月に狼
第三夜
たぶん、彼は頭がおかしいのだ。
最悪の夜、泣き疲れて眠りに落ちると、死んでしまってから初めて母が夢に出てきた。
あの日、痛ましい事故の日、母は美容院に出かけていた。私が見立てた淡いピンク色のセーターとグレイのスカートと薄いベージュのコートを羽織り、合わせる靴がないからと私のショートブーツを履いて行った。いつもは動きやすいトレーナーとGパンだけれど、美容院に行くときは気合い入れる。綺麗な格好で行って、それに見合う髪型にしてもらいなさい。それが口癖だったから。カラーリングをして、髪も巻いてもらって、気持ち十歳ぐらい若返ってうきうきしていたのだろうなぁと想像がつく。そして、よい気分を理由に、今日は外食にしましょ、ときっと言い出したに違いない。あんな事故がなければ。
警察から知らせを受けて駆けつけると母はすでに絶命していた。跳ねられ地面に叩きつけられ、頭の打ち所が悪くほぼ即死だったという。けれど、外傷はそれほど多くはなかった。服装も顔も、髪型も、とても、とても綺麗だった。あまりに綺麗なので死んでるなど思えなかった。
母はあの日の服装で夢に現れた。私は掛けより抱きついた。そんなこと生前したことがない。いや、ずっと幼い頃ならあったかもしれないけれど、大きくなってから、記憶にある限りではない。私たちはスキンシップの多い親子ではなかった。友達親子みたいな、腕を組んで買い物にいくようなことはなかった。
おかあさーん。おかーさーん。
抱きつくと、腕が母の腰に回る。あれ? と思った。泣きながらでも違和感は理解できた。自分の身体が子どもの、おそらく六歳くらいの頃にもどっている。見上げると母の顔も私が見慣れていたよりぐっと若い。
「なんで?」
「さぁ、どうしてかしらね。こんな風になっちゃった」
何に対しての「なんで」かが抜け落ちていたけれど、母は理解し答えてくれた。しゃべり方も肉体に合わせてか、女子大生みたいな口調に感じられたが、母の言葉は私を落ち着かせた。たとえ女子大生みたいでも、母が目の前にいて、何かを返してくれるということの心強さに。
「ねぇ、それより見て。どう、この髪型決まってる?」
母は自らの髪の毛を触った。巻髪がふわりと揺れてなびいた。
「うん。とっても似合っているよ」
「でしょ。あーあ、せっかく綺麗になったから三人で食事に行きたかったなぁ」
ますます女子大生みたいだった。
夢とはいえせっかく会えているのに言うことがそれか、と思ったけれど、不思議と嫌な気持ちにはならない。そういえば母は悲しいときや辛いときほどお茶目なことをいう人だったと思い出したからだ。暗くならないように、笑わせようとしているのだろうけれどだいたいそれは失敗する。だけれど父も私もそんな母をとても愛していた。
お母さん、ともう一度呼びかけようとしたのに喉が震えて声が出せない。代わりにぎゅっと抱きつき母の匂いを薫ろうとしたけれど、何の匂いもしない。私はそれで、ああ、やっぱりこれは現実ではないのだ。夢か、夢ではなくひょっとして霊界と現世を繋ぐ特別な場所なのか、わからないけれど、少なくとも現実ではなくて、今、こうして目の前にいる母は奇跡のようなもので、目が覚めてしまったら消えてしまう存在なのだと痛感した。そしたら、とんでもなく寂しいと、また声を出しておいおい泣いた。
「操。大丈夫よ。ね、泣かないでも大丈夫。これから楽しいことも、嬉しいことも、いっぱい待ってるから。最初は辛くても、必ず幸せになれる。だってお母さんがお願いしたんだもの。神様に、操を誰よりも大事にしてくれる人と出会わせてくださいって。そしたら事故に遭ったことも、さよならも言えずに家族を残して死んでしまったことも受け入れます。でもそうじゃないなら、恨みますって」
「……それって脅しじゃないの?」
私が言うと、母はにっこりと笑顔になった。
「そうよ。操のためなら神様だって脅すわよ。だから大丈夫よ。幸せになれる。絶対」
そうだろうか。神様を脅すなんてとんでもないと罰せられたりしないのだろうか。私は心配になったけれど、母の力強い笑顔を見ていると何の心配もないと思えてくる。
「大丈夫。大丈夫」
繰り返されるそれは、まるで魔法の呪文のように私の耳に届いた。大丈夫。大丈夫。そう、母が言うのならきっと本当に大丈夫なのだと――。
「あ、それから靴、勝手に使っちゃってごめんね。お気に入りの靴だったでしょう」
母が謝罪する。なんだかそれもまたピンとがズレていたけれど、私は笑った。
