決まってるじゃない。そうじゃないなら夫婦になろうなんて思わないよ」
 私は答えた。
 けれど、蒼紫さまは”笑った”。この状況で笑うなど理解できない。
「お前は、嘘が下手だな」
「嘘じゃないよ!」
「俺をだませると思うな」
 強い口調で返されて、私はドキリとした。
 嘘――京一郎さんのことが好き。それを嘘だと言われれば嘘なのかもしれない。蒼紫さまへの気持ちのような情熱的な感情を京一郎さんへ抱くことはこの先もない。けれどそれとは別の穏やかで優しい気持ちを抱いている。友愛という信頼を寄せている。それも一つの”好き”という気持ちだ。だからやはり嘘ではない。
 心の中で自分を弁護した。
 私は嘘などついていない。
「お前は今、冷静さを欠いている。そのような状態で物事を決めてもうまくいこうはずがない。婚儀は認めん。わかったな」
 蒼紫さまそう言うと話は終わりだと立ち上がろうとする。
「嫌よ。私は”京一郎さん”と夫婦になる。蒼紫さまに認めてもらう必要なんてないわ!」
 ほとんど叫びに近かった。
 蒼紫さまは浮かしかけた腰を降ろした。一瞬前まで静まっていた空気がたちまちに凍りつく。
「お前のことは先代から頼まれている。俺に認められる必要はないなど二度と口にするな」
 私は唇を噛む。言い過ぎた自覚はあった。これまで蒼紫さまがどれほど私を気にかけてくれていたか。それを思えば、言ってはいけないことだった。けれど、同時にやるせなさに襲われた。私は蒼紫さまに親代わりを望んでいたわけではなかったから。
 重たい沈黙が、私たちを包み込む。
 どれほどそうしていたか、ふと蒼紫さまが口を開く。
「……――わかった。お前にばかり諦めろというのは不平等だ。俺も女とは別れる。それならばよいだろう」
 だけどそれは、まったく理解の出来ないことだった。
「なにそれ」独白のようなつぶやきが漏れる。でもそれはしっかりと蒼紫さまに届いた。
「お前が婚儀をすると言い出したのは、俺への反発心だろう。俺のせいでたいして好いてもいない男のところへお前を嫁がせることになれば先代にも顔向けできん。女とは別れる。お前も考え直せ。よいな」
 それで何もかも元通りである――蒼紫さまは言った。その表情はどこか満足げにも見えた。
 だけど、私は。
「なにそれ」またその呟きが。でも先程とは質も重みも違った。
 どこが元通りなのか。何が元通りなのか。
 蒼紫さまは何もわかっていない。たとえ蒼紫さまがその女性と別れたとしても、蒼紫さまが私を女として見ることはない。日の元へ照らし出された事実を知らなかった頃にはもう戻れない。
 女と別れたら元通り? 
 そんな単純なことではない。何より、
「そんな簡単に別れられる程度の"好き"だったの?」
 蒼紫さまから好きな人がいると告げられて、私がどんな思いになったか。それでも、蒼紫さまが選んだのだから仕方ない、私にはどうしようもない、と自分を説得しようとした。だけど、それを傍で見ているのは今の私にはとても辛くて――いつか、笑って、心の底からの笑顔で向き合えるまで時間が必要だった。そんな私へ京一郎さんは救いの手を差し伸べてくれた。私はその手をとった。
 それを、蒼紫さまは反発心だと言った。当てつけに京一郎さんとの婚儀を決めた。蒼紫さまの幸せを喜べず嫌がらせに好きでもない男と婚儀をすると解釈した。そういう風に思われる可能性は、他のみんなの反応からも想像できたけれど、本人からここまでいわれるとは。更には、ならば女と別れると。私が自暴自棄な振る舞いをするから別れる。私のために別れてやると言った。
 そんなのってある?
 何もかもが踏みにじられた気がした。私の蒼紫さまへの気持ちを蒼紫さま自身が踏みつぶした。
 蒼紫さまは黙ったまま何も言わない。
「……私は京一郎さんのこと好きです。あの人の傍にいると笑ったり泣いたり、我慢することなく素直な気持ちでいられる」
 荒れ狂う心の内とは裏腹に穏やかな声がでたことに自分でも驚いた。
「私も私で幸せになるから、"私のために"好きな人と別れるなんて悲しいこと言わないで、蒼紫さまも蒼紫さまで幸せになって。それが私の今の願いだよ。私のせいで蒼紫さまが不幸になるなんて、そんなの耐えられない。だからもう、そんなこと言わないでね」
 そう告げた私の顔は笑っていたと思う。だけど蒼紫さまは全く信じてくれていない様子だった。私の言葉を疑って不愉快そうに顔を歪めた。だから私はより一層にっこりと笑った。