目覚めると甘酸っぱい悲しみに浸されてはいたが、眠る前に感じていたようなどうしようもない悲しみとは違って静かな気持ちになっていた。母が心配して夢枕に立ってくれたのかもと思うと、胸がいっぱいになるし、母が安らかでいられるようにしっかりしなくてはと思う。とにかく、荒ぶれた最悪な状態から確実に浮上していると感じられた。
起きて、洗面所へ向かう。電気をつけると三面鏡に映り込んでいた姿が灯の元に映し出される。目は幾分腫れぼったかったが冷や水で洗えばすぐに治まるだろう。蛇口をひねりゴシゴシと乱暴にこすると盛大なため息も一緒に出た。
歯を磨いている間に朝食を何にするか考える。食パンがまだ残っていたはずだし、ベーコンもある。卵は目玉焼きにするか、スクランブルエッグにするか、それともゆで卵にするか。口をそそぎ、洗面所をあとにしてキッチンへ向かう。途中、廊下で父とすれ違う。電話中だ。行ったり来たり右往左往している様子に不審するが、父は私の存在さえも目に入っていないようだった。
誰からだろうか。疑問と共に、母の夢を見たことが蘇り、ひょっとして誰かに不幸があったのかと、それまでのやんわりとした心地がひっくり返る。幸せな気持ちを運んでくれた夢だが、死人の夢というのは縁起のよいものではないのかも、と不安が立ち上げてくると一挙に飲み込まれて動悸が早くなる。それを誤魔化したくてキッチンへ向かう。
食パンを二枚トースターにかけ、ブロックのベーコンを切る。包装から出すとラードでたちまち手がべとついたが構わず包丁を握る。父は薄めが、私は厚めが好きなのでそれぞれに合わせて刃を入れる。一枚目を、ゆっくり力を入れて切り終えたところで父に呼びかけられる。
振り返れば、神妙とも困惑ともつかない曖昧な顔をしていたが、予想していたような悲しみも沈痛さも見受けられなかった。
「何かあったの?」
尋ねても、唇を開きかけて躊躇う。何かとてつもなく言いにくいというより、どう伝えればいいのか混乱しているという感じだ。
「誰からだったの?」
質問を変えてみる。最初はやはり躊躇ったが、
「剣心くんから」
聞き慣れた名前が返ってくる。
「事故にでも遭ったの?」
一番当たってほしくない疑問をぶつけた。
剣心さんが事故に遭っていたとしても自ら電話をかけてこられるくらいなら軽傷にちがいないが、奥へと押さえ込もうとしていた不安が浮上して、冷静さ失いそうだった。
「いや、そうじゃない。そんな事故なんて立て続けに起きたりしないから」
父は私の問いかけを力強く否定した。言い淀んだことで、私が母の事故のことを思い出していることに気づき慌てたようだった。私がこくりと頷けば同じように頷いてから、
「剣心くんがこれからくることになった」
なんだ。剣心さんがくるって話か。脅かさないでよ、ともごもご口の中でつぶやいたけれど、緊張感が消え去らない。父の表情が堅いままだったから。
「それから、蒼紫くんも来る」
蒼紫くんと聞かされても、それが四乃森蒼紫と一致するまで時間がかかった。理解して、あっと声が漏れれそうになったけれど下手な反応はしないほうがいいと飲み込んだ。昨夜の、大泣きの原因を父には知られたくなかった。
「なんで四乃森蒼紫が来るの?」
知られたくはないのに、普通には装えず声がつっけんどんになってしまう。私は姿勢を炊事場に戻し、ベーコンを切り始める。父用に薄目に切らなければならないのにうまくいかず、途中で切れてしまった。あーあ、と落胆する。
「彼の目的は求婚だ」
父の声がする。
きゅうこん――聞き慣れない言葉が頭の中に平仮名で浮かんだ。それを変換しなければならないが、キュウコンとカタカナに代わりそこからぴくりとも動かない。キュウコン。キュウコン。
「どういう意味?」
もう一枚、切らなければならないのに包丁を持つ手に集中出来ない。振り返ることも恐ろしくて出来ない。聞かされた内容は私の心の中で宙吊りにされている。それが受け入れがたいものであると本能が察知しているのだろう。と、分析する余裕はある。いや、そうではなく、そういう風にどうでもいいことを考えて落ち着いていたかったのだ。
「蒼紫くんは操を嫁にすると言っているらしい」
私の態度にしびれを切らしたのか、或いは父自身の動揺が爆発したのか、大きな声になっている。それで私は振り返ってしまう。父の真っ直ぐな眼差しとぶつかる。冗談ではないのだと、現実を知らしめるような目力に圧倒され、私は呆然と立ち尽くすしかなかった。
狼というのは一途な動物で、一度伴侶を決めれば死ぬまで添い遂げる。それは人狼にも共通し、彼らはたった一人、生涯を共にする相手を見つけだし、夫婦となる。一度見初めれば揺るぎなく、その人物だけを愛す。
朝食を準備する暇もなく、彼らがやってきて、私は無抵抗にテーブルについた。私の横に父が、正面に剣心さんが、そして斜め前に四乃森蒼紫が座っている。お茶を煎れてくれたのも、話を切りだしたのも、説明してくれたのも剣心さんだった。
私は初めて知る狼の生態に、へぇと頷き、人狼は狼の性質が強いのか。人間は地域によっては一夫多妻、多夫一妻あるのものね、と意外にものんびりとした気持ちでいた。その話と私との間になにの接点もないから、ふーん、という感じでいた。もちろん、本当は他人事ではないとわかっていたけれど。
剣心さんが話し終える。といっても、一番肝心の部分には触れていない。重たい空気を破ったのは父だった。
「それで、本当に操をその……」
電話で聞かされた内容――四乃森蒼紫が私と結婚すると言っていた真偽を問いかける。
しん、と静まりかえる。沈黙。耳鳴りがしそうな静けさがとげとげしく肌を刺す。私は誰の顔も見ることができずに湯飲みを凝視していた。
「私も、信じ難い思いでいます」
四乃森蒼紫の低い声がした。
「我々一族は、伴侶を見つけたとき本能で察知すると教えられました。正直、私はそれがどういうものか全く理解しなかったし、そんなもの単なる思いこみに過ぎないと思っていました。ですが、それが事実であったと認めざるを得ません。いいえ、最初はそれでも否定しました。こんな年の離れた子どもを相手と認証してしまうなど、全く信じ難く、何度も違うと否定し、気のせいだと言い聞かせましたが、しかし、いかに抗っても無理であることを悟り、今日に至ります。ですので、お嬢さんと結婚を決意しました」
手持ちぶさたで膝の上に置いていた手が自然と拳を握っている。何か、とても、嫌なことを言われている。胸がひどく痛く、ふぅーっと細く長く息を吐き出すと目頭が熱くなったが気持ちはさめざめとした。
顔を上げると、四乃森蒼紫の顔がくっきりと見えた。彼は私を見ていた。私も彼を見つめた。目をそらしたら負けだと思った。
「そんなに嫌なら、嫌で結構ですから、気の迷いを貫いてください。結婚の決意をした? ふざけないでよ。私にだって選ぶ権利はある。あなたと結婚なんて冗談じゃない」
声は震えることはなかったし、熱を帯びすぎて怒っているということもなかった。驚くほど静かに言えた。感情が煮えたぎりすぎておかしくなると、返って冷静になるのだろう。
私の言葉に、四乃森蒼紫の瞳が鈍く揺れたように見えた。動揺しているように。それは間違ってはいなかった。
「……君は、私が嫌いなのか」
何を言っているのだろう、と笑い出したいくらい虚をつく質問だった。四乃森蒼紫が私を嫌がることがあっても、私が四乃森蒼紫を嫌がることはないとでも考えているのか。どうしてそんな風に思えているのか、まったく理解不能だ。
「嫌いです。」
決まっているじゃないか。これまでのあれこれを考えてみても好きになる要素が思いつかないとキッパリと告げた。
四乃森蒼紫の切れ長の涼しげな眼差しが愕然と見開かれ、動揺し、目を白黒させた。かと思うと 、
「申し訳ないが、手洗いを」
ガタンっと大きな音を鳴らして椅子から立ち上がりふらふらとリビングを出ていく。
四乃森蒼紫の姿が見えなくなると、肩から力が抜けていくのがわかった。緊張からか、怒りからか、身体が堅くなっていた。それは心も同じだ。けれど”敵”がいなくなり武装する必要がなくなったので力が抜ける。ところが。
「ちょっと僕、様子見てきます」と剣心さんが四乃森蒼紫の後を追いかけて行き、
「操。今のは言い過ぎだろう」と父が私を咎めた。
息をつき、緩んで、安心していたところに鉄槌が飛んできたような衝撃だった。目の前が真っ赤に染まる。
父も剣心さんも私の味方ではないのか。二人とも四乃森蒼紫が何を言ったか聞いていたはずなのに。
「どうしてよ。先にひどいことを言ったのは向こうじゃない。どうして私が責められるの!」
目の前の湯飲みを掴み投げつけたい。壊してしまいたい。何もかも。裏切られた。この世に、私を一番に考えてくれる人はいないという寂しさと絶望に打ちひしがれる。
「別に責めてはいないだろう……ただ、好意を寄せてくれている相手に『嫌い』と告げるのはよくないだろう」
「好意? あれのどこが? 私のことなんて好きになりたくないけど、そういうことになってしまったので仕方ありませんから、なんて言うののどこが好意なの? お父さんは娘があんな失礼なこと言われて平気なわけ?」
「彼はそんな悪い意味で言ったわけではない。彼らが伴侶を見初めるということがいかに重大なことか少しもわかっていないだろう。その相手に嫌いと言われたら――」「もういい。聞きたくないし、知りたくないし、私が傷ついたことよりも、あの男のことが大事なんでしょ。最悪」
言い捨て、ドタドタと階段を踏み鳴らし部屋に引き上げる。
ぐぅとお腹が鳴った。デジタル時計に目をやると二十一時を指している。
あれから三十分ほどして階下から私を呼ぶ声が聞こえたが、返事はしなかった。連れ出しに来るかと警戒していたが強引な行動に出られることはなく、彼らは帰った。その後、何度か父が声をかけに来たが無視続けて今に至る。
そろりそろりと降りていく。リビングに人の気配はなく真っ暗だった。私は手探りで照明のスイッチを押す。明るくなると、テーブルには晩御飯が用意されているのが見えた。
父が作ってくれたのだろう。
私は涙が出そうになる。
両親と喧嘩したことはこれまで幾度もあり、その度に私は部屋に籠城する。けれど時間が経てばお腹が空いて降りてくる。すると、決まってテーブルにはご飯が用意されている。自分を棚に上げてひどいことを言った後だというのに、きちんと私の分も作ってくれている。母がそうしてくれたように、父もまた作ってくれていたという事実に、先ほど勢いに任せて吐いてしまった暴言を思い出し胸が掻き毟られた。
空腹は吹き飛び、ぼんやりと見るともなく視線を漂わせていると
「起きてきたのか」
いつのまにか父の姿があった。お風呂上りらしく、タオルで乱暴にゴシゴシと頭を拭っている。そのまま私を横切り冷蔵庫からお茶を取り出してコップに注ぎ、喉を鳴らしながら飲み干した。
さっきはごめんなさい。と言おうとするが、気恥ずかしさに襲われ黙ってしまう。
「風呂、そのままにしてあるから、早く入りなさい」
父はごく自然な口調で言った。責められたり、叱られたり、無視されたりしなかったことに安堵しながらも、緊張が渦巻くという奇妙な状態に私は陥った。よくわからない。すべて何もかも夢であったのかと思えた。
「朝はすまなかった」
けれど、父は言った。
「えっと……私もごめんなさい。お父さんに八つ当たりしてしまって」
「いや、お前の混乱をもっと受け止めるべきだったのに、誤解されてもしかたがない。男親はこういうときダメだな。母さんがいてくれたらって思ったよ」
胸が震えた。母が亡くなってから、親子二人での生活が始まり、父が私に対して今までにない気遣いを見せてくれていることを感じとっていただけに、そんな言葉を言わせてしまった自分を呪いたくなった。
「……お父さんは何も悪くないし。お母さんは関係ないし」
ぶっきら棒な、取りようによっては怒っているともとれる声音だった。こういうとき、どういえばいいのか私は言葉を持っていない。けれど、何かを言わなくてはと必死だった。
父は静かに笑った。
「ただ、操。お前が考えているよりずっと事態は厄介なんだよ」
「……厄介?」
「今はまだ、彼自身も半信半疑でいるようだが、これからもっとはっきりと自覚していくことになるだろう。そうなったら、もう逃れられない」
父はため息を吐き出すようにしんみりと告げた。
「逃れられないって、そんな無茶苦茶な」
「だけど、事実だ。彼らは自分の伴侶を誰にも渡さない。もし、お前が他の誰かを選んだとしたら全力で邪魔するだろう。だが、逆にお前がもし、彼を受け入れたなら誰よりも幸せになれるだろう。彼らは伴侶をけして裏切らない。絶対に、だ」
「つまり、お父さんは私があの人と結婚することを望んでるってこと?」
父の発言からは、四乃森蒼紫を好きになれと言っているように思えてならない。それが一番いい方法であるかのように聞こえた。
「……そうではないが…お前には幸せになってほしいと思っているだけだよ」
幸せ、そういわれても私にはちっともピンとこなかった。
まったく、眠れない。
時間が経過すれば落ち着きを取り戻すものなのに、眠れずに寝返りを繰り返す。
ああ、もう、どうしてこんなわけのわからない状態になってるわけ!? とのたうちまわりたい。何がどこでどう間違ってしまったのだろうか。これまで真面目に生きてきたはずなのに。
だいたい、私はまだ十八歳だ。それなのに結婚なんて考えられない。勝手に私と結婚すると言われて納得できるわけがない。
――そもそも、まず最初に、私の気持ちを確認するのが筋ってものじゃない!
今朝のことを思い出すとムカムカが蘇ってくる。
四乃森蒼紫の発言の内容に苛立ったけれど、私の気持ちを聞こうともしない態度にも腹が立って仕方ない。何から何まで一つも気に入らない。
完全なる思い出し怒りで身体が燃え上がってきて、目がギラギラ冴えわたる。そんな自分に呆れながらも怒りの火を消し去ることが出来ずに、気付けば深夜二時だ。これでは明日が辛い。もう寝る。寝る、寝る。と無理やり目をつぶったら、携帯電話が鳴り響いた。ビクっと身体が跳ねあがる。こんな夜中に誰からか。画面を見ると”四乃森蒼紫”出ている。以前、教えてもらって登録したまま削除し忘れていたものだった。
――なんで?
頭が真っ白になる。
「もしもし?」
怖いもの見たさの心理か、躊躇いよりも驚きに後押しされて出てしまう。
呼びかけても相手から返事はない。顔から携帯を離して画面を確認すると通話時間がカウントされているので、繋がっているはずだ。
「もしもし?」
いたずらなのかと気味悪くなって切ろうとしたら、
「……みさお、」
声がした。電話で話すのは初めてだけれど、それが四乃森蒼紫の声であるのは間違いなかった。
「こんな夜中に何ですか」
強い口調になってしまう。
というか、四乃森蒼紫からは番号を教えられたが、私からは教えていないはずだ。どうやって私にかけてきたのだろうか。剣心さんに聞いたというのがしっくりくるが、私の許可なく教えたりはしないだろうと思われた。
「すまない。起こしたか」
いつになく殊勝な物言いに感じる。
「なんですか?」
私はそれには答えず、要件に入れ、とばかりに言った。
今、この人と穏やかに話すなど出来そうもない。
「どうしても、確かめておきたいことがあって」
「だから、なんですか」
四乃森蒼紫はなかなか本題を切り出さない。私は先を促すが、四乃森蒼紫は何故か口籠る。沈黙が訪れ、だんだんと私が意地悪をしているような気がしてくる。仕方なく、それ以上は催促せずに黙っていると、たっぷり一分は間をとられた後で、
「……俺を嫌いというのは本気か」
「は?」
何を言い出すのかと思えば、こんな夜中にそんなことを聞くために電話してくるかと私は唖然とする。
「それって、夜中に電話かけてきて聞くようなことですか?」
「俺も好きでかけているわけではない。ただ、このままでは眠れそうにないので仕方がなかった」
のうのうと返される。先程まであったと感じていた殊勝さは勘違いだったと言わざるをえない横柄な物言いに思えた。
「私もかけてほしいと頼んでませんし、嫌ならかけてこないでください。だいたい、私、あなたに番号教えた覚えありませんけど。勝手に調べたんですか。迷惑ですからやめてください」
「めっ……よくそんな辛辣なことが言えるな」
「辛辣って……あなたが失礼なことばかり言うからでしょう。なんでもかんでも私のせいにしないでよ。話すことは何もないですから、二度とかけてこないでください」
捨て台詞を告げて電話を切ると怒りと悔しさでむかむかして叫びだしたかったけれど、夜中に奇声を発するわけにもいかず、代わりに布団を頭からかぶり荒ぶる感情をかみ殺した。傍で着信音が鳴り続けるが身体を丸めて耳をふさいでやりすごせば、やがて諦めたのか音は鳴りやんで室内が静寂に包まれた。
2014/1/27
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